公共のあいまいさ
企業の場合、製品を出す場合にそれを検証するシステムが備わっている。
製品だけでなく、それ以外の一般ユーザに出す障害修正のようなものでも、1つのユーザに出す固有修正レベルのものでも。
マニュアル、規格、グループレビュー、組織によるレビュー、テスト部隊による検証。
それらの形自体も決してずっと同じものでなく、それをすり抜ける穴があれば、それを分析し、相応した対応を考案し、その対応についても、レビュー、組織レビュー、検証部隊によるレビューなどを経て組織内で運営されることになる。
STAP細胞の問題を見ていると、過去企業人だった自分の常識レベルの感想からすれば、上記のようなシステムが確立されていない、あるいは甘い組織の問題のように思える。
理研の内部の人が怒りとか、新聞に書いているのは、新聞屋がそういうことを当たり前のようにわかっていて、「何オコってんだよ、ばかだよなぁ、当然のことしてないんだもん。あたりまえじゃん」という民間のビジネスパーソンの、国から予算を貰っている法人だとか、公務員的な自らの仕事のユーザやお客さんが見えていない社会人に対する「こいつら、ほんとしょうがねーなあ。たのむよせんせ」という反応が広くあって、そう書けば目を惹くと知ってるからで。
ユーザからのフィードバックがない。あるいは意識されていない人たちの甘さが本質としてある。
今、ある学校にいるのだけど、そこにいる人たちが、ほんとあまりにも一般企業人的な常識がないことに驚く。今はそれを通りこして、既にあきらめの境地なのだが苦笑。意識がある人もいるのだけど、せんせいという自尊心はかなり強固なものらしい。政治家しかりその他そうよばれる人しかりなんだろうねえ。やれやれ。
製品だけでなく、それ以外の一般ユーザに出す障害修正のようなものでも、1つのユーザに出す固有修正レベルのものでも。
マニュアル、規格、グループレビュー、組織によるレビュー、テスト部隊による検証。
それらの形自体も決してずっと同じものでなく、それをすり抜ける穴があれば、それを分析し、相応した対応を考案し、その対応についても、レビュー、組織レビュー、検証部隊によるレビューなどを経て組織内で運営されることになる。
STAP細胞の問題を見ていると、過去企業人だった自分の常識レベルの感想からすれば、上記のようなシステムが確立されていない、あるいは甘い組織の問題のように思える。
理研の内部の人が怒りとか、新聞に書いているのは、新聞屋がそういうことを当たり前のようにわかっていて、「何オコってんだよ、ばかだよなぁ、当然のことしてないんだもん。あたりまえじゃん」という民間のビジネスパーソンの、国から予算を貰っている法人だとか、公務員的な自らの仕事のユーザやお客さんが見えていない社会人に対する「こいつら、ほんとしょうがねーなあ。たのむよせんせ」という反応が広くあって、そう書けば目を惹くと知ってるからで。
ユーザからのフィードバックがない。あるいは意識されていない人たちの甘さが本質としてある。
今、ある学校にいるのだけど、そこにいる人たちが、ほんとあまりにも一般企業人的な常識がないことに驚く。今はそれを通りこして、既にあきらめの境地なのだが苦笑。意識がある人もいるのだけど、せんせいという自尊心はかなり強固なものらしい。政治家しかりその他そうよばれる人しかりなんだろうねえ。やれやれ。
山田太一
山田太一の「ありふれた奇跡」がふと目にとまり、
今借りてみている。
ずいぶん昔にテレビドラマでやってたときは、
演技過剰的なセリフ回しが、その時代の空気感とか
そのときの自分の在り様とかと合わなくて見てなかったのだけど。
なぜか今見たくなったのは、あまりに自分の周りに傷付かないための防御線をはりまくるいまどきの風潮にちょっと疲れたのだと思う。
バイザのオオイくんがゆれるあみくんの
ecosystemを見てきた。「散り際の桜がいちばん綺麗なんじゃ」って言った後、「嘘だけど!」って言って大笑いするメグを見て、幸せな気持ちになりました。LOVE。
ていうのをリツイートしてるのを見て、ああ、いまどきの若者ってこんなふうにめんどくさく深化しているんだと。
大人どものリスク回避という大義名分のウソ臭さに対する若いコたちの身をまもるための対応。
そこにあるのはシステム。
化石だな、太一くんもおいらも。
さて、終わったら向田邦子のドラマでもみるか苦笑
今借りてみている。
ずいぶん昔にテレビドラマでやってたときは、
演技過剰的なセリフ回しが、その時代の空気感とか
そのときの自分の在り様とかと合わなくて見てなかったのだけど。
なぜか今見たくなったのは、あまりに自分の周りに傷付かないための防御線をはりまくるいまどきの風潮にちょっと疲れたのだと思う。
バイザのオオイくんがゆれるあみくんの
ecosystemを見てきた。「散り際の桜がいちばん綺麗なんじゃ」って言った後、「嘘だけど!」って言って大笑いするメグを見て、幸せな気持ちになりました。LOVE。
ていうのをリツイートしてるのを見て、ああ、いまどきの若者ってこんなふうにめんどくさく深化しているんだと。
大人どものリスク回避という大義名分のウソ臭さに対する若いコたちの身をまもるための対応。
そこにあるのはシステム。
化石だな、太一くんもおいらも。
