この頃になると、サマナからぼちぼちと文句が出るようになってきた。
アストラル丹やソーマは美味しく頂ける。
果物が食べられるのも嬉しい。
しかし、生野菜はいらん!
と言う事なのだ。
たしかに、日常生活において、にんじんやピーマンを丸ごと全部生かじりすることはおそらくない。
生で食べることがあったとしても、種やへたは取るだろう。
皮もむくかもしれない。
しかし、護摩供養においては、残さず全部食べなければならない。
しかもそれが毎日続くのである。
それだけではない。
お供物に使える道具は、手と口だけである。
ミキサーでも使って、野菜丸ごとスムージーというわけにはいかないのだ。
もちろん、刃物のたぐいも一切使用禁止である。
で、そうこうするうちに村井がやって来て、供養の仕方について話をした。
村井はワークが忙しく、護摩供養には参加していなかったが、麻原に言われてサマナたちに話をしに来たのだろうと思う。
村井が言うには、手にりんごを持って、喉にグルを観想して、気がついたら手からリンゴがなくなっていた。
ということだった。(笑)
凄え、凄えよぉ~。
人それぞれ色んな解釈の仕方があると思うが、どれをとっても凄いと思う。
それで、なんで村井がわざわざそんな話をしに来たのかと言うと。
麻原の勘違いによるものだと思う。
麻原は、サマナたちが毎日たくさんの生野菜を食べさせられていることを知らなかったのだ。
何度も書くが、野菜は供物ではない、食料である。
そんなことは当たり前なのだが、麻原は目が見えないためにそのことに気が付かない。
お供物は道場からではなく、サティアンの入り口からエレベーターを使ってサティアン内の祭壇へと運ばれる。
それらを全て麻原が修法するのだが、麻原は目が見えないために石井が麻原の手を引いてお供物に触らせる。
それがイチゴ1パックであろうと、キャベツをダンボールに20箱であろうと同じ1回の修法である。
目の見えない麻原に何がどれだけの量があるのかなど分かるはずもない。
だから村井はリンゴの話をしたのであるが、これがキャベツまるごと一個となると、当然話は違ってきたのだろうと思う。