中川の手記④ | 法友(とも)へ

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1994年2月、約30kgのサリンを合成する。

この量は土谷棟で製造可能な限界をはるかに越えており、最終段階の反応は第7サティアンの中に業者から借りた反応釜を仮設して行った。

これは第7サティアンのプラントとは無関係で、当時はまだ内部に空いた場所があったため可能だった。

この時の生成方法が、DC+DF+IPA。

 

こうやって振り返ってみると、随分早い時期に大量のサリンの合成に成功している事が分かる。

 

そうなると、ここで大きな謎にぶつかる。

 

なぜ、わざわざ巨大プラントを建設してまで、70トンものサリンを合成しようとしたのか?

 

 

30kg程度のサリンならいつでも作れるだけの能力を教団は有していた。

 

30kgあれば、松本サリン事件でも地下鉄サリン事件でも起こすことが出来る。

 

70トンというのは、それを2,300回以上起こせるだけの量である。

 

どう考えても、そんな回数テロを起こせるはずがない。

 

2,300回というとピンと来ないかもしれないが、毎日地下鉄サリン事件を起こしても全部使い切るのに6年以上かかる量であるということだ。

 

 

それに、土谷、遠藤、中川の3人で30kg作れたという事は、サマナを10人動員すれば100kg作れる。

 

100人動員すれば1トンだ。

 

当時サマナは千数百人いたのだから、そのうちの100人を動員することなどオウムにとっては造作もない事だったはずだ。

 

それなのに、なぜ巨大プラントにこだわり続けたのか?

 

これではまるで、わざと大量生産を遅らせているように見える。