神仙の会の頃は、集中セミナーでいきなり四念処の瞑想を6時間とかやっていたわけだけれど、とても正気とは思えない。(笑)
麻原は四念処のことを、「私はだ~れ?」の瞑想であると述べている。
そして、その答えを透明な水だとか、鏡であると述べている。
これは真我のことである。
そして、その真我へ到達するために、四つのことを行う。
最初に考えることは、自分は真我であるということである。
私は真我である。したがって私は肉体ではない。
私は真我である。したがって私は感覚ではない。
私は真我である。したがって私は心ではない。
私は真我である。したがって私は観念ではない。
肉体や感覚については分かりやすいので問題はないと思う。
心については、思考や感情も含まれる。
観念については、知識や記憶、思い込みも含まれる。
次に、この四つを短くする。
私は真我であって、肉体ではない。
私は真我であって、感覚ではない。
私は真我であって、心ではない。
私は真我であって、観念ではない。
なぜこのような否定形を用いるのかというと、真我は真我という以外に説明のしようがなく、否定の形でしか説明できないからである。
この四つをさらに短くする。
私は肉体ではない。
私は感覚ではない。
私は心ではない。
私は観念ではない。
または、
肉体は私ではない。
感覚は私ではない。
心は私ではない。
観念は私ではない。
最初はマントラの様にして唱える。
次に、瞑想中に浮かぶ雑念に対し、この四つをぶつける。
麻原はこれをラージャヨーガによる否定の方法と呼んだ。
一切が幻影であるということを実感するためには、二つの方法がある。
ひとつが否定する方法であり、もうひとつが肯定する方法である。
否定する方法が小乗、肯定する方法が大乗ということであり、全てを経験しつくすということなのだが、これは人にもよるのだが相当に難しい。
確かに楽しいことは誰でも経験しつくしたいと思うだろう。
しかし、苦しいことを経験しつくすことなど出来るだろうか。
おそらくは無理だろう。
それよりは、苦しいことを否定する、そして、楽しいこともまあ否定してとらわれないようにすることのほうが簡単に思える。
それがこの四念処の瞑想である。