◉奈良大和路のみほとけ @山口県立美術館


▼先月に閉幕を迎えたこの特別展。

仏像好きとしては行かない訳にはいかないと

いろいろ大変でしたが、妻と1歳半の息子を連れて行ってきました✨



▼仏像を巡りたくてもできない日々が何年も続いていた中で、

山口で奈良の仏像たちに会えると心躍らせた反面、

あまりにブランクがありすぎて、どう仏像と向かい合っていたか忘れかけていた中での鑑賞となりました。


▼まず入場して最初の仏像と対面した瞬間のことです。


「なんと、聖林寺の十一面観音‼️でもこの感じは絶対複製…」


かつて桜井市にある聖林寺の御堂で、静かに十一面観世音菩薩立像と向かい合った記憶が瞬時に蘇ったのと同時に、

目の前にいる仏像との違いが強く感じられました。


この仏像からは空間を支配する、良い意味の緊張感が感じられません。


冷静に考えれば聖林寺の仏像が山口に来るなんてあり得ないことなんですが、そんなことには思い至らず…


ただ最初にこの模刻と出会ったおかげで、仏像鑑賞の醍醐味を一瞬で思い出すことが出来ました🙇‍♂️


▼さて、個人的に展示の中で一番良かった仏像は、法隆寺で何度も見ている『夢違観音(観音菩薩立像)』





▼白鳳仏が好きな私にとって、あの艶やかで滑らかで優しさ溢れる指先は、展示されていた他の仏像とは一線を画する、唯一無二の存在感を放っていたように感じます。


悪夢を良い夢に変えてくれるという話からこの仏像は『夢違観音』と呼ばれていますが、そのエピソードも納得できるくらいの麗しさを感じる仏像です。


▼白鳳仏の関連で、香薬師仏の右手が展示されていたのも驚きでした。



奈良国立博物館の仏像館で拝見して以来の対面でしたが、この右手だけからも、白鳳仏の麗しさが存分に堪能できます。


▼なぜ右手だけの展示なのか。


その理由ですが、この仏像は明治時代に2度盗難にあい、さらに昭和18年に3度目の盗難にあって以来、今日まで行方不明になっているのです。


不思議な偶然が重なって平成27年に右手だけが見つかった香薬師像は、現存すれば国宝級であること間違いありません。


どこかで発見され、本来の新薬師寺にお戻りになる日が来ることを心から願うととも、個人的にはその日が来ることを確信しています。


銅造薬師如来立像(香薬師像)


・銅造薬師如来立像(香薬師像)

(文化庁HPより)



▼次に有名どころで印象に残ってるのは、唐招提寺の『如来形立像』





頭や両腕が欠損していますが、そのために分厚い胸板や盛り上がりのある太もも、腰高のプロポーションが際立っており、その姿から『東洋のトルソー』とも呼ばれています。


この仏像を博物館内で鑑賞するのは初めてでしたが、唐招提寺の宝物館で拝見する時よりも、

欠損部分の想像を膨らませながらじっくり鑑賞できて、すごく幸福な時間となりました。


これこそ博物館で仏像を鑑賞する醍醐味の一つですね。


▼書きたいことはまだまだたくさんありますが、最後に1つだけ印象に残った仏像を紹介します。


それは薬師寺の『弥勒菩薩坐像』




個人的には何度も薬師寺を訪れていますが、今回初めて拝見する仏像でした。


パッと見た瞬間は青年が目の前に座って修行してるかのように見えるんですが、目を外して再び見ると、不思議なことに人間じゃなくて仏像に見えるのです。


この仏像の製作者は仏像というフィルターを通して、あくまで『人』を表現しようとしてるのが伝わってきます。


あくまで個人的な好みなんですが、人と仏像の境界線が曖昧なほど良い仏像という思いがあって、まさにそんな自分の基準に合致する素晴らしい仏像でした。









阿波国の徳島県阿波市土成町は、土御門上皇に所縁のある場所。

承久の乱で後鳥羽上皇が流刑になったことを受けて、息子である土御門上皇も自ら京都を去り、土佐国→阿波国に流されました。
幕府は、今の阿波市土成町に土御門上皇の宮を造ったそうです。
土成町御所には、土御門上皇の宮跡とされる史跡や、上皇を御祭神とした神社があります。

