スイムタオル
セーム。
水泳やってる人はよく使うのだけれど、一般の人はあまり使わないのだろうか。
セームといっても洗車したあと車を拭くときにつかうセーム革ではなくて、スイムタオルである。
参考に貼り付けておこう。
- arena(アリーナ)スイムタオル(M) FAR-4941 【水泳/スイミングタオル】
- ¥945
- 夏の旅行で、いつも重宝する。
- 特に海外に行ったときなどは、いろいろ使えて便利だ。
- 使ったことのある人は知っているのでいわずもがなだけれど、吸水性がハンパなく、手で絞れば何回でも吸水性が元通りなので、山登りしたあと滝つぼに飛び込んだりするときとかも便利である。
- あまり滝つぼに飛び込む人もいないと思うけれど。。
- 去年マレーシアの国立公園でトレッキングしたのだが、そういう場所には簡単なシャワー設備くらいはある。
- バスタオルなんて嵩張るので持っていけないし、かといって普通のタオルだとすぐベタベタで身体全体拭くにはちょっと頼りないかなあ、なんて思っている人にはお勧めです。
- これと普通のタオル1枚持っていれば、だいたいどんな場合でも間に合います。
- 東南アジアには、いわゆる環太平洋造山帯の火山活動のおかげで、以外とスパスポットが多くて、ボルネオのキナバル山にもポーリン温泉とかがある。バリ島もたしかキンタマーニの近くに温泉があった筈。
- サイクリングやトレッキングした後に、そういうとこへ寄るときに重宝します。もちろん、海水浴やシュノーケリング行ったときなんかにも。お勧めです。
直観は完全ではない
目の前の事象から、可能性、もしくはそこに付随する発想を受け取るというのが直観と言われる。
数学のテスト問題で、論理は見えないが答えがわかるというようなものも直観と言われる。第六感と言われるようなもの。
直観は、可能性を視る。可能性は、間違っていることもある。あたるも八卦、あたらぬも八卦。
あとで理由づけをして自分の中で当たったことにしたり、ものごとのある面だけしか判断していなかったり。
そういう自己防衛反応は、誰にでも多かれ少なかれある。
経験的、統合的な処理判断。処理論理がブラックボックス化してるので見えないだけで、脳の働き的には、脳梁を軸とした右脳、左脳半球の等価的な使用による像の結実であろうか。
思考とは脳の働き方のメカニズムが違うだけ。べつに神秘的なものでもなんでもない。
たしかに天才と呼ばれる人はいる。しかし、それは生まれもっての脳の処理の指向性と、発達方法によるものだと思う。あるいは退化方法とか。
直観は、経験と訓練によって鍛えられる。
人に対して浸透力のある直観は、そういうふうにして鍛えられた直観である。
人に対する共感や論理や経験則、そういうもので裏付けられていない直観は、他人に対する浸透力を持たない。
そういや、人に信じてもらえない天才だったかが主人公の映画があったような。
自分だけ、真理をわかっていても実社会ではたいした意味などない。独りよがりで伝えられない。仕事などは特にそう。まあ、よがっていたら多少伝わりはするのだが。。
経験すること。そしてただ経験するだけではなく、訓練すること。
観察する訓練、快楽に寄り添う訓練、耐える訓練。伝える訓練。
疲れて、ただ状況を、空気やにおいや風景をからだに染み込ませることしかできないような場合でも、それはそれで経験にはなるとそんなふうに思う。
直観の射程を伸ばし、精度を上げ、それをかたちにする。
それは、経験と訓練でしかできない。それが、仕事や人生の醍醐味だったりするのだ。
と、今日もまたポジティブぶるのである。明日はきっとなにかある。明日はどっちだ。
イメージと快楽
見える化。
IT業界でも、そういう声が聞こえて久しい。すでにいろいろな方法が施行されて、ツール化されているものもあるのだけれど、本質的なことがわかっていないために、カイゼン活動自体で疲弊して本業がおろそかになるパターンもよく見聞きした。
TOYOTA方式をIT産業へもということで広がったのだが、ハード対ソフトという点で、もともとIT産業ではプロセスにしても途中の生産物にしても可視化しにくい。
完成のイメージがないものを定量化や可視化などできない。
