石鎚山探索 955頁の結末とは
佐川町史(下巻)という分厚い本の955頁のたった一節だけにこう記されている
石鎚遥拝所
「虚空蔵 三宝山 西山 小奥 上郷荷稲 などの地域いたる高峰にある」以上
普通ならたったこれだけの情報で探しに行こうとも思わないだろう、しかし経験と
時間と執念があれば見つかるものである、しかし無理なものは無理と言う事
昨年この5ヶ所をすべて調査したが三宝山と上郷稲荷の2ヶ所はどうしても発見
する事ができなかった、しかし最近になって読者の方から上郷稲荷 の石鎚さん
の情報を戴き発見する事ができ、残るは三宝山のみとなった
しかしどがいに調べても佐川町に三宝山と言う地名や山は無く、佐川町のどの
書物にも記されていない、この「三宝山」と言う文字は佐川町内には存在しない
事から場所の特定ができず必殺の現住民聞き込み調査ができなかった。
1度は諦めた調査だが残るは1つともなると何としても見つけてみたい石鎚さんで
ある、そして今回思い付いた必殺技は佐川町役場へ乗り込む事に
ここなら地元各地区の方が長年働いているので年配の人を捕まえれば何かの
情報があるかも知れない、そう思ったのであるが僕は気が小さいので入りにくい
しかしこういう所って散々たらいまわしにされるのよね、小さな町の役場なので
観光案内部署などあるはずも無く地図に無い地名を普通に聞いても分かるはず
もないので若者が食事に出かけるお昼休みを狙って行ってみた
何よりも年配の方を相手にするは自分的にも得意分野である
そして電気も消された薄暗い1階ロビー総合受付で「観光案内所ありますか?」
と尋ねると予想通り、ありません
そして粘り強い問いかけの結果「チーム佐川」という部署を紹介していただいた
聞くもやはり、知りません(>_<) ! !
気力は果て途方に暮れる寸前で、隣の部署に居た年配の男性から声が
「三宝山知っとるよ、子供の時はそう言よった ! !」
すべてが功を奏し三宝山の場所を特定する事ができた。
そしてこの山が三宝山(さんぽうざん)であると地図で教えてくれるも、登山口が
あるのか無いのかも分からないと言う。
ここからは自分の直感を働かして現地聞き込み調査である、三宝山の北にそれ
らしき細い道が地図で確認できた、ここから入ってみよう
そして「どうなってもいい車」で「どうなってもいい格好」で現地へ乗り込み徒歩に
て調査開始、林道入口最後の民家軒先に超お爺さんがぼ~っと座っていた。
あの~と問いかけると三宝山は目の前で登山口はこの先にある鉄塔巡視路だと言う、一発で確認できた
そして無事に三宝山山頂へ立った訳であるが予想に反し山頂までリボンがあり
登山客も登ってきているよう、そして現在この山は「九反田山」と言う山名のよう
で山頂票もあった。
山頂には石垣跡が広くあるものの祠や神社は無く、ずいぶん前に崩れた感じで
今は何もなくなっていた、そして更に調べてみると
「佐川町 わが町の文化財と旧跡」という本の「神社の部」のとこに記されている
「明治四十三年十一月末~(院光寺山)石鉄神社~曽我神社へ合祭した」
とあり、この曽我神社 は既に調査済みであるがこの神社はこの三宝山の南面
の麓にあり院光寺山とはこの三宝山である事も分かった。
どおりで山頂には何も無いはずである、と言う事でこの山は明治・大正・昭和・
平成の間に院光寺山→三宝山→九反田山と山名を変えた事になる、この山が
三宝山である事は2人の現住民の方から証言を戴いているので間違いない。
という事でこの三宝山には石鉄神社があったが明治後期以降は石鉄神社は
山頂では無く、この山の麓の曽我神社へ合祭され山頂は石鎚遥拝所となったと
いう事になり、三宝山の石鎚遥拝所・院光寺山の石鉄神社跡同時に2つの石鎚
さんを今回発見する事ができた。
これでようやくこの本の955頁は無事に完結した訳であるが928頁から937頁まで
これまた意味不明の地名が記された石鎚神社がある
33号線富士見橋から見る三宝山
地図の「市の瀬」と記された下の道にある丹生神社から
あれが登山口の目印と教えていただいた
そしてすぐ先に鉄塔巡視路の入り口がある
鉄塔の真下に出た
登山口を教えていただいたお爺さんには
GPSで確認しても目的とする山頂へ向かっている
僕には何となく参道に見えるのだが