王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

普段口には、しないで
済んでいることを
こっそりと、呟いて…

人は、誰もが
愚かしくも、
あまりにも、簡単に

与えられ具えていた、
徳や尊厳を自ら失くし
迷ってしまうことを
私が忘れぬ為に書く
普段は口にしないこと。


思春期の頃、
祖母に
云われたことがある

貴方がどんな
主義主張をもって

世の思春期の
子供と同様の
反抗的な態度を
取るような真似をしようと

世間様は
母子家庭だからと
観てくる。

自己の言動に
自己責任をもって

世間様に
母子家庭だからと
云われないようにね。と

諭されたおかげで

私を嫌ってた
母親も
周囲の人に

どうやったら
わたしのような
善い子に育つのか
ウチの子なんか…と

社交辞令的なモノでも
気を良くして
私を母の友人に
引き合わせ連れ回し
謙遜しながら
嬉しそうに
自慢するようになった。

どんなありようの
親だろうとも
子が褒められることで

どんな親の株も上がり

寂しがり屋で
心細さを抱えたままの
迷子の子供のような
大人に成り切れない親でさえ

子供の姿勢に救われて
私の母のように
丸くなってゆくものだろう。

人間らしいね。と思う。

貴方がどのような
主義主張を
もっていようと
世間様はどう観るか

その観られ方が
自分の主張と違うからと
自分のことを
知らないくせに。と
声を荒げる者が居ることに

びっくりする。

例えば、
DVを働く人は
どんな主義主張を
もっていようとも

母親のことを
恨んだままの人間と
世間様に観られては

その母親との
関係性を横目で
見られて

現状の母親との
関係性を垣間見られ

なるほど。と
思われてゆく。

どんな主義主張を
貴方がもっていたとしても
世間様はこう観る。

その観られ方に
不平、不満、不服を抱き
拗ねて反抗し
意地になって

自己主張を
繰り返しても

受け流されるだけ。

そんな情けのない
振る舞いをしてしまう位なら
自己の言動に
自己責任をもって

不動に生きていれば
よいのにね。

主張してるだけでは
世間様は
相手にはしない。

言い訳したって無駄

ソコからの
在り方が観られるんだから

拗ねていじけて
反抗しツッパって
腐る程
遠回り。

いつまでたっても
自分の在りたい姿で
この世に在ることが
出来ずに

強がる迷子の子供のように
ならないように
したいものだよね。

それに、エゴに
欲の皮が突っ張って
◯◯してやりたい。
◯◯してやろう。とか

エゴ、業深く
欲の皮が突っ張って
子供の成長を
促すつもりで

何故に
そんな真似をするんだ?
聞いてやるから
言ってみろ。と

世間様の
観かた(味方)を
教えてやろう。と
意気込むような人は

自らが欲が
欲するモノを追いかけて
自分が何をしているのか
自分の姿を俯瞰せず

そんな行いをする
貴方に
主義主張があるなら
言いなさい。と

言い訳がましい
子供を生み出して

世間様の観かた(味方)が
身に付かない
自分本位で
自己中心的で
自意識過剰で
自己主体の

弱音、弱気、泣き言
己が己を挫く呪詛を
子供に吐かせる
真似をさせてしまう。

自己の言動に
自己責任、
自ら、担うこと
敵わずに

何を背負っていけるのか。

そんな言葉を吐くクセを
子供につけるような親には
なっていけないね。と

自分のことを
知ってくれていない
世間様、誰かや
何かに、憤るような
真似をしては

自分本位
自己中心的
自意識過剰
自己主体の世界観、
狭い井戸の中に留まって

不平不満、不服愚痴
今の自分の主義主張
弱音、弱気、泣き言を

自らが姿勢を
正す前に溢す者を
この現実世界で
見かけては

その人の子供時分に
周囲に在った
大人のありようが
罪深いなあ。と

しみじみ思う。

自己責任を
背負える者を育てるには
世間様の観かた(味方)を
身に付けさせるために

当人に、
その選択で良いのか

それが、どのような
選択だろうとも
子供によっては

止めることなく
自ら背負わせ
送り出さねば

身につくモノも
身につかないんだろう

自らの欲、エゴが
突っ張って
競い争い、競り合い
張り合うように
対峙して

言い訳を
溢させるような
真似をして

誘われ拐かされ

背負わすモノを
一人、背負うことが
敵わずに

世間様の観かた(味方)が
身に付かず

自分本位
自己中心的
自意識過剰
自己主体の世界観と

世間様の観かたの間で

自分の今の想い気持ち
立場、都合、事情
主義主張を
知ってくれる誰かが
ソコに居たならば…と
安易に願えば

人の願いは
叶ってしまうから

耳を貸し
手を引いてくれる者が
現れるだろうけれど

そんな貴方は
世間様からは
無責任に映るんだよ。

意思決定を
今の自分が下せずに

誰かに合わせいる
つもりでいても

そんな貴方の姿は
情の深い
優しい人ではなく

優柔不断で
無責任で
一人では立てない者と

世間様の目には
映るんだ。

そうして観る相手に
自分の心情語る程

だからどうした。
無責任に変わりはなく
貴方は何がしたいの?

