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「私とはなにか?」と考えるよりも、「死ぬのを怖がっているのは何か?」と考える方がやりやすいように思う。


なぜなら、「私とはなにか?」と考えてもどこにも取っ掛かりが無いのに対し、「死ぬのを怖がっているのは何か?」と考えるのは、恐怖という取っ掛かりがあるからである。



というわけで、その取っ掛かりを作るために、身・受・心・法について考えることになる。



この「私とはなにか?」について考えることは素晴らしい修行となる。


なぜなら、この問いには答えが無いからである。


一種の公案のようになっているのだが、正確には知識の中に答えが無いと言ったほうがいい。



知識というものは心の中にある。


心がなくなれば知識もない。


心の中に答えが無い問いを、心を使って考え続けていると、心はいつしか考えることをやめてしまう。


つまり、心を使って心の外へ出ることが出来るのだ。



これが先人達が見つけ出した技術なのだが、オウムではこれをジュニアーナヨーガと呼んでいる。


そして、エネルギーを使って心の外へ出る方法をクンダリニーヨーガと呼ぶ。


バクティーヨーガにおいては、帰依を使って、他力によって心の外へ出る。



まあ、どれを選ぶかは、その弟子のカルマしだいということになる。