さて、終わったら向田邦子のドラマでもみるか苦笑
時間と憂愁
時間について。
時間は、常に自分が向かい合っているもので、
真剣になにかをやっているときほど特に。
でも、そういうときにこそ、それを直接に認識することはできない。
常に間接的にしか知覚できない。
時間については、そのときの感情とか感動とかを後で貼り付けることによって認識可能な形態になる。記憶として。キリコの作品を見ててそう思った。
キリコは自身の絵画を形而上絵画と位置付けたとか。
日曜美術館を見ていて。ダリの記憶の固執を思い出した。
あれも時間に対する認識の話なのだけど、ダリはあまり時間について真剣に考えていたとは思えない。
時間というのは、形而上的なものなのか。
形而上というと、「感覚的経験を超えたもの」としてとらえられるが、哲学的には
形而上学とは、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野
とされている。
しかしながら、感覚を超えたものであれ、理性的な思惟であれ、それらはすでに人が考えうるものとしての枠組み内にしかなく、結局のところ人の想像の範囲内にしかない。逆に、それらを眺めることで、人はどのように物事を認識するか、逆にいえばそうとしか認識できないのかという範囲がわかる。人は自分がわかるものしかわからないし、わからないものには口を閉じるしかない。
ないのだけれど。そこは敢えて、というのが人の性で。
「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」とはアンドレ・ブルトンの言葉であるが、シュールレアリズムが追っていたのは、時間そのものであり、時間がもつ実在的側面である。それゆえ、キリコとは違う。キリコはそういう意味でシュールレアリズムの画家ではない。少なくともブルトン的には違う。見ているのは、「時間」という同じ一枚のコインの表と裏なのだが。
たぶん、そういうことなのだと日曜美術館を見て。
「通りの神秘と憂愁」を見て、ブルトンは瞬間的な痙攣を感じたのだと。つまり、彼の絵を通して、その瞬間を、時間そのものを感じたのだ。

だけど、書いている本人は、記憶としての時間を描いている。
本質的に逆であって、ブルトンが以降の彼の絵を評価しなかったのはそういう理由なのだと。
ナゾ以外の何を愛せようか。自分も、1910年代以降のキリコは、なぜこんな絵を描いてたんだろうとブルトンとそういう意味で同じだったのだけど、この日曜美術館を見てて、「あー、そういうことなのか」とやっと気づいた。たぶん、40歳超えないとわからなかったのだ。時間というものの重みが、既に記憶のほうへ行っちゃっているんだろうね、瞬間じゃなく。。なんだか、オレも、もう若くねえなあ苦笑。
時間は、常に自分が向かい合っているもので、
真剣になにかをやっているときほど特に。
でも、そういうときにこそ、それを直接に認識することはできない。
常に間接的にしか知覚できない。
時間については、そのときの感情とか感動とかを後で貼り付けることによって認識可能な形態になる。記憶として。キリコの作品を見ててそう思った。
キリコは自身の絵画を形而上絵画と位置付けたとか。
日曜美術館を見ていて。ダリの記憶の固執を思い出した。
あれも時間に対する認識の話なのだけど、ダリはあまり時間について真剣に考えていたとは思えない。
時間というのは、形而上的なものなのか。
形而上というと、「感覚的経験を超えたもの」としてとらえられるが、哲学的には
形而上学とは、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野
とされている。
しかしながら、感覚を超えたものであれ、理性的な思惟であれ、それらはすでに人が考えうるものとしての枠組み内にしかなく、結局のところ人の想像の範囲内にしかない。逆に、それらを眺めることで、人はどのように物事を認識するか、逆にいえばそうとしか認識できないのかという範囲がわかる。人は自分がわかるものしかわからないし、わからないものには口を閉じるしかない。
ないのだけれど。そこは敢えて、というのが人の性で。
「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」とはアンドレ・ブルトンの言葉であるが、シュールレアリズムが追っていたのは、時間そのものであり、時間がもつ実在的側面である。それゆえ、キリコとは違う。キリコはそういう意味でシュールレアリズムの画家ではない。少なくともブルトン的には違う。見ているのは、「時間」という同じ一枚のコインの表と裏なのだが。
たぶん、そういうことなのだと日曜美術館を見て。
「通りの神秘と憂愁」を見て、ブルトンは瞬間的な痙攣を感じたのだと。つまり、彼の絵を通して、その瞬間を、時間そのものを感じたのだ。

だけど、書いている本人は、記憶としての時間を描いている。
本質的に逆であって、ブルトンが以降の彼の絵を評価しなかったのはそういう理由なのだと。