また、土成町浦池という地域に、紫雲山蓮生寺という浄土真宗佛光寺派のお寺があります。
碑にあるように土御門上皇に所縁があるそうです。

四国は、空海の八十八ヶ所霊場の影響で真言宗のお寺が多いですが、こちらは京都の佛光寺派です。

同じく碑にある熊谷直実とは、平安末期〜鎌倉初期の武将で、出家して蓮生と名乗ったようです。

ちなみに、土成町には四国八十八ヶ所第八番札所の熊谷寺というお寺があります。

直実と何か関係があるのでしょうか?

直実が生まれたのは今の埼玉県熊谷市。

そこにも直実に所縁のある蓮生山熊谷寺があるそうです。




今日は最近読み終わった1冊の本を紹介します。

『ガダルカナル兵隊戦記』

ガダルカナル島の戦いは昭和17年8月から昭和18年2月にかけて、ソロモン諸島に浮かぶこの島に日本が作った飛行場の領有を巡って、日米が激突した戦いです。

とは言いながら、日本が作った飛行場は完成間近なところをあっという間に米軍に占領され、その後は日本が奪還に向けて部隊を投入しては何度も跳ね返される展開が続きます。

敵戦力の見誤りもあって兵力の逐次投入の結果、大規模な派兵を4回行うも、飛行場を奪回するまでは行きませんでした。

制空権が米軍に握られた中、次第に海軍による補給路は途絶え、兵士たちは戦闘以前に苛烈な飢えに苦しむこととなります。

ガダルカナル島が飢餓の島、餓島(ガ島)と呼ばれる所以です。


結局、昭和天皇の「年末も年始もない、直ちに御前会議を開くべき」との指示昭和17年12月31日に御前会議が開催され、ガ島からの撤退が決まりました。

軍の最高幹部が天皇陛下の前で公式に作戦の失敗を認めたのは、これが歴史上初めてだと言われています。

真珠湾での開戦以来、破竹の勢いで進撃を続けていた日本軍の潮目が変わった契機にもなりました。

その後、暗号の傍受を恐れ伝言での撤退作戦となった結果、実際に兵が島から撤退したのは決定から1ヶ月以上経過した昭和18年2月となったのでした。

前置きが長くなりましたが、著者である牛尾さんは、そんなガ島に当時32歳の「おやじ初年兵」として、10月中旬に上陸します。
それから撤退するまでの約4ヶ月の様々な日々をありのままに綴ったのがこの本です。

まず驚いたのは、著者である牛尾さんの確かな記憶力に裏打ちされたリアルな表現力です。

あとがきによると書き始めたのは昭和42年、ガダルカナル島の戦いからは25年を経過しています。

そんな中でも、ガ島での日々をこと細かに非常に具体的に詳述されており、そこに牛尾さんが当時心に思っていたこともしっかり表現されて、現代に生きる私が読んでも情景が浮かんでくる場面が数多くありました。

これは、飢餓と悪疫の戦場で日々起きることを、心の奥底で鋭く捉えて自身の体験として刻み、さらに体験記という形に昇華させた牛尾さんの才能や生き方、人生観があったからこそなし得たものであり、本当に頭が下がる思いです。

次に読みながら強く感じたのは、戦場での後方部隊の存在です。

著者の牛尾さんは船舶工兵隊としてガ島に上陸しています。
船舶工兵隊は搭載船艇の運用を任務としていたようですが、制空権がないこの島では船艇などありません。
したがって、ガ島に上陸した後は任務がないまま戦闘を行うことももちろんなく、ひたすら偵察機等から存在を隠しながら暮らす日々でした。

