2016年12月 石鎚神社先達用記 鳳凰石・孔雀石・鐵炮石・駕籠舁石 | 旅する石鎚信仰者

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やはり石鎚山は素晴らしい。

@81


 

石鎚神社先達用記

今日もこの冊子の中から気になる所へ行ってみよう。

これは明治発行の石鎚山・石鎚神社の事を記した小冊子で明治14年6月15日に

出版されたもので現存するものは少なく、はっきり言って何を書いてあるのか分

らず1頁の文章を解読するには僕の頭で数日は要する内容である(^_^)。

そして愛媛県県立図書館に行けば持ち出しはできないが、見る事も写真撮影

できる、始めて見たのは数年前であるがようやくこの冊子の中から特に気

部分を実際に探し出している。

そして自分的に数少ない頁の中でもいちばん目を引く頁があり「赤瀑之圖」と記

され鳳凰石・孔雀石・鐵炮石・駕籠舁石の図が書かれてある ! !

これを現代語に訳すと「赤滝の図・ほうおう石・くじゃく石・鉄砲石・かごかき石」と

なる訳だが、図を見れば分るがこんな物が本当に存在したのか?と誰だって

思うような図である ! ! しかし今までの経験上こういう石って今もそのまま残って

いるのよね、そしてこの石の場所は以下のように記されてある ! !

「第二の鎖の下より右に入る険しい小道あり、西に向いて行く事872m~案内者は谷を越え峠をよじ登り南東へ向いて踏み跡ない笹原を行く事3927mにして鳳凰石あり縦2.4mほどあり、すぐ脇に孔雀石ありその大きさ鳳凰石と同じ、109mほど過ぎた所の滝は234m幅18mあり面河川へ流れている、ここより東を見上げれば岩壁は鉄砲石あり、その大きさ横10.8m幅1.5mから1.8mあり、又そこを隔ててかごかき石あり縦7.2m横5.4mあり、自然とは思えない精巧な彫刻のように見える」とある ! ! (主要な所だけ抜粋・僕が訳したので適当だよ)

しかし岩の大きさはともかく落差234m幅18mの滝ともなると高瀑の滝の倍ほど

ある滝が石鎚山系に存在するはずも無く、こういった文章も柔軟に解読していか

なければ場所の特定はできない、この場合は落差ではなく水が流れ落ちる長さ

と考えるのが適当である、以外にも数字は結構合っているのよね(^_^)。

そして上記の内容と数字から割り出したのが面河渓谷であり、この234mの滝は

現在、鉄砲石川にある「布引の滝」であると判断した、この鉄砲石川上流に

赤石河原や赤水と呼ばれる名所が現在もあり、赤瀑の意味もここからだろう。

何より現在も「鉄砲石」という2mほどの石があり、この渓谷で間違いないと思う

そしてこの布引の滝から東を仰ぎ見れば鉄砲石があり、どういう意味か分らぬが

ここを隔てた所に駕籠舁石がある事になり更にここから109m過ぎた所に鳳凰石

があり、すぐ脇に孔雀石があると言う事である('-^*)/

これで頭の中の地図はできあがった訳であるがこんな形をした石が現在も本当

にあるのかな?と誰もが思うし誰も探そうとはしないだろう。

既にこの石鎚神社先達用記が出版されて135年が経ち現在の面河渓谷の案内

図はもちろん昭和初期の資料や絵葉書・古いパンフにも、これらの石の名は何

ひとつとして載ってないのが不思議である( ̄_ ̄ i)

もちろんググってもヤフっても出てくるはずが無く、明治時代後期には既に忘れ

去られた名所のようである、どう言う事なのか?

と言う事で本日現地調査、こういう石を探すのは落葉した時期で太陽が一番高

位置に昇るお昼前から14時ぐらいに調査しなければならない。

何よりも石の形であるが先達用記に記された図からすると鳳凰石・孔雀石は

岩盤表面の凹凸状の形状がそう見える感じである、鐵炮石・駕籠舁石は岩山か

ら独立した石の像のように見えるのでこれが本当なら見ればすぐに分かると思っ

ていたのだが、やはり遥か昔に消え去った物を現代人の目によみがえらすのは

簡単な事ではなかった ! !

これは中国に行った時の教訓であるが石の形と言うものは人の心の持ちようや

人からこうだと言われるとどんな風にでも見えるという事であるエリザベス

 



先達用記に記された「赤瀑之圖」の頁
鳳凰石・孔雀石・鐵炮石・駕籠舁石の絵が招かれている
今までの経験上こういう石を探す時は
絶対この図を信用してはならない事である ! !
間違いなく大げさに記されていて見方によっては
ありもしない事実を自分の中で造ってしまい
見つかるはずの物がみつからなくなる
これが分っていても現地では妨げとなるのよね
今回も勝手な思い込みからしばらく放心状態に(>_<) ! !
しかし見れば見るほど現物を探し当て
見てみたくなるのは僕だけではあるまい ! !

「第二の鎖から西へ向いて八丁」
「東南へ向いて笹原を一里にして鳳凰石あり」
要は西之冠岳辺りから4キロ南東にいきなり高さ2.4mの
鳳凰石がありそこから100m先に滝があるとの事で
あるがもし滝の大きさが記されていなければ
場所の特定はできない無い内容である

しかし今回の石探しは弱点があり
この4つの石いずれか、もしくは記された滝が見つかれば
すべてを発見できるし確信できるという事である ! !
まぁ間違いなくこんな説明だけでこの石を探しに
行く者は僕以外に考えられないだろう(^_^)。
逆に言えば僕しか見つける事はできないのである

お昼前面河渓谷へ

国民宿舎面河が鉄砲石川入口である

この時期は閉店・スカイラインが閉鎖になれば
ここへ来る人は居ないに等しい

ここに面河渓谷全体図がある
そして鉄砲石川に入ってすぐの所に鉄砲石の
文字があるがこれは今日探している鉄砲石ではない
ここに目的とする他の石の名も無い ! !
すべては明治後期に消え去った石なのだ

国民宿舎右奥に入り口はある

この素掘りのトンネルの先が鉄砲石川
さぁどんなドラマが待っているのか?