『存在の耐えがたきサルサ』、免疫学者の奥村康さんとの対談で、村上龍氏が『ヒューガウィルス』を書く前にいろんな免疫関係の本読んだと。ぜんぜん読んでもわからない『分子細胞生物学』とも格闘したと。
最終的に
「ウィルスや免疫細胞の小ささのイメージは訓練しないと普通の人にはわからない。そのイメージができてはじめて『ヒューガウィルス』を書けるかなと思った」
と言っていて、それに対して、奥村さんは
「医学の現場でも、イメージを持つことは大切なんです。明確なイメージを持つ人間のほうが絶対にいい仕事をします。」
と応えられていて、やはりどこの世界でもそれは変わらないのだなと納得した。
そこから、受験生の話題に入り、奥村さんはさらに、
「触って実体のないものに興味を持つ若者には、危険なところがあります。いちばん危険なのは宗教ですね。ご存知のように大変なことになる場合が少なくない。単純な欲望を自然に持っている学生は先へ行っても落ちこぼれないんです。免疫学をやろうとか、精神科へ進もうとか、若いうちからわけのわからないものに興味を持つ学生は、ほとんどが途中で落ちこぼれて駄目になってしまいますね。」
と。うーん、なるほど。
日々の仕事においても、一つ一つの仕事で、完成のイメージを持つことはひじょうに大事だ。
イメージが持てないものは、とりあえずデータとかプログラムとかを、いじりまわしているとときどきチラチラ見えるものがある。
イメージが明確になってから仕事にかかっても遅くはない。
というのは、いじりまわしているうちにもう筋道はできあがっているからだ。
逆に、いいかげんな仕切りで始められたモノは筋がわるくて、いつまでたっても収束しないし、バグやら誤りを内包しやすい構造になっているものである。
結局それで、自分も他人までも苦しめることになる。
「飢え」はいいかげんな満たし方をしてはいけない。
完成のイメージを見るのは、動物的な快感がある。
小さな仕事でも、快感はある。大きな仕事はそれの積み重ねでしかないのかもしれない。
小さな快感を見つけていったら、いつのまにか、目の前に巨大なものが出現することがある。
快楽のビッグウェーブはそうしてやって来るのかもしれない。
一つ一つの仕事で完成のイメージを持つこと。
イメージを実現していく快楽の得れない仕事は、「もしかしたら、筋が悪いのかもしれない」という疑念をさしはさむべきだとそんなふうに思う。
筋がわるいのは、仕事なのかもしれないし、あるいは自分なのかもしれない。。
どちらにせよ、カイゼンのやりようはある。
見える化の本質はイメージを明確に見ることである。
いまはそう思っている。
欲望のかたち
明確な形をもたない欲望は、自分も他人をも疲弊させ、生きる力を内側から蝕む。
「欲望にはかたちがある」と前にブログ に書いたが、その女子高生と話したときの状況を詳しく書くと以下のようなものであったらしい。
その女子高生と話したときに、話していると生気を吸い取られるみたいに疲れるんですよと村上龍は言っていて、
いろいろ話を聞いてみたのだが、好きな音楽はというと「華原朋美と小室哲也は聞く」と。
小説は読まない。テレビも見るけどとくに好きなアイドルがいるわけでもない。食べ物はお寿司が好きというから、じゃあ「お寿司食べに行くときはワクワクするの?」と聞くと寿司屋にいくわけじゃなくて、唯一ワクワクするのが、父親が折り詰めの寿司を買ってくるときだと言う。
将来どんなライフスタイルをイメージしているのと聞くと「楽な感じで、自分の時間があって、友達とおしゃべりができるのがいい」と。
年寄りと話しているみたいでゾーッとして、思わず後で酒を飲んじゃいましたよと龍氏は言っていて、私はそれを読んで、うーんと唸ってしまった。
仕事をしていても達成感が得られない。そういう体験はだれにでもあると思う。
次から次へと終わらないうちから次の仕事にとりかからなくてはいけなくて、エンドレス。まるで、切れることのないチェーンの鎖のようで消耗してしまうのである。
終わりがない消耗戦だから達成感というものが薄まってしまうのかと思っていたのだが、実はそれは違ったのだということに、今になってはっと気がついた。
ある仕事をしたときに達成感のあるものとないものがある。