どうしても旧日本軍兵士というと、前線で敵と相対して戦闘する人々だけを勝手に想像します。
でもよく考えると、戦場には工兵隊や衛生兵、その他専門隊が多数いて、そういった後方部隊が構成されて始めて前線での戦闘が行われているのです。至極当たり前のことですね。

この本では後方部隊で必死に役割を果たそうとする人々の姿がリアルに描かれており、旧日本軍に対して勝手なイメージを抱いていた自分自身が恥ずかしくなりました。

ガダルカナル島に上陸した約3万人の日本兵のうち、約2万人が現地で命を落とし、そのうち1万人以上は戦闘ではなく飢餓や疫病で亡くなったとされています。

凄惨な地獄と化したこの島で、妻子ある1人の日本兵が現地で何を見て何を感じ、後世の私たちに何を訴えようとしたのか。

文庫本で500ページ近くありますが、読み応えのある良き本です。



久しぶりの山口県立美術館😊
今回の特別展は江戸絵画の「奇才」にスポットを当てた斬新なテーマの展覧会。

「奇才」の「奇」は思いもよらない、前例に捉われないという意味。

狩野派や円山応挙、尾形光琳ら主流絵師たちの前例に捉われない奇才から、伊藤若冲や各地方で傍流とされてきた絵師たちの斬新な奇才まで。

従来は流派別に語られていた江戸絵画ですが、実は多様で自由で個性溢れる世界だったことに気づかされます。

ここでは、数ある作品の中で個人的にもっとも印象深かった作品の一つを紹介します。

作者は、画狂とも称した江戸時代を代表する奇才中の奇才、葛飾北斎✨
その作品は嘉永2年(1849年)の正月、90歳となる北斎が新年の書き初めで書いたとされる絶筆、「富士越龍図」です。



葛飾北斎『富士越龍図』長野北斎館所蔵



雪に包まれた真っ白な富士山。
そこに黒い雲が取り巻き、筋を描くように天に伸びていく中には昇っていく龍の姿が描かれています。

この画題は出世を表現しているもので、生涯描いた作品が3万点以上とも言われる北斎の最晩年にして、意欲的な野心、衰えぬバイタリティがひしひしと伝わってくる作品です。

さらに、じっーっと作品を見れば見るほど、昇天していく龍が北斎自身を表現しているように感じられます。

龍の通り道となっている黒い雲はモヤモヤっとしていながら、そこにはしっかりと1本の筋が通っており、その中を通る龍はあえて小さくぼんやりと、ひたすらに謙虚に描かれています。
ちなみに龍が描かれている位置は、富士山と天の中間からやや手前くらいです。

道なき世界に奇才と情熱をもって

あくまで謙虚に切り拓いていった葛飾北斎。

90歳を超えてもなお道半ばと捉えるあたり、その意欲は全く衰えることを知りません。

果たして龍となった北斎が目指した天上はどんな世界だったのか。
そこから見渡す景色はどんな様子だったのか。
北斎はこの絵を描いた3ヶ月後に臨終を迎えたため、誰もそれを知る由もありません。

「富士越龍図」

気になる方はぜひ一度ご覧ください。






▼白雉による陸奥記念館特集はご覧になりましたでしょうか?

新型コロナウイルス感染拡大防止に気をつけながら忌部もお盆は出かけておりました。

剣山の登山と高知巡見です!


▼忌部のInstagramアカウント(@ryo_104t)で、剣山の山岳信仰や高知巡見について、3回にわたる特集記事を投稿しています。

よかったら、@ryo_104tを覗いてみてください!




▼いきなりですが、タイトルの文章は何だと思いますか?

