はだし
はだしになることでしか見えない世界がある。
五感が研ぎ澄まされる。
それは、頭で考えるものじゃなくて、濡れるのもかまわず這いつくばって草のにおいをかいだり、土の温かさを感じたり、石の硬さを感じたり。
本当に大事なことは、体でしか得られないし、汚れたり傷ついたりすることもかまわず、泥だらけになりながら真っ只中に入らないと感じられない。身につかない。
犬塚勉の絵から、たちのぼってくるのはそうして体で得られたもの。
それは、モネとかセザンヌとかの印象派が捨ててしまったもの。
あるいはキュビズムだったりフォービズムだったり。
抽象化されたものからは、どうしても抜け落ちてしまうものがある。
そして、実はその抜け落ちたものというのが、裸足でしか感じられないナニモノかだったりする。
汚れなければ得られない。傷つかなければわからない。
そうして細部まで表現された自然。
はだしになって戦うことで、得られる世界。
目に見える世界を細部まで再現することで、逆に目に見えないものをそこに感じる。
見る人の五感まで震わせることができるのは、そこに、岩をつかみながら、渓流に足を取られながら、自然の奥まで分け入っていった人の魂が掴んだいのちの形があるから。
たぶんそれは、仕事でも同じ。傷ついて汚れろ、オレ。
五感が研ぎ澄まされる。
それは、頭で考えるものじゃなくて、濡れるのもかまわず這いつくばって草のにおいをかいだり、土の温かさを感じたり、石の硬さを感じたり。
本当に大事なことは、体でしか得られないし、汚れたり傷ついたりすることもかまわず、泥だらけになりながら真っ只中に入らないと感じられない。身につかない。
犬塚勉の絵から、たちのぼってくるのはそうして体で得られたもの。
それは、モネとかセザンヌとかの印象派が捨ててしまったもの。
あるいはキュビズムだったりフォービズムだったり。
抽象化されたものからは、どうしても抜け落ちてしまうものがある。
そして、実はその抜け落ちたものというのが、裸足でしか感じられないナニモノかだったりする。
汚れなければ得られない。傷つかなければわからない。
そうして細部まで表現された自然。
はだしになって戦うことで、得られる世界。
目に見える世界を細部まで再現することで、逆に目に見えないものをそこに感じる。
見る人の五感まで震わせることができるのは、そこに、岩をつかみながら、渓流に足を取られながら、自然の奥まで分け入っていった人の魂が掴んだいのちの形があるから。
たぶんそれは、仕事でも同じ。傷ついて汚れろ、オレ。
大事なときになにかに立ち会えない
自分の中の価値観を切り替える。
有事のときと、通常のときで価値観のモードを切り替える。
有事というのは、いつも突然やってくる。
そういうときに、平常時の価値観を捨てられるか。たとえば、立て込んでいる仕事だったり、家での予定だったり。
知人が3年半過ごしたインドから今夜のフライトで脱印する。タフでしかも遊びが大好きって奴だから友達も多い。
「俺たちを置いて行かないでーー」といい歳したインド人達が目の前で泣いているのをちょっと引き気味に見ながら
なんてことを日記に書いてたところをみると多くのインド人たちに見送られたようで他人事ながらちょっと嬉しくも羨ましくもある。
有事ったってそういうことなんだけれど、そういうときに仕事とか家とかはとりあえずおいて置いて、ちゃんとその場に居合わせることができる人は、人としてちゃんとしている。
インドに行く前はええ年こいてそんなことすら出来なかった。
インドから帰ってから、なんとかそういうことがやっと出来るようになったのだが、そういうときにいろんなものを手放す能力というのは年取るとさびつく。どんくさくなる。
それを失ったときにはもう生きていてもしょうがないとも思える。
『アンダーグラウンド』の千代田線、最初のインタビューイー、和泉きよかさんのように果たして自分はふるまえるのか。それは今でもずっと心に引っかかっている。
所詮、そういうふうに思うこと含めて自己満足なのかも知れないけれど、それも出来ないようなら生まれた意味なんてねえわな。などと『クローバーフィールド』を見直しつつ
。
とりあえず、ほっぽらかしていた『アンダーグラウンド』ちゃんと読もう。
