道程
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
高村光太郎の「道程」
という詩があるのだが。
昔は、自分がいわゆる中二である頃はだが、
前人未到の何かという幻想があった。
まだ「野生の王国」とか「知られざる世界」とか「すばらしい世界旅行」とか。
そんなテレビ番組がやってた小学校のときだ。
そのあと、水曜スペシャルで「川口浩が洞窟に入る♪」的な番組が。
当時それがお笑い番組だとはわからなかった。
なんせ子供なのだから。
さて「野生の王国」や「知られざる世界」の前に
宣教師もレヴィ=ストロースもそこに既に行ってたかも知れない。
そこでだ。高村光太郎の道程をどう読むか?
果たして彼の前に道はなかったのか?
というのは彼の前にオーギュスト・ロダンがいたことを踏まえてどう読むかということ。
オレはロダンと高村光太郎は違うと思う。明らかに違う何かがある。
それが他者から見たオリジナルの意味だと思う。
自分が何をどう苦しむのかというのを他者は評価している。
自らの人生と照らし合わせて。
それを否定することがエゴ。
そう自分は思う。
今気付いたがこれってあっちのほうのどうていとマジでかけてあったのだね。
文部省の役人あなどれん苦笑
逆に言えば自分の中にないものを人は評価できない。
他者に評価できないものを評価してくれるよう期待する?
それこそ矛盾する話だ。ん?啓蒙か。、ああそういうことか。。
そういう意識も他者は気づくのよ。うざいと。何様かと。まるで自分のようだと。
果たして中島敦はそこに気づいていたのだろう。か?@山月記
中島敦は好きだ。
好きとか嫌いとかの理由なんて結局後付けの理屈でしかないのよ。
それでいいし、それ以上のなにを求めることなど俺にはない。
僕の後ろに道は出来る
高村光太郎の「道程」
という詩があるのだが。
昔は、自分がいわゆる中二である頃はだが、
前人未到の何かという幻想があった。
まだ「野生の王国」とか「知られざる世界」とか「すばらしい世界旅行」とか。
そんなテレビ番組がやってた小学校のときだ。
そのあと、水曜スペシャルで「川口浩が洞窟に入る♪」的な番組が。
当時それがお笑い番組だとはわからなかった。
なんせ子供なのだから。
さて「野生の王国」や「知られざる世界」の前に
宣教師もレヴィ=ストロースもそこに既に行ってたかも知れない。
そこでだ。高村光太郎の道程をどう読むか?
果たして彼の前に道はなかったのか?
というのは彼の前にオーギュスト・ロダンがいたことを踏まえてどう読むかということ。
オレはロダンと高村光太郎は違うと思う。明らかに違う何かがある。
それが他者から見たオリジナルの意味だと思う。
自分が何をどう苦しむのかというのを他者は評価している。
自らの人生と照らし合わせて。
それを否定することがエゴ。
そう自分は思う。
今気付いたがこれってあっちのほうのどうていとマジでかけてあったのだね。
文部省の役人あなどれん苦笑
逆に言えば自分の中にないものを人は評価できない。
他者に評価できないものを評価してくれるよう期待する?
それこそ矛盾する話だ。ん?啓蒙か。、ああそういうことか。。
そういう意識も他者は気づくのよ。うざいと。何様かと。まるで自分のようだと。
果たして中島敦はそこに気づいていたのだろう。か?@山月記
中島敦は好きだ。
好きとか嫌いとかの理由なんて結局後付けの理屈でしかないのよ。
それでいいし、それ以上のなにを求めることなど俺にはない。
悲しき熱帯
THE MIDNIGHT LOVERS改めLOVERSのライブを観に鈴鹿まで。
久々に夜の23号線。
前も車、後ろも車、横にも車。
普段、田舎の一本道しか走ってない。
昔は気づかなかった。車線変更するときかなりの緊張を強いられる。
感覚というのは普段使わないと途端に退化する。
単に老化しているのか。
そんなふうに閉じている感覚で日常生活を送っている。
会社にいたころにはただの風景だった路線の風景。
今は道沿いのすべての店や工場をみると
それを作った経営者の苦労に想いを馳せてしまう。
日常の意識というのは、自分の生活が変わるとまったく違うものになる。
地方のライブハウスは客層は若い。どこでもそうだが。
さすがに転換時は中に居れない。
遊びの中にある緊張感。
知っている人がいない
ライブハウスとかクラブとかにしかない。
ライブ会場で転換中のメンバーの様子を見るのが好きだ。
限られた時間の中で自らの判断で自らが動く。
子供の頃、仕事をする大人を見るのが好きだった。
最近は子供のままの雰囲気のライブハウスが多い。
昔はライブハウスはもっとこわい場所だった。
自らの大人度が査定される場所だった。
会場でそこの空気感をまるっきり変えてしまう。
そういうグループじゃなければ、プロフェッショナルではない。
大人と子供との違い。
さて、自分は本当に今大人なのか?
