原点回帰
実はマクルーハンを読んでいない。
最初にその名前を聞いたのは佐野元春のカセットブック(*注 リンク先は『BEATITUDE Collected Poems and Vision 1985-2003』。「7. Dovanna」参聴)。そうか、佐野くんってエディターだったんだと改めて気づく。
メディア論っていうと、もううんざりな感じがするのだけれど、音楽のメッセージ性ってまだ奇跡のように残ってるのかもしれない。荒らされずに手つかずで。
言葉のビート感とか。
結局、知覚レベルでのメッセージ性というのはそう簡単に消えてなくなるものでもなし、メディアがどんなに拡張されても、結局そこへ回帰する。バイブレーションとか。原始的な表現手段の訴求性というのは、人間の体が変わらないように、変わらなく存在するし、強いんだね。
もう物語性はいいやと村上春樹の本を読んで最近。体に浸透してこねえなあと。
原点回帰して聞いてみるかと『Daydream weaver』の佐野くんを聞いて。
「疾走感取り戻してるやん!」っておもったが、自分の曲じゃないのね。
ソングライティングなんてアクターズ・スタジオの真似するのも編集者らしくてよいのだが、自分自身をこんなふうに誰か後輩たちに編集してもらうっていうのも、大御所のあり方としてアリかも。Vocal feat.桑田佳祐とかも聞いてみたいなあ。
最初にその名前を聞いたのは佐野元春のカセットブック(*注 リンク先は『BEATITUDE Collected Poems and Vision 1985-2003』。「7. Dovanna」参聴)。そうか、佐野くんってエディターだったんだと改めて気づく。
メディア論っていうと、もううんざりな感じがするのだけれど、音楽のメッセージ性ってまだ奇跡のように残ってるのかもしれない。荒らされずに手つかずで。
言葉のビート感とか。
結局、知覚レベルでのメッセージ性というのはそう簡単に消えてなくなるものでもなし、メディアがどんなに拡張されても、結局そこへ回帰する。バイブレーションとか。原始的な表現手段の訴求性というのは、人間の体が変わらないように、変わらなく存在するし、強いんだね。
もう物語性はいいやと村上春樹の本を読んで最近。体に浸透してこねえなあと。
原点回帰して聞いてみるかと『Daydream weaver』の佐野くんを聞いて。
「疾走感取り戻してるやん!」っておもったが、自分の曲じゃないのね。
ソングライティングなんてアクターズ・スタジオの真似するのも編集者らしくてよいのだが、自分自身をこんなふうに誰か後輩たちに編集してもらうっていうのも、大御所のあり方としてアリかも。Vocal feat.桑田佳祐とかも聞いてみたいなあ。
なんでもそうだけど
ある問題解決をするときは、枠組み化を行う。
スタンバーグは、高い知能をもつ被験者は低い知能の被験者と比べ、「問題の枠組み化」に時間をかけることを発見した。
「問題の枠組み化」とは問題を定義し、分析し、それについて述べることである。
プログラミングの場合
①枠組みを定義し、段階的詳細化を行う。
②段階的詳細化した内容を整理する。
このときストーリーラインをいつ作るのかというのが問題。
枠組み化するときに、すでに枠組みをつくるためのストーリーはある。
ただ、たいていの問題は複数の原因から成り立っている。
ストーリーを明確化したうえで枠組みを作る方法と、原因毎にある程度枠組み化してからストーリーを組みなおす方法。
プログラマーで出来るヤツは、原因毎のストーリーを突き通すような枠組み化を最初に行う。なので、プログラムに一貫性があってムラがない。その時点でストーリーラインができている。
なので②の作業すらほとんどいらないか、まったくいらない。
同じストーリーで頭からケツまで見通せる。わかりやすく保守もしやすい。
筋がわるいのは、後者のパターン。枠組み化のストーリーと原因毎のストーリーが見えてないまま発車。混乱。なんとか整合性をつけても、冗長や重複があったりして…。結局、筋がわるくて手がかかる。使えない。
結局、ストーリーラインに尽きるような気がする。
スタンバーグは、高い知能をもつ被験者は低い知能の被験者と比べ、「問題の枠組み化」に時間をかけることを発見した。
「問題の枠組み化」とは問題を定義し、分析し、それについて述べることである。
プログラミングの場合
①枠組みを定義し、段階的詳細化を行う。
②段階的詳細化した内容を整理する。
このときストーリーラインをいつ作るのかというのが問題。
枠組み化するときに、すでに枠組みをつくるためのストーリーはある。
ただ、たいていの問題は複数の原因から成り立っている。
ストーリーを明確化したうえで枠組みを作る方法と、原因毎にある程度枠組み化してからストーリーを組みなおす方法。
プログラマーで出来るヤツは、原因毎のストーリーを突き通すような枠組み化を最初に行う。なので、プログラムに一貫性があってムラがない。その時点でストーリーラインができている。
なので②の作業すらほとんどいらないか、まったくいらない。
同じストーリーで頭からケツまで見通せる。わかりやすく保守もしやすい。
筋がわるいのは、後者のパターン。枠組み化のストーリーと原因毎のストーリーが見えてないまま発車。混乱。なんとか整合性をつけても、冗長や重複があったりして…。結局、筋がわるくて手がかかる。使えない。
結局、ストーリーラインに尽きるような気がする。
匂いがある瞬間
あまり友達付き合いが上手なほうではない。
人と会話してたり、特に女のコなんかだと控え目なアドバイスだったりするし、男の場合でも面とむかってなにかをいわないやつとか。。
誰でもそうだけれど、人と相対するときはその人に対する意識が表にでる。しゃべり方とか言葉の選び方とか。
普通に喋っているときはそうでもないが、向こうがこちらのマージナルな部分に触れてくる瞬間に、ある「匂い」がするときがある。
もちろん、控え目なそれらは精一杯向こうが意識した結果、微細な信号や波動でしか届かないが、愛情というのは本来そういうものだと思う。
大きな信号や波動は、その人の自分自身への執着なのだけれど、人はそちらに重きを置きがちだ。
それって、少し哀しい人間の性なのかもしれない。
人と会話してたり、特に女のコなんかだと控え目なアドバイスだったりするし、男の場合でも面とむかってなにかをいわないやつとか。。
誰でもそうだけれど、人と相対するときはその人に対する意識が表にでる。しゃべり方とか言葉の選び方とか。
普通に喋っているときはそうでもないが、向こうがこちらのマージナルな部分に触れてくる瞬間に、ある「匂い」がするときがある。
もちろん、控え目なそれらは精一杯向こうが意識した結果、微細な信号や波動でしか届かないが、愛情というのは本来そういうものだと思う。
大きな信号や波動は、その人の自分自身への執着なのだけれど、人はそちらに重きを置きがちだ。
それって、少し哀しい人間の性なのかもしれない。
なむなむ
比叡山へ。