有事のときと、通常のときで価値観のモードを切り替える。
有事というのは、いつも突然やってくる。
そういうときに、平常時の価値観を捨てられるか。たとえば、立て込んでいる仕事だったり、家での予定だったり。
知人が3年半過ごしたインドから今夜のフライトで脱印する。タフでしかも遊びが大好きって奴だから友達も多い。
「俺たちを置いて行かないでーー」といい歳したインド人達が目の前で泣いているのをちょっと引き気味に見ながら
なんてことを日記に書いてたところをみると多くのインド人たちに見送られたようで他人事ながらちょっと嬉しくも羨ましくもある。
有事ったってそういうことなんだけれど、そういうときに仕事とか家とかはとりあえずおいて置いて、ちゃんとその場に居合わせることができる人は、人としてちゃんとしている。
インドに行く前はええ年こいてそんなことすら出来なかった。
インドから帰ってから、なんとかそういうことがやっと出来るようになったのだが、そういうときにいろんなものを手放す能力というのは年取るとさびつく。どんくさくなる。
それを失ったときにはもう生きていてもしょうがないとも思える。
『アンダーグラウンド』の千代田線、最初のインタビューイー、和泉きよかさんのように果たして自分はふるまえるのか。それは今でもずっと心に引っかかっている。
所詮、そういうふうに思うこと含めて自己満足なのかも知れないけれど、それも出来ないようなら生まれた意味なんてねえわな。などと『クローバーフィールド』を見直しつつ

。とりあえず、ほっぽらかしていた『アンダーグラウンド』ちゃんと読もう。
『1Q84』
昔は、村上春樹を読んでいると
「スノッブだね」なんていう目で見られる。。感じだった。
彼が世に出た当初から、村上春樹は村上春樹という個人でありながら、村上春樹という現象でもあった。
そんなふうに思う。
現象は人の端にのってブームとなるのだけれど、認知のピークで売れた小説、たとえば『ノルウェイの森』の中に、何かが、その売れた分と同じだけあったのかと言われると。。
ノルウェイの森を売らしめたのは、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』という幾分明るい小説と、これらの持つ世界観のダークサイド(たとえば探し当てたピンボール機が置かれていたあの場所だったり、地下鉄の裏にあるヤミの世界だったり)を完全な形で構築した『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だった。そんなふうに思う。
で、『ノルウェイの森』。
本当のその姿は、売れすぎて酷評されたり、あるいは死とセックスという現象で片付けられたり、という浅薄なものでは実はない。作家、村上春樹は『ノルウェイの森』そのなかにもいるのであるが、現象として見てしまうと本質を見誤る。
昔は、あの緑と赤のカバーがわざとらしくて、しかもバカ売れしてたからそんなふうに自分も見誤ってた。
でもね、たぶん違う。
『1Q84』,なにかそういう浅薄なフィルターで見るとどこか見誤ってしまうような気がする。。
昔から、たとえば『1973年のピンボール』からも、特に長編の作品の中にひそやかに流れていた【暴力】というテーマ。
ねじまき鳥のあたりから、作品の表面に踊りだしてきたのだけれど。
それがどういう形に変質したのかというのに興味がある。
しかし、あの物語の二重構造というのは、あいかわらず彼のパターンなのかなあ。
まだ、『1Q84』買ってない。
1Q84 BOOK 1/村上春樹

¥1,890
Amazon.co.jp
1Q84 BOOK 2/村上春樹

¥1,890
Amazon.co.jp
で、ここから読売新聞のインタビュー記事に対する感想
彼の小説によって自分の中のなにかが解消された経験はない。
彼の小説は、なにかを、澱のように自らのなかに降り積もらせる。
それは果たして物語性を持つと言えるのかと。。
悲劇でもカタルシスを得られる悲劇とそうでないものがある。それが、物語とそうでないものの違いのように思う。
物語性というのは、そんなに簡単に作られるようなものではない。
あるいは、それは自分が彼の喪失感を共有できないからカタルシスが得られないだけなのかも知れない。。