▼昭和18年6月8日正午頃、謎の大爆発を起こし瀬戸内海の柱島沖に沈んだ戦艦陸奥。

冒頭の文章は、その爆発原因を調査した査問委員会が、最終的に海軍大臣に提出した結論です。


▼戦艦陸奥は帝国海軍のシンボル的存在で、戦艦長門の姉妹艦として日本国民からも広く愛された戦艦でした。

もちろん、戦艦としての性能もその存在に相応しいものです。

建造当時、40センチ主砲の搭載は長門とともに世界初であり、射程4万メートル、弾道の高さは富士山より高い5520メートル。
そのスケールの大きさには本当に圧倒されます。






▼アイドル艦とも呼ばれた象徴たる存在が、呉からほど近い安全であるはずの瀬戸内海で、1121人という多くの将兵の命を道連れに戦わずに沈没したという衝撃は、想像を絶するものだったでしょう。


▼査問委員会は、装薬の発火試験の結果、生存者が見た白い煙と同じと判断して、装薬が爆発の原因と考えましたが、同時に自然発火は有り得ないことも再確認されました。

そこで、何らかの理由で装薬が発火し、かつ、他の装薬の蓋が開けられていたという状態以外には考えられないとして、人為的な面に重点が置かれます。

当時、戦艦陸奥で盗難事件が起きていたことも分かり、容疑者までリストアップされたようですが、関与を示す決定的な証拠はなく、最終的には冒頭の結論に至ったのでした。


▼現在、乗組員の自殺説や放火説、スパイ説等が言われていますが、真相は謎のままです。

何と国民が沈没の事実を知らされたのは戦後になってから。

生存者には箝口令がしかれ、亡くなった将兵の親族には給料の送金が送られ続ける等、徹底的に情報は秘匿されたようです。


▼昭和18年の4〜5月にかけては、山本五十六が戦死し、日本国民に向けて初めて敗北が発表されたアッツ島の玉砕と、暗いニュースが続いており、そこに追い討ちをかける戦艦陸奥の沈没という最悪のニュースは、国民に対して表に出せる状況ではなかったようです。


▼絶対にあってはならないことが現実に起きた時、その情報とどう向き合い、どう発信していくべきか。

現代でも同じようなシチュエーションはあるでしょう。

戦後75年を迎える今、戦艦陸奥の悲劇を通じて、改めて情報との向き合い方を考えさせられます。



▼戦艦陸奥は、昭和45年に海底から引き揚げられ、その沈没地点を望む山口県周防大島町伊保田には陸奥記念館が建設されて、引き揚げ品や遺族からの資料等が展示されています。


個人的には山口県内でも忘れてはならない、大切な場所の一つです。






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▼今回は敗戦から78年目を迎えたこの夏に読んだ本を紹介します。

【わが誇りの零戦〜祖国の為に命を賭けた男たちの物語〜】


著者;原田要
出版社:桜の花出版
出版年:平成25年(2013年)





▼引き寄せられるように何度も読んでいる、個人的に大切な本の一つです。

▼著書の原田要さんは零戦パイロットとして
中国戦線から真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなど、
数々の戦いに参加してきた
まさに歴史の生き証人と言える方。

▼覚悟を決めて語られたその体験談は胸に迫るものがあります。

さらに多くの先輩や後輩、同僚とのエピソードかが随所に盛り込まれていて、
後世に生きる私たちに向けた遺言の意味だけでなく、
祖国を守るために命を捧げた戦友に対する鎮魂の祈りも、同じように深く感じ取ることができます。

▼原田さんは平成28年5月に99歳でお亡くなりになっていて無念さを感じる次第ですが、
次世代の私たちに向けて語りかける、特に印象深かった部分を以下に引用したいと思います。



『今の若い人たちを見ていると、平和であることを当たり前と思い、平和なこの瞬間を余りにも粗末に扱い、感謝することを忘れてしまっています。
これでは折角尊い命を擲った戦友たちが浮かばれません。
皆さんが、日々何気なく甘受しているこの平和は、ただ何もせずに転がり込んで来たものではありません。
この平和は、己の命を捨てて祖国を守った特攻隊の人たち、命懸けで戦った人たち、戦争で亡くなった何百万人もの犠牲の上に成り立っているのだということを、分かって貰えたらと思っています。』

