象の夢を見たことはない -309ページ目

柏餅と粽

実家は三重なのだが、柏餅は作ることはあるのだが、粽(ちまき)は作ることはない。

個人的にはちまきのほうが好きなのだが。。


柏もち、葉っぱを食べる習慣はうちの地方にはない。桜餅の葉っぱは食べることがある。

もともと、三重でも桑名四日市・名張上野・津・伊勢・尾鷲などで文化は違う。

山脈だったり、盆地だったりの影響で文化も違ってくるのか。

よく旅行先で、天気予報がその県内や道内でも分かれていて、「ん?なんだこの地方の名前は?わからんにゃ」と思うことが多いが、意外とその分け方、文化的な区切りで分かれていたりすることが多いのかもしれない。


端午の節句、もともと中国由来の行事らしいのだが、最近は韓国説もでてるとか。どちらにせよ、日本にもともとあったわけでもないし、本来は旧暦5月5日の行事だそうだ。

柏餅ももともとは端午の節句行事にはなく、日本で始まったとのこと。

粽のほうは、中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣だそうだ。

柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があり、ここから子供ができるまで親が死なないという家系が絶えないというところから縁起を担ぐようになったとか。

粽のほうは、難をさけるという中国故事から来ているとのこと。


なんかこうしてあらためて考えると、柏と粽の由来もそうだが、中国と日本の歴史の差というのは、大人と子供みたいでちょっと情けなくなるのだが、まあしょうがない。


こないだ、インドにいる友達と日記のコメントを通して会話したのだが、アジャンタ・エローラを作ったあのインドがいまなんでああなっちゃったんだろうと。

で、インドにいたとき、インドの会社の社長が「インド人は機知はあるけど叡智を失くした」ということを言っていた話をしたのだけれど。。


中国については、よく知らない。謙譲というのは、なにも日本人だけの美徳でも性向でもない。

同じような言葉を自分の耳で聞くことがあれば、またここで紹介したい。


叡智というのは、生きて伝えられるものではなくて、自分で見つけるものなのだろうと思う。

親から子へ、子から孫へ、ハードウエアも社会システムも変わっていくなかで、伝えられるものというのは削ぎ落とされ、風化し、色あせていく。

生きる智慧というのは、過去のなかから自分で学び取るものであって、たぶん伝えられた形の中などにはない。形、しかし、でも、それは夢のかけらではある。


はたして、自分はどんな叡智を養うべきなのだろうか。

すくなくとも、包装に「天然葉を使用し、食べても人体に影響はない」と天然葉を使用した際の表示を誤って記載するようなことはしたくはない。。

ただ、天然葉は食べてもいいよという表示をつけるというのは、なんか田舎のじいちゃん、ばあちゃんみたいなおおらかさがあって個人的には好きなのだが。。はたして、そういう気持ちは、姪っ子たちには伝えていけるのだろうか。


アハ体験

「芸は人なり」とか「書は人なり」っていう言葉があるけど、眼高手低っていうのはある。
実は単なる運動神経だったりもするのかもしれない。

そう納得したからといって、絵が旨くなるわけでも、活け花や料理の盛り付けのセンスが良くなるわけでもない。


アハ体験というのがある。

アハ体験にしてもクオリアにしても何も茂木健一郎が発見したり名前をつけたわけではない。まあ、そんなことはどうでもよいのだが。。


ひらめき。

「あっ!」とおもった時点で、自分のなかの何かが変わる。

たとえば、はじめて自転車に乗れたときとか、はじめて逆上がりができたときとか。。

なんだかずいぶん昔の話で、それを最近の例に置き換えられないというのは老化の証拠なのだろうかにゃ


そういう体験をしたときに、脳の神経細胞、ニューロンの繋ぎ変えなのか、新しいネットワークが作られるのか、だかが起こる。

アハ体験では、強い喜びが脳にあたえられてその瞬間にドーパミンが放出されるとか。そのドーパミンが脳の神経細胞の繋ぎ変えなのか成長なのかよくわからないが、そういう作用を持つらしい。

このあたりは、まだよくわかっていないことも多いと思うのだが。。


アハ体験はスローラーニング(ゆっくりした学び)とも呼ばれているそうで、たとえば先の鉄棒や自転車なんかでも、なんどもなんどもトライするのだけど、うまくいかない。いらいらするし、うずうずするし、自分にも腹が立ってくる。

でも、ある瞬間にそれができると「やたー」という喜びで、脳神経が組み変わってそれを忘れなくなる。


ん?それって脳だけじゃなくて、反射神経的な身体の神経とかにも関係あるだろうし。。

ああ、脳ってそういうのも含めて脳なのか、なるほど。


で、そういう運動神経的なものだけでなくて、芸とか書とか、そういった創造性にもこのアハ体験かかわってくるらしい。


レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』とまだ格闘しているのであるが、(というか読むのがシンドいのでたまにしか読めない)、彼が苦難と疲労でボロボロになりながらも、初めてボロロ族の部落にたどり着いたときの文章で