達成感のあったものは、稀にしかなかったのだが、明確な完成のイメージがきちんと持てたものであった。完成のイメージが持てないものというのは、結局のところ実は筋がわるいものなのである。
筋がいいもの、筋がわるいもの、その違いは、自分がそれに携わっていたときに明確なイメージ、何をすべきか、何を目的とするのかというのが形として明確に見えているか否か。その一点に集約される。
自分の欲望の形を明確にすること。それがモノを作るときに、唯一気に留める点であって、ほかのことはまったくのところ大した意味などない。
さらに日常の仕事にまで、これを落とし込んでいくと。。
というのは、次回に書きます。
※このブログのもとの記事
http://aimis-u.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_18a5.html
ココログにも来て頂いている人がいたので、しばらく並行してブログを書いていたのだけれど、ココログ、機能が貧弱で、記事を書いていてリターンキーを押すと空白行が出来てしまうなんていうのが「仕様」としてまだ残っているようなので、アメブロに一本化しようと思います。
柏餅と粽
実家は三重なのだが、柏餅は作ることはあるのだが、粽(ちまき)は作ることはない。
個人的にはちまきのほうが好きなのだが。。
柏もち、葉っぱを食べる習慣はうちの地方にはない。桜餅の葉っぱは食べることがある。
もともと、三重でも桑名四日市・名張上野・津・伊勢・尾鷲などで文化は違う。
山脈だったり、盆地だったりの影響で文化も違ってくるのか。
よく旅行先で、天気予報がその県内や道内でも分かれていて、「ん?なんだこの地方の名前は?わからん
」と思うことが多いが、意外とその分け方、文化的な区切りで分かれていたりすることが多いのかもしれない。
端午の節句、もともと中国由来の行事らしいのだが、最近は韓国説もでてるとか。どちらにせよ、日本にもともとあったわけでもないし、本来は旧暦5月5日の行事だそうだ。
柏餅ももともとは端午の節句行事にはなく、日本で始まったとのこと。
粽のほうは、中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣だそうだ。
柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があり、ここから子供ができるまで親が死なないという家系が絶えないというところから縁起を担ぐようになったとか。
粽のほうは、難をさけるという中国故事から来ているとのこと。
なんかこうしてあらためて考えると、柏と粽の由来もそうだが、中国と日本の歴史の差というのは、大人と子供みたいでちょっと情けなくなるのだが、まあしょうがない。
こないだ、インドにいる友達と日記のコメントを通して会話したのだが、アジャンタ・エローラを作ったあのインドがいまなんでああなっちゃったんだろうと。
で、インドにいたとき、インドの会社の社長が「インド人は機知はあるけど叡智を失くした」ということを言っていた話をしたのだけれど。。
中国については、よく知らない。謙譲というのは、なにも日本人だけの美徳でも性向でもない。
同じような言葉を自分の耳で聞くことがあれば、またここで紹介したい。
叡智というのは、生きて伝えられるものではなくて、自分で見つけるものなのだろうと思う。
親から子へ、子から孫へ、ハードウエアも社会システムも変わっていくなかで、伝えられるものというのは削ぎ落とされ、風化し、色あせていく。
生きる智慧というのは、過去のなかから自分で学び取るものであって、たぶん伝えられた形の中などにはない。形、しかし、でも、それは夢のかけらではある。
はたして、自分はどんな叡智を養うべきなのだろうか。
すくなくとも、包装に「天然葉を使用し、食べても人体に影響はない」と天然葉を使用した際の表示を誤って記載するようなことはしたくはない。。
ただ、天然葉は食べてもいいよという表示をつけるというのは、なんか田舎のじいちゃん、ばあちゃんみたいなおおらかさがあって個人的には好きなのだが。。はたして、そういう気持ちは、姪っ子たちには伝えていけるのだろうか。