ありふれた奇跡
演劇は、形而上的なものと思っていたのだが。。
形而上的なものは、形而下のエッセンスを積み上げたファンタジーで、いろいろ荒唐無稽なのだが、意識や事物をメタレベルへ昇華させてありえない状況を構築して、その世界と現実との差分を観客に見せつけることで、観客が現実を再認識するためのクレバスを作る。そんな感じがする。
たまにテレビをつけるとなぜか「ありふれた奇跡」をやっていて、見てしまう。
脚本は山田太一。
これもまた演劇なのだけれど、形而上とは逆方向のベクトルを持っているように感じる。
意識レベルでの人付き合いは、馴れ合いとか妥協とか円滑に人間関係を行うための薄皮で、その薄皮がない人たちが主人公な、そんな感じがするテレビドラマである。
生きることが不器用なサブコンシャスな人たち同士の会話。繋がり。
主人公たちは、自殺願望があった人たち。
そういう人たちの不器用な感情。ふれあい。
形而下から、意識レベルのものを一枚剥ぎ取ったもの。
そこで人間ドラマを作るという試み。
そこに現れるのはクレバスではなくて、…。
うーん、どうもよくわからんが、なぜだか引き込まれる。
このドラマで見えているのはいったい何?
形而上的なものは、形而下のエッセンスを積み上げたファンタジーで、いろいろ荒唐無稽なのだが、意識や事物をメタレベルへ昇華させてありえない状況を構築して、その世界と現実との差分を観客に見せつけることで、観客が現実を再認識するためのクレバスを作る。そんな感じがする。
たまにテレビをつけるとなぜか「ありふれた奇跡」をやっていて、見てしまう。
脚本は山田太一。
これもまた演劇なのだけれど、形而上とは逆方向のベクトルを持っているように感じる。
意識レベルでの人付き合いは、馴れ合いとか妥協とか円滑に人間関係を行うための薄皮で、その薄皮がない人たちが主人公な、そんな感じがするテレビドラマである。
生きることが不器用なサブコンシャスな人たち同士の会話。繋がり。
主人公たちは、自殺願望があった人たち。
そういう人たちの不器用な感情。ふれあい。
形而下から、意識レベルのものを一枚剥ぎ取ったもの。
そこで人間ドラマを作るという試み。
そこに現れるのはクレバスではなくて、…。
うーん、どうもよくわからんが、なぜだか引き込まれる。
このドラマで見えているのはいったい何?
カイゼンスリム化
化け物みたいになったチェックリストとか、効率化が作る規則でフン詰まりになっている状況。
今の会社は若いので作っていけばいいが、そのうちそういうのに巻き込まれる。
トヨタの渡辺捷昭前社長が専務時代に国内生産ラインのスリム化に取り組んだときのキーワードが
「上げる、寄せる、止める、生かす、捨てる」
生産ラインの稼働率を「上げて」、ラインを統合する(「寄せる」)。空いたラインはいったん「止める」。ラインを別の用途に転用する(「生かす」)。無理ならば最終的に廃棄する(「捨てる」)。
カイゼン提案は、作るのより潰すほうが難しい。
ビジネスにおいて、短期スパンで正論であったものが、長期スパンでも正論であるということなどいまどきない。
変化させることが大事で、だが運動というのは形ができるとその本質が失われて硬直化しやすい。
変化させることが本質であって、生産物に意味など大してない。
死に体の方法論を転用する必要などない。そこだけが違うだけで、あとの考え方は利用できる。
今の会社は若いので作っていけばいいが、そのうちそういうのに巻き込まれる。
トヨタの渡辺捷昭前社長が専務時代に国内生産ラインのスリム化に取り組んだときのキーワードが
「上げる、寄せる、止める、生かす、捨てる」
生産ラインの稼働率を「上げて」、ラインを統合する(「寄せる」)。空いたラインはいったん「止める」。ラインを別の用途に転用する(「生かす」)。無理ならば最終的に廃棄する(「捨てる」)。
カイゼン提案は、作るのより潰すほうが難しい。