「人でなし」な見方をするのであれば、なぜ彼がオウムのサリン事件に突き動かされたのかと考えると、現場が「地下鉄」という場所であったこと、そしてそこで「あたりまえだったなにものかが失われる」というその事実につきると。
最初、被害者の立場で、次は加害者の立場で。
それは、だれもが入れ替わる可能性すらあったのではないかという視点であり、なにものかが失われた自分とそれを失ったのはなぜなのかという自身の無意識の問いを重ね合わせる。
それを現代の喪失の物語だなんて考えているのであるならば、もうそれは無意識ではなく、被害者の方にとって噴飯ものでずいぶん人を喰った話だといううがった見方もできる。
彼は、自らが失われた理由が知りたい。まさにその実例が目の前で起こった。だからそのときにとった手法が最初ルポルタージュであったのだという見方と重ねあわせると、「なんと卑劣な…」と。
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
まったく獣の涙だぜ。
あまり人を悪くいうのは好きではないのだけれど。。どうもいま自分がネガティブな状況に取り囲まれているからそんな風に考えてしまうのだろうか。。
ものごとをあるべきかたちに戻したい。それが彼の欲望だから、『海辺のカフカ』のナカタさんは入り口の石を開ける。それによって、みずからの命がつきてしまっても一生をかけてそれはなされなければならない。
平均寿命が高くなるにつれ、自らと向き合わなければならなくなる時間が、熟年で訪れる。
思春期で自らとまともに向き合うことが十分にできなかった人だったり、あるいは必ずしもそうでなかった人も、年をとってからのソレは命がけの戦いになる。
しかし、戦い終えたナカタさんの表情は。。
そういうふうなハッピーエンドに考えたい。それもまた身勝手なひどい話か。。ああ、そうさ、ひどいのはオレなのだ。
なんていうのも偽善だな。まあいいや。
「スノッブだね」なんていう目で見られる。。感じだった。
彼が世に出た当初から、村上春樹は村上春樹という個人でありながら、村上春樹という現象でもあった。
そんなふうに思う。
現象は人の端にのってブームとなるのだけれど、認知のピークで売れた小説、たとえば『ノルウェイの森』の中に、何かが、その売れた分と同じだけあったのかと言われると。。
ノルウェイの森を売らしめたのは、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』という幾分明るい小説と、これらの持つ世界観のダークサイド(たとえば探し当てたピンボール機が置かれていたあの場所だったり、地下鉄の裏にあるヤミの世界だったり)を完全な形で構築した『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だった。そんなふうに思う。
で、『ノルウェイの森』。
本当のその姿は、売れすぎて酷評されたり、あるいは死とセックスという現象で片付けられたり、という浅薄なものでは実はない。作家、村上春樹は『ノルウェイの森』そのなかにもいるのであるが、現象として見てしまうと本質を見誤る。
昔は、あの緑と赤のカバーがわざとらしくて、しかもバカ売れしてたからそんなふうに自分も見誤ってた。
でもね、たぶん違う。
『1Q84』,なにかそういう浅薄なフィルターで見るとどこか見誤ってしまうような気がする。。
昔から、たとえば『1973年のピンボール』からも、特に長編の作品の中にひそやかに流れていた【暴力】というテーマ。
ねじまき鳥のあたりから、作品の表面に踊りだしてきたのだけれど。
それがどういう形に変質したのかというのに興味がある。
しかし、あの物語の二重構造というのは、あいかわらず彼のパターンなのかなあ。
まだ、『1Q84』買ってない。
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で、ここから読売新聞のインタビュー記事に対する感想
彼の小説によって自分の中のなにかが解消された経験はない。
彼の小説は、なにかを、澱のように自らのなかに降り積もらせる。
それは果たして物語性を持つと言えるのかと。。