ナゾ以外の何を愛せようか。自分も、1910年代以降のキリコは、なぜこんな絵を描いてたんだろうとブルトンとそういう意味で同じだったのだけど、この日曜美術館を見てて、「あー、そういうことなのか」とやっと気づいた。たぶん、40歳超えないとわからなかったのだ。時間というものの重みが、既に記憶のほうへ行っちゃっているんだろうね、瞬間じゃなく。。なんだか、オレも、もう若くねえなあ苦笑。
無限の増殖の構造
ダーク・フェアリーというホラー映画を見てて美術の映画における大切さを再認識。
アルバトロスだとかの低予算B級映画をたまにレンタルDVDで掴まされてその低品質さ加減にうんざりさせられるのだが、その理由がストーリーが陳腐なのはまあすぐにわかるのだが、低予算であるが故の美術の陳腐さも底流にあることに気づく。
ホラー映画なんてだいたいパターン分けできるストーリーだったりするのだけど、それゆえ美術がモノをいう。撮影方法とか。この映画は、ギレルモ・デル・トロ監督なのでそのあたりは作りこまれているなあと。
くだんの映画で、気づいたのはケルト美術。いわゆる欧米的なシンメトリーとは、まったく違う不安定感がケルト美術にはあり、それはケルト美術がもつ「無限の増殖の構造」にある。それによって、見ている人の不安感をあおるわけで。なるほどねと。映画における美術の在り様について、その底支え感が大事なのだねと。
『リンディスファーンの福音書』『ダロウの書』に現れているケルト渦巻模様には、「反転し捻れながら無限に連続・増殖するかたち」が一貫して守られている。日本の家紋や太鼓の装飾など、単体で表現されている「三つ巴」や、二つの勾玉を合わせた中国・朝鮮の「陰陽」二分割の模様とは違い、先の見えない無限の増殖の構造を持っている。
(from ケルト文化の美術 http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kawada%2806-1-30%29
まあ、使われてるのは、ある扉だけなのだが。
なにごとにせよ、一貫したものには一貫した思想が必要で。そういうのが底辺からあるかないか、っていうのは、でも予算云々の話でもないような気もする。
自分に翻って考えると、今後自分が生きていくためにやろうと思っていることに対して予算のことがずっと頭の重石としてあったのだけど、やらなければいけないことは、予算に対する心配ではなく、何をしたいかってことだと改めて。
杜子春ではないけれど、結構、目先の欲だったりで左右されちゃうのでねぇ、困ったことに。結局、内田樹氏の「ドブさらい」の話ではないけれど、下がってくるモチベーションを上げなおすために、外に積極的に出て違う風にあたることと同じで、常にそこには戻って考えなければなあと。
今の自分が行っている学校の「先生」と呼ばれる人たちに対する「人としての違和感」の根本原因もそこにあることに気づく、夕寝からの目覚めの瞬間。植物もそうだけど、人にも根がないと。。無限に増殖するために。
アルバトロスだとかの低予算B級映画をたまにレンタルDVDで掴まされてその低品質さ加減にうんざりさせられるのだが、その理由がストーリーが陳腐なのはまあすぐにわかるのだが、低予算であるが故の美術の陳腐さも底流にあることに気づく。
ホラー映画なんてだいたいパターン分けできるストーリーだったりするのだけど、それゆえ美術がモノをいう。撮影方法とか。この映画は、ギレルモ・デル・トロ監督なのでそのあたりは作りこまれているなあと。
くだんの映画で、気づいたのはケルト美術。いわゆる欧米的なシンメトリーとは、まったく違う不安定感がケルト美術にはあり、それはケルト美術がもつ「無限の増殖の構造」にある。それによって、見ている人の不安感をあおるわけで。なるほどねと。映画における美術の在り様について、その底支え感が大事なのだねと。
『リンディスファーンの福音書』『ダロウの書』に現れているケルト渦巻模様には、「反転し捻れながら無限に連続・増殖するかたち」が一貫して守られている。日本の家紋や太鼓の装飾など、単体で表現されている「三つ巴」や、二つの勾玉を合わせた中国・朝鮮の「陰陽」二分割の模様とは違い、先の見えない無限の増殖の構造を持っている。
(from ケルト文化の美術 http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kawada%2806-1-30%29
まあ、使われてるのは、ある扉だけなのだが。
なにごとにせよ、一貫したものには一貫した思想が必要で。そういうのが底辺からあるかないか、っていうのは、でも予算云々の話でもないような気もする。
自分に翻って考えると、今後自分が生きていくためにやろうと思っていることに対して予算のことがずっと頭の重石としてあったのだけど、やらなければいけないことは、予算に対する心配ではなく、何をしたいかってことだと改めて。
杜子春ではないけれど、結構、目先の欲だったりで左右されちゃうのでねぇ、困ったことに。結局、内田樹氏の「ドブさらい」の話ではないけれど、下がってくるモチベーションを上げなおすために、外に積極的に出て違う風にあたることと同じで、常にそこには戻って考えなければなあと。
今の自分が行っている学校の「先生」と呼ばれる人たちに対する「人としての違和感」の根本原因もそこにあることに気づく、夕寝からの目覚めの瞬間。植物もそうだけど、人にも根がないと。。無限に増殖するために。