ビジネスにおいて、短期スパンで正論であったものが、長期スパンでも正論であるということなどいまどきない。
変化させることが大事で、だが運動というのは形ができるとその本質が失われて硬直化しやすい。
変化させることが本質であって、生産物に意味など大してない。
死に体の方法論を転用する必要などない。そこだけが違うだけで、あとの考え方は利用できる。
統計学を超えるモノ
人間の視界は水平方向に広いが垂直方向に狭い。
高さの判断とか、高いビルの窓を数えて何階あるかとか、そういう解析能力は、横方向での解析能力に劣る。
縦書きの小説と横書きのブログ、斜め読みのしやすさとか。
引力に従って地上で歩くこと余儀なくされた人間と、羽をもつ鳥類の視覚や垂直方向の物体の判断能力はおのずと違う。
人でも、サバンナ型の人間、ジャングル型の人間、山岳タイプの人間。それぞれ視覚も違う。
視覚に限ったことではない。聴覚、触覚、嗅覚、味覚、etc。。
それを考えると、共通の美などあり得ないと思うのだが。
統計的なグラフで紡錘型の頂点をなすいわゆる「平均」な人に受ける「美」というものと、グラフの一番右端のいわゆる「選ばれた」人に受ける「美」というものがあって、それらはクロスオーバーしないように思うのだけれど。。
時代時代での特定の波は、そういう統計的な範囲内にある。そんなふうに思える。
しかし、歴史を超えて連綿と残っていく「美」というものがある。もちろん「美」だけではない。
それらは、そんな統計的な考え方を超えたところにある。
その正体はいったい何なんだろう。ただの遺伝的な共通項というだけでは説明できないような気がするのだが。。
人が認識できる歴史の範囲も視覚と同じようにどこかに制限はある。
超えた筈の歴史は、しょせん釈迦の手のひらだ。
宇宙の広さを見る、歴史を超える視覚を得る。そんなところに答えがあるのだろうか。
そんなもの、理解も認識もできそうにもない。
が、それを知る能力を人が持っているだろうことを疑ったことはない。あるいは疑うことはできない。
それも煩悩なのだろうか。
であれば、その煩悩とやら、抱えて生きてやる
高さの判断とか、高いビルの窓を数えて何階あるかとか、そういう解析能力は、横方向での解析能力に劣る。
縦書きの小説と横書きのブログ、斜め読みのしやすさとか。
引力に従って地上で歩くこと余儀なくされた人間と、羽をもつ鳥類の視覚や垂直方向の物体の判断能力はおのずと違う。
人でも、サバンナ型の人間、ジャングル型の人間、山岳タイプの人間。それぞれ視覚も違う。
視覚に限ったことではない。聴覚、触覚、嗅覚、味覚、etc。。
それを考えると、共通の美などあり得ないと思うのだが。
統計的なグラフで紡錘型の頂点をなすいわゆる「平均」な人に受ける「美」というものと、グラフの一番右端のいわゆる「選ばれた」人に受ける「美」というものがあって、それらはクロスオーバーしないように思うのだけれど。。
時代時代での特定の波は、そういう統計的な範囲内にある。そんなふうに思える。
しかし、歴史を超えて連綿と残っていく「美」というものがある。もちろん「美」だけではない。
それらは、そんな統計的な考え方を超えたところにある。
その正体はいったい何なんだろう。ただの遺伝的な共通項というだけでは説明できないような気がするのだが。。
人が認識できる歴史の範囲も視覚と同じようにどこかに制限はある。
超えた筈の歴史は、しょせん釈迦の手のひらだ。
宇宙の広さを見る、歴史を超える視覚を得る。そんなところに答えがあるのだろうか。
そんなもの、理解も認識もできそうにもない。
が、それを知る能力を人が持っているだろうことを疑ったことはない。あるいは疑うことはできない。
それも煩悩なのだろうか。
であれば、その煩悩とやら、抱えて生きてやる

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