その次に考えたのはオウム以外のほかの事件のことでしたね。
殺人事件の犯人の家族や親族はいったいどういうことになっているのだろう?
もしかしたらオウムと同じようなことになっているのかもしれない。
それまでは考えることもなかったことを、オウムに関わりあったことで考えるようになりました。
少なくとも、自分にはその家族や親族を責める権利はないよなあ、と思ったりしましたね。
それでまた就職活動をしなければならなくなるわけですか、また履歴書を書くところで悩んでしまいました。
正直にオウムに出家していたことを書けば採用されるはずがない。
だからと言って嘘を書くのはやはり心苦しい。
「善人なおもて往生をとぐかあ。」
とか意味不明のことを言いながらまた嘘の履歴書を書き上げてしまいました。
こうなってくるともはや自分には誰をも責める権利などないように思えてきましたね。
まあ、実際そうなんですけど。
誰をも責めないかあ。
とぼんやり考えていたら、「あれ?これってもしかして非暴力?」
という考えが浮かびました。
非暴力は本来は修行者にとって一番最初の実践課題のはず。
仏教においてもヨーガにおいてもこれなくして修行などありえないという土台。
なんだか色々あったけど、ようやく辿り着けたのかなという気がしました。