象の夢を見たことはない -98ページ目

映画『LOOPER/ルーパー』

高校のときに好きだった現代国語の教師が、SFについてこう言った。
「あんなのは文学ではない。敢えてそうであると言えるのは安部公房だけだ」
そのころは、星新一とか小松左京とか筒井康隆とか。日本のSF全盛期だったから、そういう状況にムカついていて、そんなことを授業で言ったのかもしれない。

じゃあ私小説だけが文学なのか?っていう疑問もある。
もともと日本文学だってそういう類いのものだけではなかった筈。
上田秋成とか、幸田露伴とか、内田百間とか、吉田健一とか。
そういう系譜が消え去ってしまって。
そういう小説は今では色モノとして見られている。
文学ってそんな浅いものでもないだろうと。

最近は芥川賞作品も選の中にそういう作品も入って来ていて。
だが頭の固い年寄りはいまだにっていう。

今ならヤツと真っ向から渡り合える自信はあるのだが。
月日というのはお互いに降り注ぐわけで。
先達というのは一方的に爪痕だけ残しやがるやっかいな存在だ笑

『LOOPER/ルーパー』を観た。



タイムパラドックスというのは、あたりまえのようにパラドックスなのだけど。
それはそれとして横に置いておいて、ある限界状況下でその人がどう振る舞うのかという点で、小説というフィクションとSFとはそれほど主題に差なんてないと思う。
ただ、SFの場合は、最初から設定が色モンであるが故にリアリティに対するそのハードルは高いかもしれない。

そういう点でこの作品は、「おお!そう来るか!」みたいなラストシーンへ向かっての畳みかけが、伏線含め綿密に構築されてて凄かった。ひさびさにまともなSF映画を観た感じ。

JBX

ライブ行って来た。
SONSET STRIP。

常に自分のケツに火をつけてくれるヤツを求めている。
年を拾うとそういう感じ?
自分の上の世代にロールモデルがない。
悲しい世代なのかもしれない。

なので、だいたい刺激を貰うのは若い衆だ。
遊んで貰っている。
あるいは勉強させてもらってる。

自分で商売してるヤツ、自分で何か作ってるヤツ、とりあえず一人でなんとかしようとするヤツ。
そういうヤツって、サラリーマンしてると周りにいなくなる。
それってやっぱりオカシイこと。
そう思わなくなるっていうのが一番コワい。

もちろん自分の上の世代で商売してる人なんて星の数ほどいる。
でも、厚かましさだけ増量されたオヤジには興味などない。
損得勘定だけ長けたオヤジとか。
長く生きたその人の長所がそこ集約されている。
なんかそれってどうなん?ってなってしまう。

甘いっていわれても、そこは譲れない。

てなわけで。
今日もそういう若い衆のライブに行って来た。
突き抜けよう。
そういう芯のある奴ら。

そういうコたちって街から少し離れた場所からしか現れない。
不可思議な法則っていうのを感じるのよ。パンクもそう。
例えば、このあたりで言うと、岐阜とか飯田とか豊橋とか。
東京だってそう。東京にはいない。
都心から離れた場所。そういう場所にしれっといたりする。

メンバーは西尾と知多と四日市。
アリだなって思う。



ちなみにドラムのアズマくんが、新井浩文に似ている笑
ヤツのドラムはスゴイ。このバンドの屋台骨だ。
ベースでもありドラムでもある。

$ニャンちゅうなブログ-新井浩文

お盆

大学生のとき、クラブに小野さんというインド人系の顔をした先輩がいた。南インド系ではなく、北インド系の薄い顔のほう。意外とそういう点で男前なのだが、根っからの日本人だ。まあ、それはいい。
彼の実家は岡山で、大学のときは下宿していたのだが。

その頃、部室でなにげに「セーックス!」と叫ぶのがはやっていて。
部室に女子がいないとき、手持無沙汰なとき、自分の気分をアゲたいときにそう叫ぶのだ。というか、叫ぶのはだいたい小野さん。

さて、彼もお盆には実家に帰る。
「おかえり」「ただいま」そういうのがありつつ。
そして、夕食。ご飯も食べ終わって、そろそろお茶をっていうあのくつろぎのヒトトキ。
そういうシーンを想い浮かべて頂ければ幸いである。
あの一瞬の手持無沙汰な瞬間を本能的に捉えた彼はこう叫んだ。

「セーックス!」

食卓が凍りついたのは言うまでもない。

$ニャンちゅうなブログ-ばっちり

みんな、口癖には気をつけような!

