王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

普段口には、しないで
済んでいることを
こっそりと、呟いて…

人は、誰もが
愚かしくも、
あまりにも、簡単に

与えられ具えていた、
徳や尊厳を自ら失くし
迷ってしまうことを
私が忘れぬ為に書く
普段は口にしないこと。


TVで夫婦間の不満が
取り上げられていた。

その中に
何故に夫は
妻が具合が悪いと云うと

すかさず
自分も悪いと云い出すのか?と
いうのがあった。

3度、結婚した私も
3度目の結婚で
初めて、そうした人に
出会った。

百歩譲って
具合が悪い中、
相手も堪えていたのかも…と
思おうとしても

TVの中の
主婦も言っていたけれど
あまりに
毎度のことに成ると

妻が具合が悪いと聞いて
家庭内での妻の役割を
妻が代わって欲しいとか
休みたいと思う気持ちを

聞く前に
自分も具合が悪いと
却下しているように
聞こえてしまう。

当人も、具合が悪いのを
堪えていて
代わるのがしんどい。と
云うにしても

言い方にタイミングって
あるよね。と思う。

もちろん妻の方も
具合が悪いのを堪えて
動いていて、

ソコに夫が
居てくれているから
甘えて

一人ならば
もっと辛抱しながら
用事をやりきって
倒れるように
横になったりするだろう。

だけれども
そうなれば
後がますます
動くのがしんどく成ると
容易に想像できるから

そうなれば
一緒に居る相手に
負担をかけてしまうことを
予測して、

今まだ、少しでも
軽いウチに
全部でなくても
少し手伝って欲しい。と
願うことさえも

そこまで相手言わせずに
競い争い、競り合い
張り合うように
自分もずっと具合が悪い。と

具合が悪いと訴える
妻の方を見向きもせずに
口にする人を見ると

なんか気の毒になってくる
いったい今まで
どんな人と付きあって
来たのだろうか。と

私は、そうした人に
出会っても
この人が、ソコに
居なければ

一人で最後まで
しんどくても
黙ってやるだろうなあ。と
当たり前に思い
そうして声をかけたのが
自分の甘えた想いだ。と

そんな声をかけただけで
甘えさせて貰った。と

ごめんね
具合悪い時に
甘えるようなことを
言って。と

気にせすに…と思う。

そんな関係性の中
ある時、
40度近くの熱が出て
這って歩いて居たけれど

熱のために痙攣まで出て来て
手や腕が変な方向向いて
ひきつけのようになった時も

跨いで、トイレに行く夫に
解熱剤を持って来て
飲ませと欲しいと訴えると

ため息つかれながら
これでいいんか。
しんどいなら
横になっとけよ。と

言われたことがある。

世の中
色んな人が居るよね。

人への要求が
強い人って
何か常日頃からの
自身の在り方が微妙。

入院している時に
毎日、顔を出す行為も
常日頃の日常で
そのような在り方を
している人だと

看護師さん達が
優しい旦那さんね。
仲が良いのね。と
言ってくれようと

心から、
喜ぶことが
出来ない。

愛されることに
飢えるのは
マメに生きることが
出来ていないからではないか。と

他者に求めることが
多い人というのは皆、

何か、ズレているように思う。

誰かのためにという
親切心よりも
自分の体裁、体面、
世間体を
大事にしているように映る。

家族とかなら
家族ぐるみで付き合う関係性が
多いならば
それで良い時もあるだろうけど

相手に何かを
してもらいたい。と

過去の自分に
誰かがしてくれたことを
してくれたら。と
求めてしまうのは

寂しいことだよね。と
過去に囚われ
今の自分は相手に
恵まれることがなく

こうして貰えない。
ああして貰えない。と
思うばかりで

自分は相手が
過去に出会った人が
当たり前のように
出来ていたことを
出来ているモノで
あるかのように

どうして振る舞えるのか?と
不思議に思う。

人は今の自分に
そぐわったモノが
周囲に今、集うのに

それに不満を
訴え続けてしまうのは

今の自分が
向上心をもって
忠実(マメ)に
生きることを怠り
諦めて

自分の世界
陰に籠もり
今、ソコに在る存在の
ありのままの姿に触れ

労り、慈しみ、憐れみ
情を養い育んで
今、一人、

ソコに在る存在に
何かを求めすがり
甘えることなく

自分とは違う存在に
この世のソコで
出会わせて貰えて
自分自身を省み

今、独りではなく
その者に、寄り添い
今を一人、生かして
貰えていること

それを幸い
有り難いことと
思えずに

どうやって
情を自らが養い育み
自愛(慈愛)を
理解することが
叶うのだろうか。

自らが付き合って
おきながら
相手がどんな人なのか
分からないなんて

目の前に在るモノに
対峙し寄り添い続けずに
目を反らし
他所ばかりを見て
気も漫ろに
己の欲に囚われて

己が、今、ソコに在る
その相手を 
どのように捉えるべきかも
分からずに

ソコに至って
焦り出してしまう
なんてことは

同情の余地もなくなる
在り方だ。と思う。

関係性に
甘えさせて
貰えていることに
今の自分が
気付けずにいることは

後の己の悔いや、
また己の抱く怨みの
要因に成るのではないか。
と、

そうしたモノを
人として生まれた
この人生で
人が背負ってしまうことは
 
とても残念て
寂しいことに思う。

迷子の子供が
また一人
この世のソコに
生まれていうように
感じてしまう。

腐っても
甘えても
責任転嫁しても
幸せには成れない。

諦めないで
挫けないで
忠実に人として
今を生きようと
努力するモノは

必ず、その努力が報われて
幸せとは何か
自分なりの答えを
その今生にて自ら掴み
己自身を呪縛から解き放ち
成仏、成してゆけるだろう。

誰が何が、
ソコに居なくても
人は、達する出来るんだ。

自分の弱さに
負けないで、

人は等しく平等に

凛と
この世の大地に
立たせて貰うことが
適うのだろう