悲劇でもカタルシスを得られる悲劇とそうでないものがある。それが、物語とそうでないものの違いのように思う。
物語性というのは、そんなに簡単に作られるようなものではない。
あるいは、それは自分が彼の喪失感を共有できないからカタルシスが得られないだけなのかも知れない。。
「人でなし」な見方をするのであれば、なぜ彼がオウムのサリン事件に突き動かされたのかと考えると、現場が「地下鉄」という場所であったこと、そしてそこで「あたりまえだったなにものかが失われる」というその事実につきると。
最初、被害者の立場で、次は加害者の立場で。
それは、だれもが入れ替わる可能性すらあったのではないかという視点であり、なにものかが失われた自分とそれを失ったのはなぜなのかという自身の無意識の問いを重ね合わせる。
それを現代の喪失の物語だなんて考えているのであるならば、もうそれは無意識ではなく、被害者の方にとって噴飯ものでずいぶん人を喰った話だといううがった見方もできる。
彼は、自らが失われた理由が知りたい。まさにその実例が目の前で起こった。だからそのときにとった手法が最初ルポルタージュであったのだという見方と重ねあわせると、「なんと卑劣な…」と。
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
まったく獣の涙だぜ。
あまり人を悪くいうのは好きではないのだけれど。。どうもいま自分がネガティブな状況に取り囲まれているからそんな風に考えてしまうのだろうか。。
ものごとをあるべきかたちに戻したい。それが彼の欲望だから、『海辺のカフカ』のナカタさんは入り口の石を開ける。それによって、みずからの命がつきてしまっても一生をかけてそれはなされなければならない。
平均寿命が高くなるにつれ、自らと向き合わなければならなくなる時間が、熟年で訪れる。
思春期で自らとまともに向き合うことが十分にできなかった人だったり、あるいは必ずしもそうでなかった人も、年をとってからのソレは命がけの戦いになる。
しかし、戦い終えたナカタさんの表情は。。
そういうふうなハッピーエンドに考えたい。それもまた身勝手なひどい話か。。ああ、そうさ、ひどいのはオレなのだ。
なんていうのも偽善だな。まあいいや。
昏さ
暗さは若さの特権だと誰かが言っていた。
年をとると暗さと共存できるほど精神的に強くはなくなる。
時代も同じで、活力のある時代はどこかに同じだけの闇を持つことができる。
闇を持てる時代というのはそれだけエネルギーが余剰にあるときなのだろう。
「人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かが在りすぎるから悲劇は起こるのだ。
否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何もかも進んで受け入れる生活が悲劇的でなのである。」(「悲劇について」 考えるヒント3 小林秀雄)
これはギリシャ悲劇に動かされたニーチェの凡そ悲劇に関する動かしがたい洞察について、小林秀雄が述べたものなのだけれど。
悲劇には裏に、エネルギーに溢れた人間の根源的なストーリーがある。アキレスの踵とかもそう。
それがあるか、ないか。
あるいは、強烈な明るさのなかに悲劇の兆しをどこかで見つけようとする。それは動かしがたい人の習性なのか、あるいは。。
健全な時代というのは運命的に昏さと共存する、そうなんだろうとふとそう思った。
年をとると暗さと共存できるほど精神的に強くはなくなる。
時代も同じで、活力のある時代はどこかに同じだけの闇を持つことができる。
闇を持てる時代というのはそれだけエネルギーが余剰にあるときなのだろう。
「人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かが在りすぎるから悲劇は起こるのだ。
否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何もかも進んで受け入れる生活が悲劇的でなのである。」(「悲劇について」 考えるヒント3 小林秀雄)
これはギリシャ悲劇に動かされたニーチェの凡そ悲劇に関する動かしがたい洞察について、小林秀雄が述べたものなのだけれど。
