真我とは何かと問われたら、それは真我であるとしか答えようがない。
前回は数学の話だったので少し分かりにくかったかもしれないので、別の例で説明してみよう。
西村さんは誰ですか?
真我とは何か?というのはこれと同じような質問である。
無我とか非我というのは、西村さんは細川さんですか?
とか、西村さんはしるねこさんですか?というのと同じである。
西村さんは西村さんであり、細川さんでもしるねこさんでもない。
これを麻原ならこのように言うのだ。
新人類は、さとしでもメンヘラでもない!ニポポだ!
なぜこんな迷妄の中へ入り込んでしまうのかと言えば、それは問いが間違っているからである。
真我とは何かを知りたいのであれば、真我とは何かを問うのではなく、真我とは何かを知るためにどうすればいいのかを問うべきなのだ。
すなわち、何を実践するのか?である。
麻原は心の働きが全てであると言っていた。
その心の働きを、真我とは何かではなく、真我そのものへ向けたとき、その答えを知ることが出来る。
自分の心を何に使うのかは、全ての人に平等に与えられた権利である。
自分の心を何に使うのかは、全くの自由である。
あなたなら、自分の心を一体何に使うのだろうか?