プルシャを落としました① | 法友(とも)へ

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プルシャとは真我の事である。



一般的には、真我とはアートマンの事を言う。


まあ、アートマンに対してはブラフマンという言葉があるし、ブラフマンに対してはヴィシュヌやシヴァという言葉もある。


一体どれが真我なんじゃい?


という話になる。



麻原は「天上天下真我独存」であると言っていた。


これこそがシャカムニの教えであり、シャカムニが修したのはヨーガであるという考え方である。


真我独存であるので、ただひとつの真我だけが存在し、それ以外の一切は三グナが作り出した幻影であるということになる。



で、ここで疑問が生ずる。


真我がひとつしかないのであれば、この私は一体誰なのだろう?


ということになる。


まあ、要するに、この誰をプルシャだと言っているということなのだ。

(実際にはこの表現は正しくない。笑)




実は真我には様々な特性がある。


その特性の違いによって、真我を様々な角度から捉えることが出来る。


単に意識とか気づきと言う人もいれば、ただそれとかただあるとか言う人もいる。


麻原は純粋光の存在とか、透明な水とかいう表現を使っている。



そして、その数ある真我の表現の中で、プルシャとは観照者という意味である。


観照者とは、ただ見ているだけの者である。


それ自体は何もしない。


真我はひとつしか存在しないが観照者は人の数だけ存在し、個人の視点から肉体を通してこの世界を見ているということである。


それがプルシャの本来の意味なのだ。



エゴからの視点では「私は存在しない。」であり、真我からの視点では「私は全てである。」となる。


私は存在しないと私は全てであるはどちらも正しく、前提を省略するとと矛盾してしまうので話が見えなくなる。


そして、このふたつをつなぐのが観照者、すなわちプルシャである。


観照者は真我そのものではないが、自分というエゴを見ている者なのだ。