世間様はそう観る。

それに対して
こうする。と自決して
自ら行動に映せずに

世間様の顔色窺い
自分の想い気持ち
立場、都合事情
主義主張を繰り返しても

世間様はやがて
肩をすくめて居なくなり
相手にされなくなるだけ。

幸いなことに
一人残されても

心、今にあらずに
自らの今の言動
自ら背負うこと敵わずに
迷い続ける者もある。

諸行無常は
無常に巡るから
また新たな出会いがあり

貴方の声に
耳を傾けてくれる者と
出会っても

貴方が変わり
成長しようと
すっごく努力して
何かを一つ背負っても

諸行無常に
巡り来て

過去の貴方を
知っている人に出会って

昔の貴方の
情けのない姿を語られ

言い訳をして
今の自分のことを
知ってくれない者に憤れば

ほら、また挫折。
ふりだしに戻ってしまう。

塞翁が馬
自らが過去の出会いに
感謝出来ぬまま

自らが過去に
出会って来た者を
うらめしく思っても

欲の皮が突っ張った大人が
ソコでの自分の
格好をつけるためにイキり

子供に言い訳を
癖付けるような真似を
過去にされてる者を

幸せな子供のように
思っていた
アダルトチルドレンは
救われる。

苦も楽も平等だね。

石の上にも三年
世間様が羨ましく思う
有名は皆

二十歳までの
人生最初の方で
努力を積んで来た人だよね。

自分の足跡振り返り
積んで来れたモノに
今の自分が
救われるように

丁寧に生き
自分と云うエゴを削ぎ
自分と云う欲を削ぎ

人として
この世の大地に
足をつけ
立てるように成れたらよい

ゆっくり
ゆっくり
一つずつ

過去の自分を
自分が認めてあげれずには
救われることはなく

過去の自分が
未来の自分の足を引っ張る。

自己責任を
背負って
生きれるようになれば

世間様の観かた(味方)が
その身について

世間様の立場からなら
そう観えるだろう。と

今の自分の姿を
井戸の中に留まり
見誤らすに

今の自己の在り方に
自己責任もって
今の己に足りて
今を生きれることは

とても幸せなことなんだよ。

世間様の観かた(味方)に
成りきれずに、
そう観る世間様の
手を振り払い

一人ゆく道の理解を
世間様に求めることは
なんて痛ましい程に
反社会的なのだろうか。

祖母や親が
交友関係に口を出す
幼い日の想いが沁みる。

自己の言動に
自己責任を持てていない頃
未だ、認められていない頃

世間様の観かた(味方)が
身につかず
自分の想い気持ち
主義主張を抱えてた頃

なんて危うい様だろう
シッカリしているではなく、
いい子と思われている頃ならば

誘われ拐かされて
しまうように映るのだろう。

大人になっても
世間様の観かた(味方)が
身につくことなく

本位ではない
観られ方をしたからと
世間様に喰ってかかり
不平不満不服愚痴を溢し

迷子になっているのに
強がっている
子供のような真似を

この世のソコで
してしまう

人とは寂しい
生き物だね。

あと一歩のところまで
誰もが踏ん張ってみせるけど

あと一歩を
踏みこたえれるように
成るまでに

幾つ己が殻を
自ら破らねば
ならないのだろうか

安易で未熟な大人のために
一生、その身に
消せない汚れが付いてゆく

人と云う生き物が
この世で抱いた想い、
初心を昇華しきれずに

己が欲にエゴに変えては
自分の欲に汚れに囚われて

自分とは違う存在を
