王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

アウトプット から
普段口にしないこと
思考、感じ、捉えること


昔、警察の密着番組で
麻薬所持者の
逮捕の瞬間が映って居た。

若い男女のカップルで
女の子は泣いていた。

泣いている
女の子の傍らで
彼女を守るように

自ら逮捕されながら
男の子が警察官に
噛みつくように吠え

女の子に向かって
守ってやるからと
繰り返す。

凄いな人って。
何をどう捉えたら

まるで自分こそが
他者に優しい
正しき者であるかのように
思うことが出来るのだろう。

守ってないのは
お前じゃん。

警察官が彼女を
現実世界に引き戻し
救い出そうと
しているように
見えるのに

悪いことを
自分がしている
自己責任がない者は

道理に外れた
自分本位な優しさを
この世の正義のように
思い込む。

男の人が書く
アウトロー臭い話が
凄く苦手だ。

若い頃も思って居た。

男の人が
勝手なイメージを
押し付けるように
近寄って来ては

そんなイメージの
私のことが
好きだと云うのが
気持ち悪く、煩わしく
感じていた。

何なんだろうな
その変な世界感。

現実に出会ったことがある
まだ付き合い出して
間もない、
普通の会社員の人なのに

自分に何かがあった時には
自分の知人を頼るように
云い出だす者も居る。

大阪弁でイキると
云うらしい
男の人はとても多く

そんな台詞を
何故に吐くのかなぁと
女の友達と
そんな真似しない方が
好ましく映るのに

男の人ってねぇ…と

その時に
女性が引きながら
愛想笑いしていることに
気付いてもくれないことに

女性が余計に
冷めることにも気付けずに
自身満々にイキッている。

そんな男性を
連れて歩くのは恥ずかしい。

格好をつけた分
外でオロオロするよりは

最初から
外で低姿勢である方が
好感持てるのに

女性が仕方ないと
目を瞑り
見なかったことにして

頭を下げれぬ
男性より先に
低姿勢で振る舞う横で

格好をつけれて
いるつもりの

社会的に、あまり
善い立場に立つことが
出来ていないことを
自ら、露わにしてしまう
男性っているよね。

自分と彼女が
警察に捕まる時に
守ってやるからな。

自分の知り合いの
誰々に連絡しろとか

友達の友達は
皆、友達じゃないんだよ。

貴方の友達に
突然、貴方の彼女が
連絡することは
迷惑をかけることなんだよ。

自分の友達は
それを迷惑とは言わない。と
貴方が思っていて
友達もそう取らない人でも

ソコに連絡を取る彼女は
迷惑をかけることが
平気で出来る人なのに、

イキッて、
現実的ではない
世界観のまま
自分本位に突っ走る

私とは違う人の
世界観を不思議に不思議に
理解出来ずに
首を傾げたこともあるけれど

人生は舞台
シェイクスピアの名言で
私は自分の世界観に
囚われることなく
解放された。

今、この世界には
同時に、色んな世界観を
持って生きている人が居る。  
 
何て広く大きな世界
この世の現実は
その全ての存在を今、
受け入れ包み込んでくれている

過去の私のように
私の主観に囚われて

なんで男の人って
自分のイメージを
押し付けて
私のそんな所が好きだとか  

思わず怖気がして 
引いてしまい
愛想笑いも
引き攣るようなこと
言って来るのだろう?と
 
気持ちも悪く 
人外の何かのように
不思議に思って居たけれど

その人は、今ソコに
そのように在る人なんだよ。

今では
引きつった愛想笑いで
応じることもなく

笑って吹き飛ばしたり
あからさまに 
へぇ~と興味を示さず
素通り出来るようになった。
 
不思議とも思わない
あ〜また、ココに、
こうした生き物が
また、居た。と

何処にでも居るんだな。

今、目の前に在る者に
見飽きた芝居を重ねるよりも

同じ題名でも
同じ主人公でも
視点を変えて観る舞台は
面白い。

角度を変えても
陳腐にしか映らない芝居を
百歩譲って
多くの粗に目を瞑り

礼をもってするように

その主人公も
同じ人だ。と扱えば

逮捕の瞬間