悲劇には裏に、エネルギーに溢れた人間の根源的なストーリーがある。アキレスの踵とかもそう。
それがあるか、ないか。
あるいは、強烈な明るさのなかに悲劇の兆しをどこかで見つけようとする。それは動かしがたい人の習性なのか、あるいは。。
健全な時代というのは運命的に昏さと共存する、そうなんだろうとふとそう思った。
草食系
最近気づけばBLV。外でイベントのときにはこればっかし。。
もういいでしょうということで、あたらしいやつを探しに。
ACQUA DI GIO POUR HOMME (アクアデジオプールオム) EDT50ml

¥4,475
EQダイレクト
ひと目惚れならぬ一鼻惚れで衝動買い。
子供の頃は香水、苦手だったのに。。
不思議と大人になるとそういう体に基本的に響くものの嗜好ががらりと変わる。
ビールなんて、「あんなマズイもの、ぜってー飲まん!」なんて思ってた。
最近買った本。『音は心の中で音楽になる』。
音は心の中で音楽になる―音楽心理学への招待/谷口 高士

¥2,940
Amazon.co.jp
音楽を聞いたときの感情、その秘密が知りたくていろいろ読んでいるのだけれど、結構奥が深い。
ただ、どうやらインプリンティングというのが大きな要素なようで、生来的にもっているものより、後天的に獲得された記憶によって刷り込まれる範囲が大きいらしい。
感情の記憶。
でも、逆に、生の演奏というのにもすごく揺さぶられもしたり。
音楽を演奏する人の身体の動きだったり舞台装置だったりにも影響を受けたり。
で、結局のところ、いまだに仕組みがよくわからない┐( ̄ヘ ̄)┌
話は変わる。
アラサーの友達が、「今、映画にしてもテレビにしても、脚本をつくったり裏で動かしていたりする人はバブルの頃に新人だった人たちで、アラフォーなにおいがする」と。で、「あのちょっとバブリーな感じがダサくてイヤ」と。。なんだか納得した。でもあれはあれで、いい加減な遊びの部分が多くて面白かったのだが。
というか、どこか暗さがあったあの時代。高度成長期の暗さと似た感じは誰しも心のなかに持ってたような。
で、あの時代のいいかげんな感じとその裏の暗さが懐かしくなると探して見てしまうのがTei Towaの火星。
クラムボンの原田郁子とともにHEY×HEY×HEYに出演したときの映像を探しているのだがまだ見つからない。Tei Towaらしく、やりたい放題でこの曲にあわせてパラパラを踊るねーちゃんたちが印象的だったのだが。。
ところで、このPV、黒い方は草食系男子に見えるのだが、バブルの頃からそういう構図ってあったんですな。
話がまとまらないっーぃぃぃ!
おしまい。
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ただ、どうやらインプリンティングというのが大きな要素なようで、生来的にもっているものより、後天的に獲得された記憶によって刷り込まれる範囲が大きいらしい。
感情の記憶。
でも、逆に、生の演奏というのにもすごく揺さぶられもしたり。
音楽を演奏する人の身体の動きだったり舞台装置だったりにも影響を受けたり。
で、結局のところ、いまだに仕組みがよくわからない┐( ̄ヘ ̄)┌
話は変わる。
アラサーの友達が、「今、映画にしてもテレビにしても、脚本をつくったり裏で動かしていたりする人はバブルの頃に新人だった人たちで、アラフォーなにおいがする」と。で、「あのちょっとバブリーな感じがダサくてイヤ」と。。なんだか納得した。でもあれはあれで、いい加減な遊びの部分が多くて面白かったのだが。
というか、どこか暗さがあったあの時代。高度成長期の暗さと似た感じは誰しも心のなかに持ってたような。
で、あの時代のいいかげんな感じとその裏の暗さが懐かしくなると探して見てしまうのがTei Towaの火星。
クラムボンの原田郁子とともにHEY×HEY×HEYに出演したときの映像を探しているのだがまだ見つからない。Tei Towaらしく、やりたい放題でこの曲にあわせてパラパラを踊るねーちゃんたちが印象的だったのだが。。
ところで、このPV、黒い方は草食系男子に見えるのだが、バブルの頃からそういう構図ってあったんですな。
話がまとまらないっーぃぃぃ!
おしまい。