就職活動⑤ | 法友(とも)へ

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オウムについてというか麻原について考えるとき、ほとんど全ての人と言っていいと思いますが、自分の思考パターンか社会の常識に当てはめようとしてしまいます。


僕はそれでは真実は見えてこないと考えています。


答えを見つけようとするのなら、麻原の思考パターンでものを考えるしかない。


そう思います。



それはグルには深いお考えがあってというようなサマナ側から見た盲信ではなくて、麻原からサマナを見た場合の思考パターンということです。


僕はサマナ時代にこの思考パターンで麻原と色々と話をし、「お前には智慧がある。」と言われ自由に行動することを許されていました。


「好きにしていいぞ。」と言われても、実際には恐ろしくてハメを外すことは出来ませんでしたけどね。(笑)



それともうひとつの傾向があります。。


それは、オウムや麻原を理解するのに、全てを過去にあったパターンに当てはめようとするというものです。


僕の考えでは、オウムは過去のどれとも当てはまらない新しいパターンです。



その分類としては、大きなくくりで思想・信条というものがあり、その中に宗教があり、さらにそのなかにカルトがある。


そのカルトの中でもオウムというものはさらに細かい分類に属し、新しい名前を付けられる第一号であるということですね。


したがって、これからもカルトは生まれ続けるだろうけれど、オウムと同じ新しい分類の第二号が出現する可能性は低い。



一般の人たちにとっては麻原の思考パターンで考えたくてもそれは不可能なので上に書いたようなことになるのだと思います。


一方、元サマナにとっては麻原に対する恐怖があると、その思考パターンを排除してしまうのではないかと思います。


麻原のあらゆるものを完全に排除するというのは行為としては正しいのですが、それは麻原に対する恐怖の裏返しであり、真実を見えなくしてしまう。



僕には自分の持つ思考パターンとは別に麻原モードとでも言うべきものがあり、それで考えることが出来ます。


それは本人の意思で切り替わるというものではなく、自然にそうなって答えを出すということですが、この時もそのモードで色々と考えていました。