象の夢を見たことはない -69ページ目

IMAIKE GO NOW!!

1月30日にはやばやとチケット購入。

IMAIKE GO NOW 2015

今池は今池遊覧音楽祭で名古屋を中心に活動するバンドっていうのがあって

すごく面白かったのだけど、全国区でっていうのはなかった。

知ってて行きたかったけど初見でまとめて観れるっていう

しかもガン見できるであろうっていうのは夏フェスにはない

こういうフェスしかそんな機会はないからねえ。

栄でなく今池(ちょっとだけ池下)のライブハウスっていうのがこれまた。

在日ファンク、Predawn、ハンバートハンバート、グッドラックヘイワ、KING BROTHERS

見たかったバンドが全部被っていないという自分得以外の何物でもない的な。

帰りの電車も確保したし。久々のライブ。愉しみ。











ジャンルバラバラ苦笑

三月三日はひな祭り

桜庭一樹。いかにもゲームの主人公のような名前だったりするわけだが、名前が持つスキーマ感。。狙ってるなにかはそのスキーマの経年劣化でどうなるのか。
この人、女性らしい。

佐藤泰志の『移動動物園』を読んでいるのだけど、文章の書き方だったり、
リズムが自分と合わない。
去年借りて観た『海炭市叙景』熊切監督からの今年借りた『そこのみにて光輝く』呉監督。呉監督は伊賀の出身だとか。そういう繋がりで。

周りくどい言い回し。ただ、内臓から立ち上る湯気だとか、皮膚病のリスに赤チンだとか。生とか性のそのものがもつ生々しさ。匂いと温度がある欲望。殴った拳の皮が剥け血がにじみ、ひりひりと痛む。そんな感じ。皮膚一枚めくったそこにあるそれ。おそらく熊切監督はそこに惹かれたのだろうと。

いま、『私の男』を観ている。二階堂ふみは『ヒミズ』で初めてみたのだが、サブカルとか不思議ちゃん系とかの裏にある生々しさというか。

お嫁に行けない姉さまに よく似た官女のヒドイ顔。
言葉遊びの奥にあるソレってある種のゲームでドライフィニッシュさせている。
それらとこれらの映画との間には、どこかで明確に深い溝がある。

現実を遊びにしてサボる弱さや逃げとその奥にあるものを掴んだ上で表現するために汗をかくこと。自分の中にある確かな触感とその汗の記憶が、口先だけのウソとそいつの真実をかぎわける。

マジックリアリズムか。うーむ、手法も複雑化しているからなあ。
硬い岩盤は残り、柔らかい岩盤は削られるのだろうか。残ったものは人間のカタチをしている筈。それも、ただの自己肯定に過ぎないのかも知れない。

肉付けしたその顔はもはや過去の誰の顔でもなく。
結局、真実はその人の中にしかない。



逃げた軌跡を追えば、それが人のカタチをしている。
そちらのほうによりその人の真実を感じられる。
そういう時代なのかもしれない。

ジャンクという名のソウルフード

自分が子供の頃は高度成長期時代で鍵ッコという言葉があった。
両親が仕事をしていて、学校から帰ると誰も家にいない。
鍵を開けて家に入る。自分の家の鍵を子供ながらに持っている。

核家族という言葉がしきりに使われたのもこのころだ。
核という言葉がそのころのお父さんお母さんにとってはまだ身近にあったのだろう。

画一化された生活という名のユニット。
団地的な何か。
マトリックスのあのシーンと同じ。
そのあたり今でも本質は変わってないんだろう。

家に帰った食欲旺盛な鍵っ子たちは、さて何を作るか。
お好み焼きだったり、ハンバーグだったり、ホットケーキだったり。
電子レンジがまだなかった時代。
簡単に子供でも調理ができる優れもの。

そういうジャンクフードがその時代にもあった。

それぞれの子供たちが作るジャンクフード。
彼らが作るおやつのベースとなるのは、永谷園のお好み焼き粉だったり、マルシンのハンバーグだったり、森永のホットケーキミックスだったり。
それらが子供たちにとってソールフードになっていた。

