象の夢を見たことはない -63ページ目

よはらい

創発は、因果論でなく、現象学で掴まえられないか?

というのが心理学の根本的な成り立ちなのだろう。

モンタナの風に抱かれてを観ていた。
TOUCH STONE PICTUREって大人のおとぎ話っぽいとふと思った。調べたらディズニーだと。なるほどね。人が何かに賭けるのはサルの実験でも証明されている通り、生き残るために根本的に必要な反射に近い本能なのだろう。touchstoneって試金石という意味らしい。

自分にとって正しいと思うことに人は賭ける。
正しいか否かはその後の歴史が証明する。
それでも人は自らが望むことに賭けなければ生きてはいけない。

個人個人にそれぞれ因果はあるが、自らが思う因果に対してそれぞれが賭けた結果は、全体としてある一定の範囲内に収まるはずである。それが創発の結果すら、予測の範囲に収めてしまおうとする現象学という方法論の大きな目論見なのかもしれない。

現在のAIが因果的なプログラムから現象学的に変化しうるポイントが
その自身の創発の過程でおこるのであれば、

なかなかそう考えると人工知能の未来を人が予測するのは難しいことだろうとも思える。果たしてその結果が、人間の現象学の予想範囲内であるなれば、進化というのは、人間の考える範囲内で収まってしまうわけで。

禅宗的に人は生まれたときから全てを持っているという。

その達観から結ばれる結論も結局のところ、
人は自らが意識・無意識で認識する世界の範囲内でしか
進化はできないのだろう。ということなのだろうか?

それを超えたところに神という存在を置いてノゾミを繋ぐというのも含めて
予測可能な人間の全部。

だがそれで結構。
人生半分を超えてそう思えるようになったのは、果たして勝ちか負けか。

スカーレット・ヨハンソンはこんな若い頃からこんな世界にいたんだな。
LOST IN TRANSLATIONがやっぱりこの人のボヘミアン性のすべてだと思う。
少し外れていること。
多分この世界の螺旋を生み出すカギはそこにあるのだろう。

彼女のどこかにある暗さを観ていてそう思う。
幸福であるための不幸の割合は、
黄金比のようにある値に収束する。
そう世界は決まっているのかもしれない。

観念など動物にだってあるのだ

秀雄は憎悪は感情でなく観念だと言ったが、怒りもそうだろう。
自尊心を壊されることに対する恐怖からの怒り。

固定観念の崩壊というのは、ギャップ愛とも通じている。
愛しさ余って憎さ百倍。

自我の崩壊あるいは死に対する欲望はすべて再生に対する希求である。
新たな命を得る。
その欲望に続いている。

観念というのは、生理的欲求の上部概念として
影響力は弱いものと思いがちなのだが
上部概念が下部を超えて命まで浸食することがある。

はたして観念の定義とはなんぞや。

犬の人に対する愛情とかをみていると
あながちそれは人だけにある特権ではないのだろう。

人のカタチをした神様など、にんげんの自尊心の賜物でしかない。
そんなものに絶対などなかろうよ。

これは大変な誤り易い事なのだが、憎悪は、感情のものというより寧ろ観念に属するものなのだ。おのずから発する憎悪の情という様なものはないので、一見そう見えるが、実は恐怖の上に織られた複雑な観念であるのが普通であり、意志や勇気や行動に欠けた弱者の言わば一種の固定観念なのである。
――小林秀雄『カラマアゾフの兄弟』

仏教では、感情も観念も無明をその出発点とする「妄想・妄念」という点では同じ地平にあるものであって、結局は苦をもたらすのだ、と考えているそうだ。なるほどね。流石だ。

船を出すのなら

7月とか8月に海にはいかない。
暑いから。

だから、海を見飽きてはいないので、海を見に行った。

潮干狩り


なんのへんてつもないが、実際に行くと
海風とか、波の音とか。

海水浴場らしいのだけれど、この水では泳げない。



船乗りにさえもなれなかったな、この一生。

稲刈り

駆り出され稲刈り。
べたゴケである程度起こさないとコンバインで刈れないのである。
まだ、茎の根本で折れていないのでマシだったのだが。
よっこいせ、よっこいせと短い竹竿で稲を何把づつか起こす。

今年は8月末から雨で、やっと晴れた土曜日。
皆、殺気立って稲刈りをしている。
明日から雨が続く予報である。
次の雨が来たら、まだナナメっているだけの稲も確実に倒れる。

ツバメたちは稲を刈りはじめると寄ってきて
低空を飛ぶ。
刈った稲から彼らのごはんが一斉に飛び立つからだ。
うちの軒先から巣立ったツバメはこの中にいるだろうか。

トンボたちもやってきた。

かくれた名店

プロフェッショナル 仕事の流儀「小さな名店スペシャル」を観ている。
街のお肉屋さんの話だ。

モノが溢れている時代にそこでモノを買う理由。

5年前まではストーリー性ということが差別化として言われていた。
こぞって皆が皆、自分の店のあるいは商品のストーリーを語り始めた。
宣伝のための戦略として。

一過性で終わる。
リピートしてもらえない。
ストーリーも消費されるのである。

お客様にそれぞれのストーリーを作ってもらうこと。
そこで買ったものについて、サービスについて。
ストーリーを作る主体は、お客様なのだ。
ネバーエンディングなストーリー。

お客様にストーリーを作ってもらえるほどの力を
そのモノがもっているかどうか。
それは多分魂の問題なのだろう。
エゴではなく。。

しかし、こういう個人商店って引き際ってどうするんだろうねぇ。
キレイにっていうのが難しいんだろうな。