ただ老いているだけではないのか?
ただ老いているだけの何物か。
ただ状況に慣れてしまっただけの人。
ナプ。
それを自らに突きつけるためにライブハウスに行っているのだが
果たしてもうそういう雰囲気はライブハウスにはないのかも知れない。
そういった意味で彼らに救われた。
でも、DIG YOURSELF。
あの大人になり切れてない暗さ。
それが本当は好きだったりもする。
夜明け前が一番暗い。
誰かのそんな言葉をふと思い出した。
自分はライブハウスで再生したいのかも知れない。
原初の森に生きる。
ライブハウスで会いましょう。
久々に夜の23号線。
前も車、後ろも車、横にも車。
普段、田舎の一本道しか走ってない。
昔は気づかなかった。車線変更するときかなりの緊張を強いられる。
感覚というのは普段使わないと途端に退化する。
単に老化しているのか。
そんなふうに閉じている感覚で日常生活を送っている。
会社にいたころにはただの風景だった路線の風景。
今は道沿いのすべての店や工場をみると
それを作った経営者の苦労に想いを馳せてしまう。
日常の意識というのは、自分の生活が変わるとまったく違うものになる。
地方のライブハウスは客層は若い。どこでもそうだが。
さすがに転換時は中に居れない。
遊びの中にある緊張感。
知っている人がいない
ライブハウスとかクラブとかにしかない。
ライブ会場で転換中のメンバーの様子を見るのが好きだ。
限られた時間の中で自らの判断で自らが動く。
子供の頃、仕事をする大人を見るのが好きだった。
最近は子供のままの雰囲気のライブハウスが多い。
昔はライブハウスはもっとこわい場所だった。
自らの大人度が査定される場所だった。
会場でそこの空気感をまるっきり変えてしまう。
そういうグループじゃなければ、プロフェッショナルではない。
大人と子供との違い。
さて、自分は本当に今大人なのか?
ただ老いているだけではないのか?
ただ老いているだけの何物か。
ただ状況に慣れてしまっただけの人。
ナプ。
それを自らに突きつけるためにライブハウスに行っているのだが
果たしてもうそういう雰囲気はライブハウスにはないのかも知れない。
そういった意味で彼らに救われた。
でも、DIG YOURSELF。
あの大人になり切れてない暗さ。
それが本当は好きだったりもする。
夜明け前が一番暗い。
誰かのそんな言葉をふと思い出した。
自分はライブハウスで再生したいのかも知れない。
原初の森に生きる。
ライブハウスで会いましょう。
状況を作るということ
先日のラジコンネズミの話を補足しておくと、
あれは報酬系を直にいじっているわけで本来の生物の状態ではない。
報酬系の働きは、学習や環境への適応において重要な役割を果たしている。
例えば我々は、「この仕事を完了したらボーナスがもらえる」などと、長期的な報酬を予測することで、疲労や空腹といった短期的欲求を抑えて仕事を優先できる(from wikipedia)
つまり、実際には自らの報酬系をどう構築するかというのが問題なのであって。
しかしながら、それは自らが置かれた環境によって制限される。
人間、特に男のコの場合はどういう場所で生活しているかが一番大事でね。なんだかんだ言っても、オランダの選手だとかロシアの選手にもまれているうちに、始めのうちは恐い思いして、で、次に死に物狂いでやってるうちに、普通になって。普通というのは世間一般で言われている高いレベルで、そのあと勝ちあがっていったら、一流で…一流の中で一番だったら超一流だよ。
人間というのは状況によって研がれるから、状況をつくらないと駄目ですよ。そうでなければ若手も育たないですよね。by 前田日明
状況を作るということってなんだろう?
まずアウトプットすること。
えいや!でとりあえず出してみる。
すると状況がそこに作られている。
そういうことなんだろうか。
遊びとか好奇心はその一歩を踏み出すための魔法の触媒。
わくわくしたいのぉ。

あれは報酬系を直にいじっているわけで本来の生物の状態ではない。
報酬系の働きは、学習や環境への適応において重要な役割を果たしている。
例えば我々は、「この仕事を完了したらボーナスがもらえる」などと、長期的な報酬を予測することで、疲労や空腹といった短期的欲求を抑えて仕事を優先できる(from wikipedia)
つまり、実際には自らの報酬系をどう構築するかというのが問題なのであって。
しかしながら、それは自らが置かれた環境によって制限される。
人間、特に男のコの場合はどういう場所で生活しているかが一番大事でね。なんだかんだ言っても、オランダの選手だとかロシアの選手にもまれているうちに、始めのうちは恐い思いして、で、次に死に物狂いでやってるうちに、普通になって。普通というのは世間一般で言われている高いレベルで、そのあと勝ちあがっていったら、一流で…一流の中で一番だったら超一流だよ。
人間というのは状況によって研がれるから、状況をつくらないと駄目ですよ。そうでなければ若手も育たないですよね。by 前田日明
状況を作るということってなんだろう?