睨めるように
怨めしそうにみて

捨てられた子犬のように
この世を生きてゆくこともある。

人と云う生き物は
皆、等しく
危うく、脆く
弱い、生き物だ。

自我もエゴも欲も
溶けてゆく

有り難いことに
溶けてゆき

今、ソコに在る
自分が、
どのようなモノとして
この世の現実、
今、ソコに、生きているのか

その己が在り方次第て
今の自分を救えたり
今の自分を傷つける

背負いきれないモノが
今、ソコに有れば有るほど
グラついて、グラついて

世間様の観かた(味方)に
成りきれずに

自分のエゴ、我、欲
主義主張を唱え
訴えてしまっては

ソコに至るまでに
自らが積んで来たモノ全てを
激流に自ら放り出して

膝をつき
弱音、弱気、泣き言
恨み言

たまった毒を
吐くだけ吐くこと
目を瞑られて

世間様から
その後、どのように
生きてゆくのかを
誰もが、見守られている

等しく平等に
一欠片も見落とさず

口を挟まず
言い訳を吐かせることなく
聴くことなく
何かを与え
させてみたりして

どのように
今、ソコに在るモノか
誰もが等しく平等に
観られている。

人という生き物を
誰かに託すことは
出来ないから

当人が
何を選んでゆくのかは
当人次第の
人生だから

どのように
今を
生きることにするのかも

当人次第のことだから

それだけ
この世界は幅が広く
奥深い。

上辺だけでは
エゴ、業、欲の皮が
突っ張って汚れている
己が姿勢を晒してしまう

何にも
触れること敵わずに
自らの琴線奏でることさえ
敵わない。

琴線奏でれるようになれば
響き合う 世間様の
観かた(味方)身について
寄り添って

一人では
超えれぬ境涯
超えてゆく。

自らというエゴに欲と
世間様の観かた(味方)の間で
迷い葛藤苦悩することも

社会性の有る
全ての人間が
エゴ、我、欲を出さず
当たり前に日々行っては
自らの弱さに打ち勝って

懸命に今を
生きている

人として
今を生きる者が皆
当たり前に

自分本位
自己中心的
自意識過剰
自己主体に我儘な
自我、エゴ、欲を
誰に、訴えることなく

今の自分のことを
知って貰おうとせず
踏ん張っては
自らが想いを昇華しては
供養を捧げて生きている

弱音、弱気、泣き言を溢し
今の自分を知って貰おうと
堰を切ったような慟哭に攫われ
あっと云う間に挫折して
挫け折れてしまう者も居る。

寄り添って
寄り添って
寄り添って
寄り添って
寄り添って

疲れきってしまうこともある。

それでも
そんな自分のことを
誰かや何かに
知って貰いたくなって

弱音、弱気、泣き言を
周囲に在る者に
聞かせてしまえば

寄り添われて
ソコにどのような人間が
居てくれているのか
運任せにしてしまうのか

自分の背負うモノを
自分で背負い
片膝ついても
両膝つけずに立ち上がり

今を生きれる者も在る

どんな生き方を
今、自分にさせようが
自己責任

その短く長い生涯で
そうして良かったと
自らが思える選択を
今の自分の在り方が
増やしもするし
減らしもする、

どのような者として
この世に
在ろうとする人なのか

自分とは違うことに
傷を負い
ショツクを受けながらも

世間様は、観続ける

昔、席を同じくしていた者が
遠くに行ったことを
感じながらも

観続ける。

通りすがりの
雀や渡り鳥にも
想いを載せて昇華して

人は今を生きてゆく。