象の夢を見たことはない -71ページ目

予感、そして未来

このコ、ブレークするわ。絶対。



こういう予感は外れない。外したことはない。

たぶん誰でもそう思うはず。

予感というのもイメージスキーマなのだろうか。

カリスマ性に対する直観めいたものといい。

ああいう類の霊感的なモノを形式知化したいのよね。

人は何度も見たものに対して親近感とか愛情を持つ。

などという一般的な心理学説から逸脱した、例外的な事象。

セレンディピティをこの世界にインプリメントする、実装する。

そういう能力が、人に備わっている能力としてあたりまえのものだと言い切れれば、

そこから新しい地平が見えるような気がする。

ウソとかインチキとかでない、人そのものに対する理解。

真贋

美は信用であるか。そうである。
純粋美とは譬喩である。

くだんの小林秀雄の言葉は、「真贋」の中にある。
「真贋」は、新潮文庫の『モオツァルト・無常という事』に収録されている。
実は、この言葉、秀雄はまったく違う意味で使っている。

昨日の自分のブログは彼の言葉に触発されたまったくの創作。
本当は、骨董の話なのだ。

ある骨董屋の主人が、まだ青年の頃、競売会で志野の美しい茶碗を見た。
なんとしてもおとしてやろうと、自らの懐具合を超えて脂汗まで垂らしながら
六千円と肚に決めた。まだ会にも慣れぬこともあり、人づてに
それをおとしてもらったのだが、自分の値段の半値で手に入った。
小躍りしてると先輩の商売人がきて、
「この阿呆、あれはどこの会でも三百円を超えたことがないぞ」と。
東京に戻ってある金持ちにそれを入れたが果たして数日で返された。
眠れぬ夜を超えて、朝、スズメの鳴き声を聞いていると、
茶碗はいいのだ、オレに信用がないだけだという考えが浮かび、
突然の安心感でぐっすり眠ったそうだ。
彼に信用がつくに従い、その茶碗が美しくなったことは言うまでもない。

そして冒頭の言葉につづくわけだ。

美は信用であるか。そうである。
純粋美とは譬喩である。
と。

純粋美なんてものなどないのだ。
それは便宜的な物言いであって、信用によって美は決済されうるのだと。

なお、秀雄の「真贋」はここで終わるわけではなく続きがある。
そこを読んでいると果たして、小林が素直にそう言っているのか?と
いうのがわからなくなってくる。そこが小林秀雄の難しさなのだが。
ひでを~。

実はこの本には「雪舟」という随筆もあり、そこにあの破墨山水図の話も出てきていて。
今、見返していてはじめて気付いたのだけど。

純粋美とは譬喩である

雪舟 破墨山水図

破墨山水図

野見山暁治氏の絵を見ていて、自分はなぜ抽象画が好きなのだろう?と。

そういえば、妹がアメリカに住んでいるとき、知り合ったアメリカ人が
「日本食は大人の食で、アメリカのそれは子供の食だ」と。
ハンバーガーしかり、フライドチキンしかり。
日本食は子供にはわからない。大人になって、初めてその味がわかる。

具象画と抽象画もたぶんそういう関係なのだろうと。
子供のときは抽象画の意味がわからなかった。

美は理智ではなく、情である。

そう思っていた。確かにそういう部分も大きい。
しかし、小林秀雄はこう言っている。

美とは信用であるか。そうである。
純粋美とは譬喩である。

信用であるという意味はいまだにわからない。
比喩であるというのは昨日ようやく気が付いた。
比喩というのはメタファーである。

メタファーというのは言葉だけではない。
非言語的な表象メタファーというものがあり。

イメージスキーマ。
知覚的経験に直接根ざした
知覚的カテゴリーを根拠とした経験を直接的に表象するものである。

イメージスキーマは世界がどのように機能するかというわれわれの考えにとって非常に基本的なものであり、逐語的な形で使用されるだけでなく、比喩的に使用されてほかの抽象的なタイプの考えを表現する。
われわれは、イメージスキーマを毎日、何度も、それについて全く考えることなく使用している。

そういった意味での比喩。
今日の日曜美術館は雪舟の特集だった。
正直、雪舟というのがそんなにすごいのかというのがわからなかった。
有名な秋冬山水図を見てもピンとこなかったのだけど。
要はテクニックの問題なのかと。
それなら習熟すればよいではないかと。

この絵を見てわかった。
より形而下よりの非言語的な表象メタファー。
その領域ではモノの見方と情が混然一体となっている。
そういう意味で美は智でもあり情でもある。

たぶんそういうことなのだろう。
もし、人がこの世界を生きる上において、自らの認知をあるいは情を信ずることを前提とするという意味で、それを「信」と言っているのであれば、まさに美とは信用であると。

空っぽの温室

先日、キュウリが倒された。

ハウス

ルーチンワーク。
根ほり開始 2015.1.9。
根堀後、土壌消毒。
バスアミド投入し、ビニールで覆って2週間。


トマト苗の状況

苫苗

接ぎ木は来週の予定だったが、これだと自根にするしかない。
台木はベスパ。あの大量の台木の苗、どうするつもりだろう?

生きること

オレはどうだろう?

水曜販売で自分が作ったトマトを売っているわけだけど。
で、作ったとはいえ、施設も原材料も国の税金なわけだけど。
もちろん自分の懐にお金が一銭も入ってくるわけでもないけれど。

それでも、作ったもの以上の何かをお客さんに期待するなんてことはない。
それが巡り巡って世界が変わるとか。

甘ったれてるんじゃないか。
うぬぼれんなよと。
何様だよと。

おもうわけだな。
美味しいと思ってくれればいいし、
あっちのほうが美味しかったし、安かったよと言われれば、
よーし、オレもと思う。

多分、それは自分が自分のお金でモノを作っても同じ。

生かされていることに思いを馳せれないヤツに
愛だの平和だの語られてもなあ。

ただそれだけ。
それだけのために生きたいと。
単純にそう思う。

他人のふんどしで他人が相撲とって、
世界を変えたのはオレのおかげなんて
言うな。