(「はじめに」より)



『我々の思いを繋いで行くのは皆さんしかいないのですから、かつて我々に国の未来を託した先輩たちがそうであったように、私も残る皆さんを信じて思いを託して征こうと思っています。
(中略)
どうぞ皆さん、この老兵の思いを継いで、日本人として恥ずかしくないよう堂々と胸を張って、世界の人たちと手を取り合って未来を切り拓いて行って下さい。
その先には、自ずと世界の平和と幸せが待っていることでしょう。
この私の願いが天に通じれば至上の幸せです。』

(「第八章 次代を担う人たちへ」より)



〜補記(以下はInstagramにはありません)〜


▼実は著者である原田要さんの体験談がNHKアーカイブズに掲載されています。


NHKアーカイブス『戦闘機と生きた戦場の8年』


▼90歳を超えてもなおその目が澄んでいて凛々しいのは、祖国のために戦った誇りが胸の内に宿り続けているからでしょう。


敗戦後、原田さんを始めとした日本兵に対しては、命を賭けて守ろうとしたはずの同胞から掌をー返されるように軽蔑の視線が注がれ、戦争の経験を語ることなく内に秘めたまま、多くの方が亡くなられています。



同じ日本国民を加害者と被害者で分断するのはやめませんか?


▼日本兵は加害者であり悪者で、一般市民が被害者。


戦後を生きる私たちにはそんな見方が自然と根底にあるように思います。

太平洋戦争を取り上げた番組でもそんな視点で描かれるものが実に多いですよね。



▼英霊の名誉を守りつつ、なぜ無惨な敗戦に至ったのかを真っ直ぐ直視するには、同じ国民を切り分けていくこのような考えを乗り越えていく必要があると、原田さんが語る姿を拝見して改めて感じた次第です。



2時間45分を超える動画ですが、本と合わせてぜひご覧ください。







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8月10日「山の日」ですね!
※例年は11日ですが、今年は五輪閉会式の都合で10日に変更されました(ご承知のとおり五輪延期の関係で、来年の山の日は9日に変更だそうです)。
「山の日」にちなみ、山と歴史(山岳信仰や神社)に関係する過去picを投稿します。(過去に忌部が撮影したものです。忌部は登山家でもあります。)

① 白山(2016年撮影)[写真1枚目~3枚目]
白山は、石川県と岐阜県にまたがる山です。「日本百名山」、「日本三霊山」、「日本七霊山」の1つに数えられ、修験道の霊場でもあります。717年に泰澄という修験僧が開山したとされています。御前峰が最も高いピークで、標高は2,702m。山域は白山国立公園に指定されています。山頂には複数の火口湖があり、千蛇ヶ池はその半分弱が、多年生雪渓(夏になっても解けずに残った雪)に覆われていました。パノラマも美しく、北アルプスの峰々や富山湾が一望できます。
また、白山は山自体が、白山比咩神社(加賀国一宮)の御神体でもあります。山頂には同神社の奥宮が鎮座しています。雲海と祠のコントラストが神秘的でした!
白山の神は、シラヤマヒメノ神やククリヒメノ命といって、『日本書紀』の「一書」(あるふみ=「本文」ではない別バージョン)に登場します。イザナキの黄泉国訪問の伝承において、イザナキとイナザミを仲直りさせた神とされています(『日本書紀』本文や『古事記』では、仲違いしたままです。)。

