象の夢を見たことはない -272ページ目

さいきん

デジャヴが多い。

たとえば、それが脳回路のバグだとしても、なんらかのそれを引き起こす無意識的な原因があるように思う。

デジャヴという概念すら知らなかった高校生のときに初めてそれを経験した。

なので意識的なものでもないと思うのだが。。

記憶の混乱は、人生経験が浅いと起こらないような気がなんとなくする。

視覚記憶の取り違えが発生するには、複合的な視覚的記憶のクラスターが出来上がっている必要があり、その取り違えが発生しているはずで、そういうクラスターが年少時に生成されることは個人差はあれど、少ないだろうと思うから。

なお、デジャヴが視覚にだけ現れて、においだったり、聴覚だったり、肌感覚に現れない(それらは、完全に記憶との照合が行われ、確実に実記憶として思い出されるようなしろものである)のはやはり視覚記憶というもののデータ量が人間の脳の処理能力の限界値に近いからなのかも知れない。あるいは、視覚記憶のデータ照合が、圧縮されたデータの形で比較を行うからとか。いや、違うな。記憶の抜けを脳が勝手に補うからか。。

最近の自分のデジャヴ経験は、なんらかのそれの出現に対する期待値が確信犯的に、しかし、当座の意識とは別にあがっていたりしているからだと思えなくもない。たとえば、占いを信じてみたいような、そんな心持のときとか。。最近結構そういう気持ちだ。

そういうときに眼前に現れることからすると、どこか無意識と意識の境目あたりに引き金があるようにも思えるのだが。。

そのあたり、いまだによくわからないし、脳科学的な説明も、デジャヴについてはいまのところあまり信頼できない。なぜ発生するかというところなどいろいろ説得力に欠けるのである。

いつかわかりたい。

仕事場の動線

いまの仕事場には、女のコたちの動線が張られている。

わかってはいるのだが、知らないうちにそういう動線をぶった切って動いてしまう。

まあ、仕事なのでしょうがないところもあるのだが、彼女たちの声は普段でも注意してきかないと届いてこない。

でも、実はその動線、見えないうちはいいのだが、自分の目で見えるようになるとすでに危険水域だったりする。

しかも、結構裏の真実を突いている。もちろん、裏だけでものごとは動くわけはないが、表だけ見てても世の中うまくはいかない。

なかなかスリリングで、いまはそういう状況も含めて愉しめるようになった。

昔はそんなことすらわからなかった。

気づかせてくれるようになったのは、インドで出会った日本語教師の女のコたちである。

感謝したいのだが、そういうのはやはり一期一会だったりして、いま願ってもなかなか会えないものだ。

もう老い先も短いので、いまこのときに感謝できる人には、感謝して返していかなくては。

まあ、過度に入れ込むのもなんだかなので、さらりといろいろ感謝できるようになりたいものである。

まあ、実はそういうものでもない。いやいや、そうでもないか。。いやいや。。

「ものの形を見分ける」

モノには本質があるか、ないか?

そんなことが哲学では重要な命題で、二千年以上にもわたって言葉を変えながら議論されてきた。

本質論というのは、たとえば、われわれがコップを見てそれをコップだと認識する、花を見てそれが花だと認識する。
それはコップだったり、花だったりの本質というものがあるからだと。

本質論の展開のされ方は、いろいろな主義や考え方によって異なるのだが、基本的には、「本質というものはあるのか、ないのか」。この点に尽きる。
このあたりの話は、井筒俊彦氏の「意識と本質」、「意識の形而上学」がおもしろかった。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)/井筒 俊彦

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東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)/井筒 俊彦

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にんじんを認識する脳細胞という話題が以前に脳科学の話題であって、「ああ、じゃあ、本質なんてないじゃん。」とおもったのだが、詳しい話を読んでなかったのでちょっとググってみた。

「ものの形を見分ける」脳の働きをキャッチした
http://www.riken.jp/r-world/info/release/news/1996/jul/index.html

脳細胞の先天的な構成および発達方向の指向性と後天的な学習によって、モノの認知が変わるわけで、「本質」というものは、脳細胞のモジュール構造とモジュール間の反応方式で作られているだけなのである。

アリストテレス(生年月日: BC 384年) のイデア論*1から、サルトルの実存主義※1(没年月日: 1980年4月15日)まで、いろいろ頭でこねくりまわしていたところでなんら埒などあかなかったということだ。