まずアウトプットすること。
えいや!でとりあえず出してみる。
すると状況がそこに作られている。
そういうことなんだろうか。
遊びとか好奇心はその一歩を踏み出すための魔法の触媒。
わくわくしたいのぉ。

くらむぼん
おじろくおばさ。さまんさたばさ。シャバドゥシャバダバ。
だいぶ違うくなった。
オノマトペ。
物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として用いられており、我々の生活は数限りないオノマトペを利用することによって成り立っている。とか。
擬音語と擬態語が成立するのは、言葉のオンのそれぞれに感情が結びついているからで。ブーバキキとかね。音節の分け方、それぞれをどこで切るかという切り方もプレグナンツの法則的なものが言葉にあって、それが不文律的に共有されている。その音の切り方にもある種の情感を醸成する力がある。リズムが身体性と結びついているのと同じように。
宮沢賢治の文学はオノマトペの文学だといわれているが、彼はその効用を熟知して使いこなしていたからこそ、逆に『やまなし』ではその呪縛をきってどういう効果があらわれるかを試したのではなかろうか。
おじろくおばさも『やまなし』的な使い方かも知れない。
遠野物語というのは、日本昔ばなし的ななにか郷愁をさそうものとして認識されがちなのだが、実際には悲惨な話をむかしむかしの過去の話にすることによってしのいできたある種の生活の知恵のようなものがどこかにある。これを果たして知恵と呼んでよいかどうかは自分は判断がつきかねるが。
貧困というのは、環境の中でもっとも人の意識を制限するものかも知れない。
人は上下がさかさまに見える眼鏡をかけさせられると、最初は対応できないのだが、すぐに順応できるようになるとか。
自由というのは、意識が生み出した概念であって、実態はインタンジブルなものである。ある種の容器によってその形がかわるこの種の言葉は多い。
愛だとか、幸福だとか。
自由意志という言葉があるが、実際にはそれは自らの環境において、それぞれの人自らが定義するもので他者から見ればそうでない。そんなこともあり得るだろう。ラジコンネズミの話と同じで、極論すればだが。。そんな領域にいることだってあるかもしれない。
自らは自らを規定している容器の姿は見えない。
おそらく、それはおじろくおばさが我々自身であることも封印してしまう。
なかなか恐ろしい話だけど。
宮沢賢治の『やまなし』は失敗しているのか否か?
たぶん外目にはそうだ。
だが、自分には彼が言葉の殻を破ろうとしたその『遊び』が彼を救っているような気がしている。あれは自分は「遊び」だと思う。遊びから新たな物語は始まるのだ。
だいぶ違うくなった。
オノマトペ。
物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として用いられており、我々の生活は数限りないオノマトペを利用することによって成り立っている。とか。
擬音語と擬態語が成立するのは、言葉のオンのそれぞれに感情が結びついているからで。ブーバキキとかね。音節の分け方、それぞれをどこで切るかという切り方もプレグナンツの法則的なものが言葉にあって、それが不文律的に共有されている。その音の切り方にもある種の情感を醸成する力がある。リズムが身体性と結びついているのと同じように。
宮沢賢治の文学はオノマトペの文学だといわれているが、彼はその効用を熟知して使いこなしていたからこそ、逆に『やまなし』ではその呪縛をきってどういう効果があらわれるかを試したのではなかろうか。
おじろくおばさも『やまなし』的な使い方かも知れない。
遠野物語というのは、日本昔ばなし的ななにか郷愁をさそうものとして認識されがちなのだが、実際には悲惨な話をむかしむかしの過去の話にすることによってしのいできたある種の生活の知恵のようなものがどこかにある。これを果たして知恵と呼んでよいかどうかは自分は判断がつきかねるが。
貧困というのは、環境の中でもっとも人の意識を制限するものかも知れない。
人は上下がさかさまに見える眼鏡をかけさせられると、最初は対応できないのだが、すぐに順応できるようになるとか。
自由というのは、意識が生み出した概念であって、実態はインタンジブルなものである。ある種の容器によってその形がかわるこの種の言葉は多い。
愛だとか、幸福だとか。
自由意志という言葉があるが、実際にはそれは自らの環境において、それぞれの人自らが定義するもので他者から見ればそうでない。そんなこともあり得るだろう。ラジコンネズミの話と同じで、極論すればだが。。そんな領域にいることだってあるかもしれない。
自らは自らを規定している容器の姿は見えない。
おそらく、それはおじろくおばさが我々自身であることも封印してしまう。
なかなか恐ろしい話だけど。
宮沢賢治の『やまなし』は失敗しているのか否か?
たぶん外目にはそうだ。
だが、自分には彼が言葉の殻を破ろうとしたその『遊び』が彼を救っているような気がしている。あれは自分は「遊び」だと思う。遊びから新たな物語は始まるのだ。