目には目を、その手にみそ汁を

高村薫の『李歐』を読み直している。

中国人の李歐が「みそ汁は苦手なんだ」と言いながらも、せっかく作ってくれた守山の為にとりあえずねこまんま状態にして食べるシーンがある。

朝食というのは、ねぼけまなこでおかあさんが作ってくれたものを、おきぬけのぼーとした頭で食べる。そういうところに、その国の人々の本能的な嗜好が見えるものなのかもしれない。いろんな国で朝食を食べたことはあるけど、日本食の朝ご飯ってやはり変だ。生玉子、みそ汁、納豆、のり、漬物。あれを初っ端から食べれる外人っているのだろうか。(みそ汁なんて、汗っぽい茶色い汁なんだよね、南インド人はそういう印象らしく。まあ、カードライスも逆に日本人からすれば○○かけご飯なのだが苦笑)

アン・リーの『ライフ・オブ・パイ』で、日本人が主人公の菜食主義者の母に屈託のない顔で米と肉のスープを食べるように勧めるシーンがある。そういう本能に近いところで、よく言えば柔軟性がある、悪く言えば「他者」を想定することができない。そういう人種だってのをフツーに見抜かれている。国際化というのは、逆から見ればそういう側面もある。

『ライフ・オブ・パイ』っていうのは神様のはなしなんだけど、神さまっていうのをあらためて他の国の人と話したことってないのよね。本気で。日本人同士でもしたことないけど。結局、そういうとこに尽きるのかも知れない。
絶対的な「他者」の存在について。
まあ、それって「想定外」っていう言い訳で終われる時代なんだろうけれど苦笑。
そんな頭で平和って言われてもって困惑するわ。

ライン

ラインからどうやって離れるか?外れるか?
それが芸術家といわれる人たちの命題なんだろうと。
それが彼らを芸術家たらしめるというか。

NHK【ETV特集】人を動かす絵 田中泯 画家ベーコンを踊る

ベーコンの絵の中に出てくるレール。絵の中に影のように存在する立方体。ガラス張り。それらは、すべて彼を縛り付ける何かであって。その中で苦悶し、叫び、変容する。

$ニャンちゅうなブログ-教皇

その、もがく様。というのが田中泯氏があらわそうとした何かで。
彼がベーコンの絵を見て受け取った波動なのだろうと。

「絵の前にある空気を動かさない絵は、絵ではない」と。

$ニャンちゅうなブログ-bcaon

テートギャラリーで、彼は実際にこの絵を見ながらそう言った。
同じモチーフで晩年にベーコンが描いた絵もそこにあった。

$ニャンちゅうなブログ-Second Version of Triptych 1944 1988

これを見た泯氏は即座にぶった斬った。
「襖絵じゃないんだから」
実際の絵がもつ何かというのは、相対してみないとわからないのだろうけど。
なぜか、彼のこの独断には惹かれた。
(ただ自分はこっちの絵がもつ死の影のほうが好きかもしれない)

肉体を超越して、肉体からはみだそうとする魂の動き。うごめき。
それは肉塊でなければ表現できない。
そしてそれは舞踏家を熱くする。
生の塊である彼にとって死の影は忌むべきものでしかないのだろう。彼の師の土方巽氏の舞踏を豊田市美術館で映像で見たけど、どっちかというと土方氏の中にはその匂いがあった。ベーコンが持つ破滅の匂いというか。泯氏の舞踏にはそれがない。自分にとってはいくぶん健全すぎるというか。生きているときに土方氏の舞踏を見たかったなあ。

そういうアレだ。テートの学術員はanxietyと言ったのだけど、それじゃちょっと上品すぎてagonyのほうが合っている気がするのだけど。
まあ、なんにせよ田中泯氏の言葉はわかりやすい。生成りだ。
ああいう素直な言葉が使えるようになりたいなあ。

再放送は、2013年8月10日(土)午前0時45分※金曜日深夜 NHK Eテレで。

ベーコンって83歳まで生きたんだけど、狂わないで生き続けることができるんだね。
でも若い時の作品のほうがやっぱりヤバい。エネルギーがはみ出てるというか。
技術的には粗いんだけど洗練されるとなにかが無くなる。前からずっと思ってたのだけど、番組でも言ってたように、自分が思ったことをすべて表現できるようになると終わってしまう何かがあるのかもしれない。ピカソなんてそういう点で最初から終わってる。彼ほど不幸な作家はいないと思う。