2015.5.5 club-upset
備忘。


THE TEENAGE KISSERS / Scars Borough / 33IVの順。
当番仕事でキサーズを見逃す。無念。
相変わらずキサーズの物販がよいのだが、見えない若さのバリアー度高く、年寄は近づけず笑。そういえばwash?とキサーズファンとの相性が最悪だった@ここでのライブを思い出して一人ほくそ笑む。奥村氏がステージでわざわざ嫌われるようなことを言ってたなあと。おもろいおっさん。別にTシャツが欲しいわけではないのでいいのだけど(かっこいいけど若すぎて着れない苦笑)、あの赤いレコードには毎回そそられる。
Scars Borough初見。
Candy Red PV
「-zero」Music Video
ええなあ。
ボーカルがゴッシーの知り合いらしい。ゴッシー友達多!なんかLUCYちゃんを思い出した。話し方?
33IV。いつも思うが美人の客多し。
ノンちゃんの知り合いか。あるいはゴッシーの?
しかも会話が面白いのでおもわず聞き耳を立ててしまう。
おねえさんがライブ中メモをしきりにとっていた。ノンちゃんが依頼したのだろうか。ええ姉妹やなあと勝手に想像。人見知りなノンちゃんはほんとええコなので周りとバランスを常に考えてるからいっつもスロースターター。最後のゴッシーのMCのあとでやっと吹っ切れて全開。まったく苦笑。とこれも勝手に。
サカスプに出演予定らしい。要チェック。


THE TEENAGE KISSERS / Scars Borough / 33IVの順。
当番仕事でキサーズを見逃す。無念。
相変わらずキサーズの物販がよいのだが、見えない若さのバリアー度高く、年寄は近づけず笑。そういえばwash?とキサーズファンとの相性が最悪だった@ここでのライブを思い出して一人ほくそ笑む。奥村氏がステージでわざわざ嫌われるようなことを言ってたなあと。おもろいおっさん。別にTシャツが欲しいわけではないのでいいのだけど(かっこいいけど若すぎて着れない苦笑)、あの赤いレコードには毎回そそられる。
Scars Borough初見。
Candy Red PV
「-zero」Music Video
ええなあ。
ボーカルがゴッシーの知り合いらしい。ゴッシー友達多!なんかLUCYちゃんを思い出した。話し方?
33IV。いつも思うが美人の客多し。
ノンちゃんの知り合いか。あるいはゴッシーの?
しかも会話が面白いのでおもわず聞き耳を立ててしまう。
おねえさんがライブ中メモをしきりにとっていた。ノンちゃんが依頼したのだろうか。ええ姉妹やなあと勝手に想像。人見知りなノンちゃんはほんとええコなので周りとバランスを常に考えてるからいっつもスロースターター。最後のゴッシーのMCのあとでやっと吹っ切れて全開。まったく苦笑。とこれも勝手に。
サカスプに出演予定らしい。要チェック。
インターステラー
監督の名前で映画を観ることがよくあるのだが、確実にクリストファー・ノーランはそういう監督の一人になった。
インターステラーを観た。
ノーランは、ヒース・レジャーの遺作となったダークナイトで名前を覚えた。
ヒース・レジャーはブロークバックマウンテンで初めて見たのだけど、監督がアン・リー。監督がビッグネームになるキーマンになる役者というか、彼はそういうアゲマン的な役者だったのかも知れない。そういう巡り会わせというのはある意味奇跡なのだと思う。
この映画の成立過程をwikipediaで見てたのだけど、これは映画そのものが奇跡の巡り会わせで出来ているようだ。実際、自分がこの映画を観ているときに常に感じていたのもそれで。多分、通奏低音として流れているこの映画のテーマがそういうものなのだと今これを書いていてやっと気づいた。
物理理論とかはよくわからないし、だいたいワームホールを人が越えられること自体おかしいと思うのだけど、そういう理で考える部分を超えたところにある何かって、ある種の信仰のようなもので。
生きること自体が、あるいは生命の誕生や進化自体がなぜ存在しうるのかとか、なぜ物理法則自体がそういうものでなければいけないのかという根本的なあり様にたいする疑問だとか。
それに対して神の存在だとか。あるいは人間自体が三次元を超えた世界をmanipulateできるようになる、神に近い存在になれるという結論めいたものに合理的な疑義をはさまざるを得ない部分はあるのだけど、そういう部分をとりあえず横に置いて見ればなにか自分にとって全うなものが見えるのかも知れない。