なんでも、日本一長いケーブルカーだそうで。
なんの変哲もないケーブルカーですが。。なにかしらとりえはあるものです。
というか、目のまえに広がる広大なパノラマとか、カモシカも落とす千尋の断崖絶壁とか。
みじんもみあたりません。
道路もちゃんと別に山頂まで通っている状況で、なにかタイトルをくっつけないと誰も乗らないです。
値段高すぎ。切符売りのおばちゃんの熱の入った呼び込みもわかるというものです。
いかがわしさは江ノ島エスカーには及びませんが。ただエスカーはまだリーズナブルなお値段でそこの成立原理がまったく違います。
ただ、ケーブルカーの車窓から見える、ベニア板でつくったらしき、鹿、さる、りす、くま、そしてなぜかハチドリなどの看板が、線路沿いにあくまでもひかえめにポツポツと立てられてるのが理不尽な切符売りのおばちゃんによって荒らされた心を和ませてくれます。さすが滋賀、飛び出し坊やのお膝元だけあります。
全国いたるところに「いやげもの」があるように、ありえない乗り物もあるということを久し振りに思い出しました。
値段に見合うようにと新しい車体を作ったり、あたらしい駅舎にしたりなんていう姑息な努力がすこし残念でした。
あ、道路も高いですね、ここ。昭和な値段原理が幅を利かせている場所のひとつのようです。
ケーブルカーの終点から見る琵琶湖はガスっていました。

その中途半端な景色はますます哀愁を誘います。
延暦寺は、ほかの京都の世界遺産と一括して世界遺産に指定されていますが、お堂とか仏像とかは信長の焼き打ちにあったので残っていません。なので仏教美術、仏教建築的に見るべきものはまったくありません。唯一あるのが、この国宝の根本中堂です。

ただ、山自体が持つ気配は、高野山に似て静かな大きさを感じます。そういう場所だけが持つ、空気の静謐さは、山そのものを体感させます。そんな敬虔さを呼び起こす場所でした。

なんでも、日本一長いケーブルカーだそうで。
なんの変哲もないケーブルカーですが。。なにかしらとりえはあるものです。
というか、目のまえに広がる広大なパノラマとか、カモシカも落とす千尋の断崖絶壁とか。
みじんもみあたりません。
道路もちゃんと別に山頂まで通っている状況で、なにかタイトルをくっつけないと誰も乗らないです。
値段高すぎ。切符売りのおばちゃんの熱の入った呼び込みもわかるというものです。
いかがわしさは江ノ島エスカーには及びませんが。ただエスカーはまだリーズナブルなお値段でそこの成立原理がまったく違います。
ただ、ケーブルカーの車窓から見える、ベニア板でつくったらしき、鹿、さる、りす、くま、そしてなぜかハチドリなどの看板が、線路沿いにあくまでもひかえめにポツポツと立てられてるのが理不尽な切符売りのおばちゃんによって荒らされた心を和ませてくれます。さすが滋賀、飛び出し坊やのお膝元だけあります。
全国いたるところに「いやげもの」があるように、ありえない乗り物もあるということを久し振りに思い出しました。
値段に見合うようにと新しい車体を作ったり、あたらしい駅舎にしたりなんていう姑息な努力がすこし残念でした。
あ、道路も高いですね、ここ。昭和な値段原理が幅を利かせている場所のひとつのようです。
ケーブルカーの終点から見る琵琶湖はガスっていました。

その中途半端な景色はますます哀愁を誘います。
延暦寺は、ほかの京都の世界遺産と一括して世界遺産に指定されていますが、お堂とか仏像とかは信長の焼き打ちにあったので残っていません。なので仏教美術、仏教建築的に見るべきものはまったくありません。唯一あるのが、この国宝の根本中堂です。

ただ、山自体が持つ気配は、高野山に似て静かな大きさを感じます。そういう場所だけが持つ、空気の静謐さは、山そのものを体感させます。そんな敬虔さを呼び起こす場所でした。