哲学とか社会学とかマジ必要ない。というか意味なんてない。

なーんていうのがソーカル※2たちの本音で、もし彼が『知の欺瞞』で言いたかったことの本質というものがあるとするのなら、まあそういうことなんじゃねえの?なんて、こういう実験結果をみると思うのである。

まあ、彼ら物理学者は、生物学もバカにしてたりするのだけれど。

人間模様だったり、人間だったりはそんなもんで、哲学やら科学やらとは別のところで動く。それだけのことである。

※1 サルトルの即自と対自
「実存は本質に先立つ」というのがサルトルの実存主義。即自というのは、たとえば、なんらかの目的をもって作られたもの、ペーパーナイフだったり、のこぎりだったり、ホッチキスだったり、それがあるようにしてあれと願われて作られたような本質があるもの、ものが常に自己同一的な存在のありかたをしているものを指し、対自というのはあらかじめ決められた本質がないもので、人間がまさにそれであって、人間にはもともと本質というものはなく、実存があったのち自らそれを作り上げることによって本質が作られると彼は言う。

※2 きみはソーカル事件を知っているか?
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/Hori.html

*1 イデア論
イデア論はプラトンだよ!なーんかおかしいなと、あとで気づいた。ださー。プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)

ニッキ

年明けから、mixiのほうにもニッキを書き始めたが、飽きてきますた。

さいきん、友人たちもぜんぜん日記を更新しなくなってきた。

mixiで日記書いて、足跡残っててもコメントもないのはプチへこむのである。

アメブロのほうは、好き勝手なことを書いているので、アクセスとかあっただけでうれしかったりする。

なんだか不思議だ。

なので、こっちのほうが年明けても更新回数が多くなってきた。

というか、仕事再開しても、自分ってけっこう土日はヒマな人だったらしい。

昨日は、会社にチョロっと朝行って、掃除して、ウインドショッピングして、ジーンズ買って、泳ぎにいって、スイミング仲間と新年会。

あ、買ったジーンズはこれ。

ニャンちゅうなブログ-若っ!

おさん、頼むわ!というかんじの若さ。前は股上浅くてパンツが出ます。
さらに、格好が若くなってます。

反省の色などありませんが何か?

えっとなんだっけ。あ、そうそう土曜日にそんだけやると日曜日にすることがなくなってしまた。

なので、むかーし録りだめしてた、NHKフランス語会話とスペイン語会話まで見出す始末である。

ニャンちゅうなブログ-フランス語はええなあ

やっぱ、この手のシリーズのモチベーションはアシスタントのコである。とはいえ、土屋アンナのあのイタリア語講座のやる気のなさは、いっくらかわいくてもさすがにヤル気がそがれた。。でも、かわいいので見てた。

NHKのフランス語講座は、もうアシスタントのドラちゃんに釘付けである。「アプレ モア(私の後でね)」などと言われるとついつい発音練習などもしてしまうのである。

はっきり言って、傍で見てたら怖いとおもう。。が、それが何か?

そんなこんなでやっとこんな時間だ。来週の土日はなにするかなあ。

ひ~ま~。

固形浅田飴 ニッキS(50錠)

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おくすりやさん

きょうのひなた

朝から雪がちらつく雪の結晶

晴れているのに雪が降ってるのは、なんつーの?

きつねの婿入り?そんな感じの天気ですた。

きつねで思い出したけれど、稲荷神社の赤い鳥居の足が黒いのはきつねの足と似て蝶だから?

  きつね  きつね  きつね

午後には、晴れますた。

きょうのひなた。

ニャンちゅうなブログ-窓からぱっと飛び込んだ光

土曜日の午後のひなたぼっこ。

  晴れ  晴れ  晴れ


仕事で、インド人の英語を読んでいるのだが、「ん?なんじゃこの単語?知らん。」と思って、電子辞書を引くと、だいたい

《古語》

えっ?おじいちゃん?でも、書いているのは20代とか30代とかなのである。

いろいろ、やはりおもしろい。

ひさびさの生インド英語とか生インド人とかが、なぜかなつかしいのである。

前いたのはバンガロールで、今会うコたちは、ケララのコたちなのだが、やはり体の動作はインド人の動きだったりする。なので、なんだかみょーになつかしかったりする。

性格もやっぱりインド人はインド人で、そういうフレームというのが、自分の目や耳や感覚の中にちゃんと出来上がっていて、実際、彼らがその枠内に収まってしまっていることがなんだか不思議な感じだ。

では、また。ナマステ~インド