す~っと冷た~い空気が通っている

トンネルを抜けるとまったく別世界
奥地まで林道が走り道に迷う事は無い
昭和30年(1955年)、石鎚山は国定公園に指定され
この林道ができたのは昭和29年に始まり
昭和36年に完成したと記録がある
先達用記が出版された明治14年に
ここに道があったとは思えない場所である
と言う事は当時は河原の中を歩いて行った事になる

キャンプ場を過ぎてすぐ右上にこうもり石がある
大きなバットマンのような石である

すぐ隣にある現在の鉄砲石
2m程の細長い石でありとてもこの川の由来に
なるような迫力ではない
僕が探しているのは横11m幅2mの巨石で
先達用記の図では大砲のような石である

そしてトンネルから15分
櫃ノ底・紅葉岩・お月岩を過ぎ錦渓橋に着く

「きんけい橋」と記されている

橋を渡った所にある「兜岩」の看板

錦渓橋上から見る兜岩
ものすごい迫力である ! !

その奥に見えるのは鎧岩
兜岩と鎧岩は繋がっているのだ
そして ! !

先に記しておくとこの兜岩下部に
鳳凰石と孔雀石がある ! !

錦渓橋から少し進むと右側に河原に下りる道がある

河原におりて左側は鎧岩がせり立っている

そして正面には孔雀石 ! !
僕はこの岩壁を見て孔雀石とすぐに分った
左が頭で右へ羽が広がっている

そして右側には鳳凰石 ! !
こちらは僕的には微妙であるが先達用記の図を
思い浮かべるとそう見える

左側が孔雀石・右側が鳳凰石
どちらもそう思って見ないと分からないし
人それぞれ見方は変わってくると思う
しかしこの後に続く滝と鉄砲石・駕籠舁石の発見が
この岩壁の模様を鳳凰石・孔雀石と決定付けるのだ ! !

先達用記には鳳凰石から
1丁(109m)先に滝があると記されている
そして歩く事100mちょっとで布引の滝 ! !
まさしく予想通りの展開に感動である(^_^)。

先達用記には「直下百三拾間巾拾間あり」
と記されていて長さ234m幅18mとなる
目測ではあるがまったく違う訳でもなく
幅に関してもどこからどこまでの幅とも言えず他に
これほどの数字が当てはまる滝もこの辺りに無く
先ほどの鳳凰石・孔雀石からの距離からして
この滝が記されている滝であると確信
 
 そして「其より東を仰ぎ見れば岩壁に鉄砲石あり」
其大きさ横六間巾五 六尺あり」とある ! !
んんんんんん~~っ ! !

 誰もが違うと思う光景である ! !
先達用記のあの文章と図からすればほど遠い形である
しかし周囲に該当する岩はまったく無く
東西南北見渡しても山と青い空でしかない
誰もが違うと思うあの縦に並んだ柱状の石が鉄砲石なのだ ! !
図には大砲のような絵が招かれている
これがくせ者で図を信じてはならないと分っていても
文章と関連つけて鉄砲石を横型と思い込んでいるのである
整理すると「岩壁は鉄砲石あり其大きさ横六間巾五 六尺
これは「横10.8m幅1.5mか1.8m」と言う事である
これに僕が納得がいく様に少し付け足してみよう
横10.8mにわたり幅1.5mか1.8mの鉄砲状の石が立っている
赤文字の部分を考慮すれば何の疑問も無く
横型の大砲のような大岩から縦型の柱状の
石に変わるのである、図を信用してはならない ! !
この事に気がつくまでに現地でどれだけ悩んだ事か
もうひとつの可能性としてあの木の中に
大砲のような大岩が横たわって隠れているのかな(^_^)。

そして「鉄砲石を隔てて駕籠舁石あり」
この「隔てて」という意味が難しかったのだが
谷間を挟んで右の岩肌へ目をやると ! !

これが駕籠舁石である ! !
何と自分の予想を超えた微妙な光景である
独立した石像ではなかったのだ
またもや図を信じてはならぬと言う教訓
しかし滝の場所から文の通りに2つのそれらしき
石を見る事ができる、先の2つの石といい
状況からしてすべて間違いないと判断
昔の人の想像力は計り知れないと思うばかりだ


布引の滝から更に進むと橋がかかっている

楓渓橋(ふうけい橋)とある

この橋から拝する川底は赤褐色であり
赤石河原と呼ばれる所である
この辺りの事から赤瀑(あかたき)と呼ばれたのだろう
そして遥か昔この辺りから現在の石鎚山面河道の
愛大小屋手前、当時「エンマ畝」という所に
繋がる登拝道があった、この道は昭和の書物にも
記されていて近年取り上げられている
ちなみにこの辺りの川筋にはエンマ淵という名が
天下の絶景面河渓 に記されている
今日また明治以前の名所が再び現代によみがえった
景勝地が数多くある面河渓谷
昭和に国定公園に指定されるより遥か昔に
なぜ石鎚神社先達用記にこの4つの石が記されたのか?
そしてなぜ明治時代で消え去ってしまったのか?
過去・現在・未来と人の考え方を表しているようである



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