泣いてしまった彼女を
庇うようにして
逮捕されながら

自分が守ってやる。と
彼女に声をかける
男の子と

話す機会でも持てたなら
中身の成長確かめて

変わらす
イキるようならば

あの台詞はないわ。と
笑ってあげて

こんこんと
ここは、こう捉える。
ここは、このような姿勢で

職務中の警察官には
キチンと頭を下げる。

その上で、彼女に
想いがあるならば
声をかけて
自分が悪いと伝えてあげる。

彼女を守りたいなら  
カメラの前で
格好つけたいのなら

守ってやるって
口にすることじゃ 
ないでしょう。

その場しのぎの
中身のない陳腐な芝居

自分の狭い世界観に
囚われて
打って出る芝居は
粗が目立つ

自分の演じたい在り方と
吐くべき台詞が
合致しない。

こう想うから
こうしたいから
だから、こうした。と
ソコまで単純ではないよ。

簡潔だけれど
自分とは違う存在が
この世のソコに在ることに
首を傾げているうちは

陳腐な芝居を
自分がソコで
しているんだよ。

自分とは違う存在を観て
その存在が今、ソコに
そのように在ることを認め
どのようにして
そのように出来上がったのか

自分の頭の中で
考えることなく

よく理解出来ない文章も
繰り返し繰り返し
自らが読み返しているうちに
気付き理解出来る時が来るように

分からないモノが
この世に在ることに
自分がしてしまわないこと

思慮深く、
寄り添って、
貴方自身のエゴや主観を
引っ込めて忍び
そっと寄り添って

直ぐには言語で
解釈することが
出来ぬとも

何かしら気付けることがある

そうして自分が
気付けてはいるモノを
言語化すること難しく

言葉出来ずに
伝えきれずに
人は焦れてしまう。

それに気付いてくれない人が、
悪いのでもないし
伝えたい想いを
汲んでくれない人が、
悪い訳でも、ない。

未だ、ソコにて
言語化することが
出来ない自分が
ソコに至るまでに
怠ってきたことが
その未熟さが己が仇。

シッカリ勉強してたなら
人の話に
もっとシッカリ耳を貸し
つまらない大人の集まりの中で
怠惰過ごすことなく
大人が操る言葉を聞いて
学んでいたならば

自分一人では気付けない。
先人の残した言葉を
自ら匠に操って
他者に説きながら
自分の呪縛を解けただろう

他者を説諭することが
不得意者ほど
声を荒げ力づくで
物事を自分の世界観の中へと
歪めようとする。

想いは伝わる
だけれども
説諭することは敵わない。

掴み返すことが
躊躇われる手が
差し出されても

差し出された側は
それが自分のために成るとは
思えずに
自分の殻を守るように
襟を閉ざしてゆく。

北風と太陽のようだ。

自分というエゴにしがみつき
襟を殻を閉ざしている者に

何を言っても響きはしない。

もう選んでいるから
今、理解できない
その手を今取らないことを

他所から射し込む光を
探しはじめている。
今の自分に理解出来る道を

仏教の言葉は
原文通り伝える仏教徒
主観を混ぜて伝えることを
禁忌としている。

それでも
解いて解いて
分かりやすく
分かりやすく
砕けた言葉言語で
簡単に

粋な想いを添えた言葉で
人を導く言葉が
この世界に溢れ返り

捉え方、扱い方を間違えば
ふりだしに戻り
出口も救いもないかのように
感じてしまうこともある。

丁寧に、国語を
習ったように

その言葉を文章を
残した人の想いに触れて
何を伝えたいのかを汲んで
寄り添えばソコに居る
人物像が浮かんでくる。

貴方の勝手な
イメージ像かも
知れないけれども

ソコに貴方を重ねて
貴方の今を支えられ
今の貴方が
その人が在ったことで
今、生かされているように
感謝出来るならば

それは幸いなことだろう。
実際、どんな人であろうとも

貴方がソコで
その人を想う強い気持ちをもって
自らが信じる気持ちを
持てることが

ソコに在る
貴方自身を生かすのだから。

そんな姿の人を観て
他人は各々其々に

このような人なんだろう。と
貴方のことを捉えては

好き勝手なイメージを
重ねて貴方を
理解したつもりなって

ソコに在る自分に
足りて行く。

人間らしく
足りてゆく。