② 伊吹山(2018年撮影)[写真4枚目~6枚目]
滋賀県と岐阜県にまたがります。標高1,377mで、「日本百名山」、「新・花の百名山」の1つで、修験道の霊場でもあります。山域は、琵琶湖国定公園に指定されています。標高は低いですが、眼下に琵琶湖を一望できるという滋賀県ならではの景色が広がります。ちなみに関ヶ原や濃尾平野も見えますよ。また、高山植物のお花畑も広がっていてとても綺麗です。9合目まで車で来ることができるので、登山者より一般観光客の方が多いです。
山頂には、ヤマトタケルノ尊(景行天皇皇子)の像があります。『古事記』のヤマトタケルの東征伝承において、ヤマトタケルが伊吹山の神との闘いに敗れるという話があります。その神の姿は、白猪や大蛇だと伝わっています。伊吹山も泰澄が開山したとされ、古代には仏教(密教)と融合した山岳信仰の寺院が建てられたこともあったそうです。その名残かどうか分かりませんが、山頂には仏像の祀られた祠が何か所かあります。

③ 石鎚山(2019年撮影)[写真7枚目~10枚目]
愛媛県にある山で、西日本(&四国)の最高峰。天狗岳が最も高いピークで、標高は1,982m、山域は石鎚国定公園に指定されています。「日本百名山」、「日本七霊山」の1つで、修験道の霊場でもあります。685年、役小角による開山と伝わっています。
石鎚山の登山では、「これぞ修験の山だな」と体感しました。90度近い斜度を、鎖を使って登るルートがあるのです。鎖を踏み外すと滑落して即死。20kg近いザックを背負いながらだったので腕もパンパンでした。鎖場を何か所かクリアし、山頂にたどり着くと、死への恐怖よりも生きていることを実感しました。
山頂手前の弥山には、石鎚神社山頂社があります(山麓に石鎚神社本宮口之宮、登山口に中宮成就社があります。御祭神はイシヅチヒコノ命)。早朝、御来光前に、他の登山者や体験修験者ら一同で神職さんと共に神事に参加し祝詞を奏上しました。南は室戸岬や土佐湾(太平洋)、北は瀬戸内海とパノラマ最高でした。グロッケン現象も見ることができました。

さて、登山においても、新型コロナウイルスの影響で、基本的な安全登山+感染症対策という「これからの新しいスタイル」(日本山岳ガイド協会より)の登山が必要とされています。今後は、安全と感染症対策に気を付けながら、登山ができればと思います。2020年、どこかで登山ができればまた写真を投稿したいと思います!

帰省自粛が叫ばれていますが、新型コロナウイルスや熱中症対策、レジャーでの夏の事故防止に心がけながら、楽しいお盆にしましょう!

#忌部
#白山
#伊吹山
#石鎚山

【福徳稲荷神社③】
千本鳥居をくぐり抜け終わると、響灘を一望できるこの景色が目に飛び込んできます。

ちょうど時間は夕方前。
雲の切れ間から差し込む陽光。

海面に作り出された光のステージは、今まさに神様が降臨してくるかのような、神秘的な景色でした。

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【福徳稲荷神社①】
山口県下関市豊浦町大字宇賀犬鳴の稲城山中腹
本州の西端に面した響灘を望む臨海の神社で、境内にある千本鳥居やこの絶景が有名です✨

特に夕暮れ時、西の響灘に沈む夕日はおすすめ✨✨

この「稲城山」の由来ですが、第12代景行天皇が御臨幸の際、ここで姫菖蒲を見てその美景に魅入られ
「去(い)ぬことを忘れた」
ことから「いぬことなき山」、即ち「犬鳴山」と呼ばれ、それが転じて「稲城山」になったとされています。

こういう話を聞いて最近感じるのは、重要なのはその真偽とかじゃなくて、一地方にも記紀の世界観が見事に浸透している、その事実や成立過程じゃないかと思うのです。

土着で信仰されていた対象がどう失われ、中にはどのように融合されたのか。

その上で、記紀の世界観を前提とした各地域ストーリーがいかに産み出されたのか。

これらの経過や各地域毎のストーリー性の強弱は、古代日本の成立過程と直接繋がる問題ではないかと考えています。

今後の私たちの課題ですね。

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