中川の手記③ | 法友(とも)へ

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1993年10月から11月にかけて、中川と遠藤が土谷棟でのサリン製造にかかわるようになる。

遠藤は、ジーヴァカ棟に自分の研究施設を移す。

上祐は、ロシアでの布教に従事する事となり、サリン関係の仕事から外れた。

同年11月と12月に、土谷棟でそれぞれ約600gと約3kgのサリンが合成された。

 

要点が非常によくまとまっていて、さらっと書いてあるんだけど、突っ込みどころが満載。(笑)

 

 

当初はクシティガルバ棟というものはなく、土谷棟であったという事。

 

これは当然の事で、土谷はまだ成就認定されておらず、ホーリーネームもない。

 

いつ頃からは分からないが、後にクシティガルバ棟と呼ばれるようになる。

 

 

これはいかにも遠藤らしい。(笑)

 

 

このタイミングで上祐がサリン関係の仕事から外れるわけだが、逆に言えば、それまでは従事していたということになる。

 

つまり上祐は、1992年12月から1993年10月か11月まで、少なくとも10か月の間はサリン製造の責任者であったのだ。

 

 

11月と12月に、既にこれだけ大量のサリンが合成されていたという事は驚きである。

 

後はいつ使うかという事だけだったのだろうと思う。