以前にメールいただいて
■親が病気になって
あぁ私はこんなに親を
大事に思っていたんだな
と気づきました。
先週かな
親のことの呟きが
いくつか目立ちましたので
本日はそのことを
いよいよ始まった~の時期に
親が高齢になり変化してくると
娘は見守りや買い物・手伝いなど
その延長で、入院やリハビリ、
ましてや介護になっていくと
私がしっかりしていないとと
気丈にもなっていきますね
気づかないうちに、どこかで
ずっと気が張っている
のかもしれません
ここからは
心理療法の人間として書きますので
現在 親の世話や介護などで
大変だという方は静かにお読みください
親の病気や痴呆の症状なども含め、
高齢親の変化を感じてきたとき
まず第一に何を感じるでしょう
「いよいよ 我が家も
こういう時期に入ったか」
思考の部分ではそうですね
では感情ではどうでしょう
当たり前のようですが
これは
悲しみなのですよね
しかし ここなんです
悲しみをちゃんと味わうことなく
立ち向かう気持ちだけで対処に入ると
悲しみは深い部分に追いやられて
心の奥深くに潜んでしまいます
その意味は
子供の頃のあなたが、
あなたの中で肩を落として泣いている
とでも言えばいいのでしょうか
それを誰も癒してあげずに見て見ぬふりする
あー大変、でもない
まいったな、でもない
やることいっぱいだ、でもない
しっかりしないと、ではない
ただ ただ 悲しかった
はずなんですね
親が壊れていく姿を
目の当たりにしたときは
そうではなかったでしょうか
入院のベッドに
横たわった小さな親を見るとき、
親の話すことが少し
意味わからなくなったとき、
やけに怒りっぽくなったり、
受け答えが変わってきたとき
あなたはただ 悲しかったのだと思います
そして次に怖さと不安
世の無常や
生きることの残酷さなど
色んな気持ちが湧くはずです
神はいるのか
と疑いたくなったひとも
いたことでしょう
それでいいのですよ
それでいいの
しっかりしなくちゃの前に
きちんとその感情に気づいて
その理解を丁寧に通ることで
そのあと 厭世的な感情が
湧かなくなります
自分の奥に悲しみをおさえこんでしまうと
そのあとの頑張る介護や世話が
ただ切なく辛く感じてくるでしょう
悲しいというのを感じた
その上で、
これが多くのひとの通る道というものなのか
と、頃合いを見計らって、
一気に達観することです
このプロセスがあってはじめて
じゃ、私も ひとつ頑張るか!
となれば心理的に
さほど問題ないその後がおくれます
誰もが通る
そして誰もが悲しく思う
それで当たり前なのです
みんな同じなのですよ
そしてもうひとつは
「他と比べる」
心理の分野では比較といいますが
これは非常に問題を根深くします
他の同世代高齢者親子の旅行話や
美味しいご馳走食べに行った♪など
たまに聞くそんな話に
自分たち親子を比較し
いいなぁと羨ましい気持ちになったり
自分の親は可哀想だと感じるその比較です
あのね、
病院や施設にいるのが
可哀想なわけではないです
むしろ
多くの他人の手で
助けてもらえるということは
どれだけ幸せかと考えてみてください
親御さんが
徳を積んできたからこそ
他人に助けてもらえている
そう考えたことはないですか
家族が助けるのは
ある意味当たり前ですから
家族以外の他人が
どれだけ助けてくれるのか
ひとりで住んでいる親御さんだったら
ご近所の皆さん、友人たちや
知り合いの皆さん、
ケアマネさんたち、
その方たちがみんな
親身になってくれるかどうか
やはりそれはご本人や
家族の見えない徳の力
これに関係するものでもあるでしょう
他人に日常生活を助けてもらう
他人に自分の親を任せる
私たち世代は この先
学んでいく項目でしょう
●関連記事
↓↓↓
脱不安 親を見守っているひとへ