「広い小屋の一隅に落ち着く支度に取り掛かりながら、私はこうしたイメージを捉えたというより、むしろ、それが私のうちに染み込んでくるのに任せていた。」

というのがあった。こうしたイメージというのは、その前に書いてあるボロロ族の集落に対するイメージで、ここでは書かないというか、すごい文章なので一口で書けない。気になる人は買って読んでくださいは~い

まったく難解な本なので、あんたの本のほうが自分に染み込むに任せるほかねえよなんて思いながら読んでいるのだが。。まあ、それはともかく。


努力とか根性っていうのが、あんまり好きじゃないのだが、やはりなにかそういう創造的なアハ体験を得ようとしたら、実際にからだを動かしてイライラしたり、疲れたりうずうずしたりするまでの状態に追い込まないといけないらしい。

多分、天才といわれる人も、一足飛びにはいってなくて、絶えず、うずうず、イライラしているからなにかを掴みやすいという、実際はそんなとこなのかもしれない。


あー、うずうずしたいぜアップキラキラ


外人女子

セブンイレブンの前で


立ったまま


海苔巻を無心に食べる外人女子をみた。


草食動物のようにモグモグ食べていた。


シュールな光景だった。


彼女が顔を向けていたのは恵方だったのだろうか。


そもそも今日は節分ではない。



山田貴司

そんなヤツはいねえよ。やれやれ。


誤字。誤字や言い間違いには、コンプレックスが働いていると言われる。


はたして、オレにどんなコンプレックスが。。


そんなのは、どーでもいいので、mixiみたく、自分のコメントくらい自分で削除できるようにして欲しいのだが。


そういや、自分で自分の足跡が付けられるらしい。間違えてペタしても自分の足跡すら消せない。


携帯からのアクセスだと打ち間違えることがPCより多い。まあ、タダだからしょうがない。。


※翌日の朝

理由がわかった。ような気がする。まったく不思議な話だ。

「意識の世界では明確に区別され、整理されていたものが、心像の世界の中では、思考の対象としての概念が感情や感覚機能の対象としての属性と混合し、意識の世界での時間や空間の秩序を破り、何らかの心像として具象化され、錯合されていく。

この世界では排中律さえも、しばしば無視されてしまうのである。すなわち部分が等しいと全体も等しいというような非合理な規則が通用する世界であるから、等しくないものが、しばしば相等しいものとされ、たとえば、母、渦、壺などが同一のものとして存在したりするのである。」(河合隼雄 「ユング心理学入門」 培風館)


コンプレックスは、それについてえるより、コンプレックス生きてみて、それを統合する努力で解消されるものであって、孤独を求めて旅に出たりするよりは、嫌いな同僚と争い、あるいはライバル同士のなかに芽生える友情に驚きなどしてゆくほうがはるかにコンプレックスの解消につながる場合が多いと。


まったく、その通りなのだろう。しかし、教科書に助けられるっていうのは不思議な経験である。まだ生きて行動できてはいないのだが、やらなくてはいけないことはわかった。


*2011/8/2 記述

たまに山田貴司でサーチがかかる。しかもlinuxっぽい。なんかこの文誤解されてるかもしれないが、元同僚の山田貴司は好きである。その山田ではない。

疲れているときのトレーニング方法

体が疲れていてもジムに体が向かうことがある。あるいは久しぶりに泳いだのだが、どうも体が重い。

そういうときでも、気合があるときはそれなりに乗り越えられる。


けれど、興も乗らないなんていう場合にどうするか。


短いスパンでフォームチェックするというだけの負荷のあまり大きくない運動を複数セット繰り返すこと。

そうしていると、体が目覚めると同時に、意識もそれに応えるようにテンションが上がり始める。


そこまでいけば、あとはご自由に。


これは水泳だけではなくて、どんなスポーツにも応用できると思う。


要は、意識を集中しながら体を動かすことをルーチンワーク的に繰り返す。

これによって、意識と身体が活性化するのである。


確か、村上春樹氏のやる気がおこらないときの仕事方法で、鉛筆を削るというのがあった。これは、なにもシャープナーで削るわけではなくて、カッターナイフとか小刀で削るということだ。

刃物を使うことで

①けがをしないように集中すること

②身体(の一部)を動かすこと

それがミソなのである。


ある小学校 では、音読と百ます計算を子供たちにやらせることで、その学校の偏差値があがったという。


百ます計算とか音読とかで、頭が活性化するのは、手や口や肺やらを動かすことの相乗効果によるのであって、頭だけとか、身体だけだと、意識も身体も活性化しない。

身体と意識の相乗効果は、集中力を持ったときに強い効果をあらわす。


そしてこれは、仕事やトレーニングの開始時や始業時にもっとも効果的で有効な手段であったりもするようだ。

腕のいい板前さんは包丁を朝研ぐとか、そういう例を引き合いに出そうとすればなんぼでもあるということ。

ちょっと考えれば気付くはず。