それぞれが万華鏡の中に何をみるかはわからない。
けれど、万華鏡自体を形作れる機会に巡り合えることは人生で一度あるかないかだろう。そんなふうに思える映画だった。
インターステラーを観た。
ノーランは、ヒース・レジャーの遺作となったダークナイトで名前を覚えた。
ヒース・レジャーはブロークバックマウンテンで初めて見たのだけど、監督がアン・リー。監督がビッグネームになるキーマンになる役者というか、彼はそういうアゲマン的な役者だったのかも知れない。そういう巡り会わせというのはある意味奇跡なのだと思う。
この映画の成立過程をwikipediaで見てたのだけど、これは映画そのものが奇跡の巡り会わせで出来ているようだ。実際、自分がこの映画を観ているときに常に感じていたのもそれで。多分、通奏低音として流れているこの映画のテーマがそういうものなのだと今これを書いていてやっと気づいた。
物理理論とかはよくわからないし、だいたいワームホールを人が越えられること自体おかしいと思うのだけど、そういう理で考える部分を超えたところにある何かって、ある種の信仰のようなもので。
生きること自体が、あるいは生命の誕生や進化自体がなぜ存在しうるのかとか、なぜ物理法則自体がそういうものでなければいけないのかという根本的なあり様にたいする疑問だとか。
それに対して神の存在だとか。あるいは人間自体が三次元を超えた世界をmanipulateできるようになる、神に近い存在になれるという結論めいたものに合理的な疑義をはさまざるを得ない部分はあるのだけど、そういう部分をとりあえず横に置いて見ればなにか自分にとって全うなものが見えるのかも知れない。
それぞれが万華鏡の中に何をみるかはわからない。
けれど、万華鏡自体を形作れる機会に巡り合えることは人生で一度あるかないかだろう。そんなふうに思える映画だった。
paranoid void
夜のレプリカ paranoid void
101匹目のサル paranoid void
音に対して貪欲なバンドが、自分の中の見えない導火線に火をつける瞬間。
映像も含め。
たぶんメグリちゃんは以下の二人と合うはず。
素花ポン丹 http://ameblo.jp/suicides/
A BOUT DE SOUFFLE http://ameblo.jp/ecstacy/
特に蛇腹くん。
どこかで接点があればなあと勝手に夢想する。
101匹目のサル paranoid void
音に対して貪欲なバンドが、自分の中の見えない導火線に火をつける瞬間。
映像も含め。
たぶんメグリちゃんは以下の二人と合うはず。
素花ポン丹 http://ameblo.jp/suicides/
A BOUT DE SOUFFLE http://ameblo.jp/ecstacy/
特に蛇腹くん。
どこかで接点があればなあと勝手に夢想する。
ある視点
杉本博司「月下紅白梅図」を見て、ああこれはクリムトだなと@日曜美術館。
クリムトっていつからあんなふうに。まあいいや
光琳は生きている
現代美術作家がそれぞれ光琳を想いながら作った作品。
人間の在り様を根本的な原理とする場合、その在り様自身は進化しないが、技法や資材は進歩する。でも、表現されるものは同じという。。うーん芸術。
蛍光塗料、デジタル細密カメラ、3Dグラフィック。文明の進歩により表現するための素材が次々と出てきているし、これからも出てくる。それによって表現されるのは既に過去の誰かが表現している人間のモノの見方や捉え方、人の認知システム。
技術素材というベースを変えて既にあるものを編集するだけ。
松岡正剛氏的に言えば。
でも、実際にこの番組を見てて「あー、光琳の絵ってそういうことだったのか」と。
そのあたりいつもながらヤラレテしまうわけだけど。
モノの見方というものを手に入れることと実際にそれを確信して新しい何かを創り出すことというのはまったく次元が違うことだし、何より手仕事がもつ豊かさという。
結局、一人勝ちするのはそれを作った本人だけなのだろうと思う。
わかった気になることに本当は意味なんてないし、人に本当の豊かさを与えることもない。
白洲正子の「鶴川日記」に「バーナードリーチの芸術」というエッセイがあった。
やっぱり同じ時代なので接点があったんだなと読んでいて、やはり白洲さんも自分と同じようなことを感じていたのだなあと前に豊田市までバーナードリーチ展に行ったことを思い出した。
