くらむぼん | 象の夢を見たことはない

くらむぼん

おじろくおばさ。さまんさたばさ。シャバドゥシャバダバ。

だいぶ違うくなった。

オノマトペ。
物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として用いられており、我々の生活は数限りないオノマトペを利用することによって成り立っている。とか。

擬音語と擬態語が成立するのは、言葉のオンのそれぞれに感情が結びついているからで。ブーバキキとかね。音節の分け方、それぞれをどこで切るかという切り方もプレグナンツの法則的なものが言葉にあって、それが不文律的に共有されている。その音の切り方にもある種の情感を醸成する力がある。リズムが身体性と結びついているのと同じように。

宮沢賢治の文学はオノマトペの文学だといわれているが、彼はその効用を熟知して使いこなしていたからこそ、逆に『やまなし』ではその呪縛をきってどういう効果があらわれるかを試したのではなかろうか。

おじろくおばさも『やまなし』的な使い方かも知れない。
遠野物語というのは、日本昔ばなし的ななにか郷愁をさそうものとして認識されがちなのだが、実際には悲惨な話をむかしむかしの過去の話にすることによってしのいできたある種の生活の知恵のようなものがどこかにある。これを果たして知恵と呼んでよいかどうかは自分は判断がつきかねるが。

貧困というのは、環境の中でもっとも人の意識を制限するものかも知れない。
人は上下がさかさまに見える眼鏡をかけさせられると、最初は対応できないのだが、すぐに順応できるようになるとか。

自由というのは、意識が生み出した概念であって、実態はインタンジブルなものである。ある種の容器によってその形がかわるこの種の言葉は多い。
愛だとか、幸福だとか。
自由意志という言葉があるが、実際にはそれは自らの環境において、それぞれの人自らが定義するもので他者から見ればそうでない。そんなこともあり得るだろう。ラジコンネズミの話と同じで、極論すればだが。。そんな領域にいることだってあるかもしれない。

自らは自らを規定している容器の姿は見えない。
おそらく、それはおじろくおばさが我々自身であることも封印してしまう。
なかなか恐ろしい話だけど。

宮沢賢治の『やまなし』は失敗しているのか否か?
たぶん外目にはそうだ。

だが、自分には彼が言葉の殻を破ろうとしたその『遊び』が彼を救っているような気がしている。あれは自分は「遊び」だと思う。遊びから新たな物語は始まるのだ。