今ではコンビニだったり、マックだったり、ココイチだったりするのだけど。

バックグラウンドも個性も違う子供たち。
集う場所がおなじでも、あるいは作るもののベースが同じでも、それぞれに生活の背景は違う。
コンビニエンスというものが画一性を与えて人を金太郎飴にする。
そういう目線で人を見ることの無意味さというか、
パラダイムを逆転させる短編小説。
なんか面白そうだね。

それぞれの主人公が、それぞれ何かに対する手触りを持っている。
なにかに対する特別な触感。肌感覚。それをいかに描写できるか。
メタファーを使わずに。彼ら彼女らの生活のディテール。
それをその人のファストフードと重ね合わせる。
切り口の違い。
そこがその小説のミソになる。
そういう小説。

判り易さがもつ奥深さ。
それって言葉と似ているかも知れない。
表面は一緒でも、裏をみるとすごい複雑な構造になっている。
いろんなものがドワーと繋がっている感じ。
アウトプットされたものからはわからない何か。
あるいは、記号というものがもつ不確かさ、
表面の裏にあるねっちょり感。
そんな小説だれか書いてくれ!

川喜田半泥子

日曜美術館つけてたら、川喜田半泥子。

銀行の頭取で陶芸家だと。
そんな二束草鞋って成立するのかと思ってみてたら
なんと三重の人だった。百五銀行の頭取。wikipediaみたら、仕事のほうも地方銀行吸収合併して業績を拡大していったとか。彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長したと。すげえなあ。

石水博物館なんて存在すらしらなかった。
いまその企画展中とのこと。
矢も楯もたまらず、さっそく車を飛ばしていってきた。



すごい立派な建物。
こんなところにこんな博物館があったとは。
ぜんっぜん知らなかった。不覚。
ん?平成23年5月か。知らないわけだわ。

石水博物館

北大路魯山人も同じ時代だけど、小林秀雄とかイサム・ノグチとか
この同時代は凄い人が多くて、しかもどこかでお互いに接点がある。
そのあたりの対決のくだりは非常におもしろい。

なんか洒落の利いた人物みたいで、作品も自由闊達。
いろんな技法をまぜたりしてて、素人目にみてもすごいなあと。
というか欲しくなるわけで。使えもしないのに苦笑

で、こんな人が三重にいたのかとあまりに感激してしまったので、
企画展の図版と随筆をおみやげに買ってしまった。



読むのが愉しみ。

日曜美術館 Eテレ
2015年2月8日放送 再放送:2月15日よる
銀行頭取 陶芸を革新せり~川喜田半泥子

メジャーとマイナー

こないだ自分で書いたことに囚われる。

Storywriter-SupercarとKANA-BOONの『結晶星』

判り易いことはいいこどだと誰かが言ったけれど、
果たして本当にそうなのかというのが自分の中にある。

判りにくいことは判りにくいままにいつかそれを理解できなければ、
結局、進歩なんていうものはないのではないかと。

なにかそういう判り易さというものの横行が
人生を貧弱なものにしている気がする。
ファーストフードはファーストフードでしかないのかも。





判りにくさというのは人間力と比例している。
そう思いたい自分がどこかにいる。

わかり易さで市民権を得る。
それがリアルな現実であるならば、
結局、人は人の行ってたことを壊しながら、
最後にはすべてブチ壊して終わってしまうのかもしれない。

そんな時代には
希望という名の宗教にでも齧り付かなければ
今をも居きれない。
そんな気もする。

メジャーとマイナー。
コードという意味で言えば
同じ地平にあるのかも知れない。
どちらが優れているとか劣っているとかの判断すら
俺にはできない。
生き暮れている。野見山暁治さんの言葉を借りれば。

録りためていたマッサンを見た。
蝦夷の松前と余市の風景がごっちゃに。
まあそれはいいけど、ニシン御殿のセットはすごいなあ。
船戸与一の蝦夷地別件を思い出した。
こういうディテールのリアルさ。

想像力は現場力に比例する。
現場力のない政治家に未来のなにを託すことなどあろうか。
自らは自らの現場を。

そこを離れて平和という名の幻想を幻想として蹂躙し弄ぶこと。
そういうファーストフードに果たして意味などあるんだろうか。