この中に、英国の伝統的なピッチャーとか紅茶茶碗の類にはいくら陶芸の発達した日本人でも遠く及ばないものがある。うんぬんというくだりがあって。
そういう壺の類を作るときのハンドルの付け方について、手触りのある文章がかかれていた。
それはいかにもリーチが作る喜びを素直にあらわしているようで、ああなるほどぉと。
彼は工房にいる弟子たちに一つの作品をたくさん作ることを勧めたと。
たくさん造っている間に、自我を忘れ、手が自然に働いて、裸のままの精神が現れる。
我々には常に二つの面がある。表向きにはポーズとか立場にかかずらって、いつも何を教えられたか、何をなすべきか、考えているが、本当の(うちなる)人間は、自然に共感し、自らの仕事の中に溌剌とした生命を求める。それが現代の若い作家には欠けている。彼らは「芸術家」になることばかりに熱心で、仕事の中に命を見だすことを忘れていると、彼はきびしく批判する。
そう白洲さんは書いている。
日本においては、美と謙虚は常に同居していた。最高の職人は、自分をひけらかしたりしないし、特に変わった形や色彩を発明して「芸術家」になろうとも思ってはいない。はたして日本の陶工は、今日でも彼がいうように「謙虚」であろうか。仕事の中に生き生きとした喜びを見出しているだろうか。そう彼女は結んでいる。
うーむ、本質的に身体を使って仕事をするのは愉しいことだと思う。
ただ、その作品を見て、エゴが不快かどうかというのはある。
でもそれは、所詮受け手の問題でしかないのかもしれない。
クリムトっていつからあんなふうに。まあいいや
光琳は生きている
現代美術作家がそれぞれ光琳を想いながら作った作品。
人間の在り様を根本的な原理とする場合、その在り様自身は進化しないが、技法や資材は進歩する。でも、表現されるものは同じという。。うーん芸術。
蛍光塗料、デジタル細密カメラ、3Dグラフィック。文明の進歩により表現するための素材が次々と出てきているし、これからも出てくる。それによって表現されるのは既に過去の誰かが表現している人間のモノの見方や捉え方、人の認知システム。
技術素材というベースを変えて既にあるものを編集するだけ。
松岡正剛氏的に言えば。
でも、実際にこの番組を見てて「あー、光琳の絵ってそういうことだったのか」と。
そのあたりいつもながらヤラレテしまうわけだけど。
モノの見方というものを手に入れることと実際にそれを確信して新しい何かを創り出すことというのはまったく次元が違うことだし、何より手仕事がもつ豊かさという。
結局、一人勝ちするのはそれを作った本人だけなのだろうと思う。
わかった気になることに本当は意味なんてないし、人に本当の豊かさを与えることもない。
白洲正子の「鶴川日記」に「バーナードリーチの芸術」というエッセイがあった。
やっぱり同じ時代なので接点があったんだなと読んでいて、やはり白洲さんも自分と同じようなことを感じていたのだなあと前に豊田市までバーナードリーチ展に行ったことを思い出した。
この中に、英国の伝統的なピッチャーとか紅茶茶碗の類にはいくら陶芸の発達した日本人でも遠く及ばないものがある。うんぬんというくだりがあって。
そういう壺の類を作るときのハンドルの付け方について、手触りのある文章がかかれていた。
それはいかにもリーチが作る喜びを素直にあらわしているようで、ああなるほどぉと。
彼は工房にいる弟子たちに一つの作品をたくさん作ることを勧めたと。
たくさん造っている間に、自我を忘れ、手が自然に働いて、裸のままの精神が現れる。
我々には常に二つの面がある。表向きにはポーズとか立場にかかずらって、いつも何を教えられたか、何をなすべきか、考えているが、本当の(うちなる)人間は、自然に共感し、自らの仕事の中に溌剌とした生命を求める。それが現代の若い作家には欠けている。彼らは「芸術家」になることばかりに熱心で、仕事の中に命を見だすことを忘れていると、彼はきびしく批判する。
そう白洲さんは書いている。
日本においては、美と謙虚は常に同居していた。最高の職人は、自分をひけらかしたりしないし、特に変わった形や色彩を発明して「芸術家」になろうとも思ってはいない。はたして日本の陶工は、今日でも彼がいうように「謙虚」であろうか。仕事の中に生き生きとした喜びを見出しているだろうか。そう彼女は結んでいる。
うーむ、本質的に身体を使って仕事をするのは愉しいことだと思う。
ただ、その作品を見て、エゴが不快かどうかというのはある。
でもそれは、所詮受け手の問題でしかないのかもしれない。