日記
ブオーなんだか月曜から冷たい雨だったが。台風かよ。
フランス語習い始めた。
教科書をみると、ヨーロッパ共通参照枠(CEF)に基づいて作ったと。ふむ。
聞いて話す。子供が覚えるように言葉を覚えていくのが話せるようになることの近道で。。
特にフランス語なんかだと名詞の性とかあるので音で覚えたほうが楽チンで早い。
そんなあたりまえのことにやっと気づく。おそっ。
いまNHK教育のフランス語講座見たがひどい。教育方法混乱しすぎ。役に立たん。
明日、10/8(木)池下うっぷせっと。ADVとDOORが値段同じ?ええっ!
oil78proofなんか旬で活きが良いぞ。若くてピチピチ。¥2,000ぽっきり。
幽体離脱
『単純な脳、複雑な「私」』。
ネイチャー・サイエンス誌などに発表された最新の脳科学の実験結果が引用されているところがあり。そういうとこは面白かった。そういうのだけどっかにまとまって書いてあるといいのだが。
以下、おもしろかった点、ふたつほど。
右脳の角回(頭頂葉と後頭葉の境界にある部位)を刺激すると、
「自分が2mくらい浮かび上がって、天井の下から、自分がベットに寝ているのが部分的に見れる」
どうも脳にちゃんとそういう機能はあるらしい。
どうやって自分でそういう状態を作るのか、ろくでもない本ばかり書いている中沢新一に開示してもらいたいものだ。
ゴルフのパットでは、脳のゆらぎ、前頭葉のアルファ波が多い時に具合がわるくて、少ない時に打てば良い。
このアルファ波、コントロールできるようになるらしい。
コントロールのカギはフィードバック。今コントロールできないのは自分がアルファ波がどのくらい出てるか見えてないからで、脳波計で視認しながらやるとはじめて脳波計を見た人でも10分もあればある程度はコントロールできるようになるとか。
『チベットのモーツァルト』に書いていたような修行って、もっと簡単にできるようになるんじゃないのかとふと思った。
最近、『1Q84』『太陽を曳く馬』読んで、オウムがまだ片付いていないことに気づいた。拠り所となっている神秘体験と修行の先で得られるという視線の魅力というのがどうしても残っているから。こういうことが脳科学の実験結果を使って自分で出来るのならあんなことは起こらなかったかも。
あーでも、結局インチキ脳波計売りつけたりとかそういうのはなくならねえか。ゴルフ好きのオヤジとかカモにはいいなあ。
ネイチャー・サイエンス誌などに発表された最新の脳科学の実験結果が引用されているところがあり。そういうとこは面白かった。そういうのだけどっかにまとまって書いてあるといいのだが。
以下、おもしろかった点、ふたつほど。
右脳の角回(頭頂葉と後頭葉の境界にある部位)を刺激すると、
「自分が2mくらい浮かび上がって、天井の下から、自分がベットに寝ているのが部分的に見れる」
どうも脳にちゃんとそういう機能はあるらしい。
どうやって自分でそういう状態を作るのか、ろくでもない本ばかり書いている中沢新一に開示してもらいたいものだ。
ゴルフのパットでは、脳のゆらぎ、前頭葉のアルファ波が多い時に具合がわるくて、少ない時に打てば良い。
このアルファ波、コントロールできるようになるらしい。
コントロールのカギはフィードバック。今コントロールできないのは自分がアルファ波がどのくらい出てるか見えてないからで、脳波計で視認しながらやるとはじめて脳波計を見た人でも10分もあればある程度はコントロールできるようになるとか。
『チベットのモーツァルト』に書いていたような修行って、もっと簡単にできるようになるんじゃないのかとふと思った。
最近、『1Q84』『太陽を曳く馬』読んで、オウムがまだ片付いていないことに気づいた。拠り所となっている神秘体験と修行の先で得られるという視線の魅力というのがどうしても残っているから。こういうことが脳科学の実験結果を使って自分で出来るのならあんなことは起こらなかったかも。
あーでも、結局インチキ脳波計売りつけたりとかそういうのはなくならねえか。ゴルフ好きのオヤジとかカモにはいいなあ。
『単純な脳、複雑な「私」』
『進化しすぎた脳』の続編っぽく。
単純な脳、複雑な「私」/池谷裕二

¥1,785
Amazon.co.jp
前回は「ニューヨークの高校で脳科学講義をしてそれを本にした」。今回は「自分の出身校で」バージョン。テーマは、ココロと脳。文系チックな内容。かなり無理めなところがあり、おすすめできない。「心の構造化」といいながら全然構造化になってない。内容の割に値段が高いし。
やはり、軽いのは糸井さんとの共著の『海馬』くらいで十分のような気がする。同じ系統の本を出しすぎ。売れるとなると出版業界も必死なのか、もうちょっと良心があってもいいんじゃねえかと思う。
まあ、それはおいておいて、この本に書かれている脳がおこす錯覚の動画の例が「単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト」にあるので、興味のあるかたはどうぞ。紙じゃなく動きがあるのが楽しいかも。
ここまで批判しておいてどうかとも思うが。。
http://www.asahipress.com/brain/
携帯の方は、こっち。
http://www.asahipress.com/brain-mo/index.php
PRESIDENTにたまに出てくる池谷氏の記事を集めたのがないのかなあと探しているのだけれど。。こういうチャート式っぽいのが、わっしのような文系頭の人にも面白いと思うのだが。。どうも最近やる気が続かない・でないという方は、このリンク先を読んでみては。あ、オレノコトカ。
単純な脳、複雑な「私」/池谷裕二

¥1,785
Amazon.co.jp
前回は「ニューヨークの高校で脳科学講義をしてそれを本にした」。今回は「自分の出身校で」バージョン。テーマは、ココロと脳。文系チックな内容。かなり無理めなところがあり、おすすめできない。「心の構造化」といいながら全然構造化になってない。内容の割に値段が高いし。
やはり、軽いのは糸井さんとの共著の『海馬』くらいで十分のような気がする。同じ系統の本を出しすぎ。売れるとなると出版業界も必死なのか、もうちょっと良心があってもいいんじゃねえかと思う。
まあ、それはおいておいて、この本に書かれている脳がおこす錯覚の動画の例が「単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト」にあるので、興味のあるかたはどうぞ。紙じゃなく動きがあるのが楽しいかも。
ここまで批判しておいてどうかとも思うが。。
http://www.asahipress.com/brain/
携帯の方は、こっち。
http://www.asahipress.com/brain-mo/index.php
PRESIDENTにたまに出てくる池谷氏の記事を集めたのがないのかなあと探しているのだけれど。。こういうチャート式っぽいのが、わっしのような文系頭の人にも面白いと思うのだが。。どうも最近やる気が続かない・でないという方は、このリンク先を読んでみては。あ、オレノコトカ。
残酷な視線を獲得するために
残酷な視線の意味がわからなかった。
『Helpless』を10年ぶりくらいに観た。見直すと北野武の初期の作品と似ている。
Helpless [DVD]

観客は日常生活の視点で、狂気を見る。
イマジナリーラインを切ることで、観客は第三者的に流れを追わざるをえない。結果、突発的な交通事故を目の前でみるような感覚を何度も味わうことになる。因果は後から観客に与えられる。
そういう視線、小津安二郎に似ている。小津安二郎の視点でバイオレンスを撮っている。
「残酷な視線を獲得するために」というのは、『対談集 存在の耐えがたきサルサ』(村上龍 文春文庫)において、村上龍と蓮實重彦との対談につけられた名前。こういうテーマで対談というふうに企図されてたわけでなく、あとから名づけられたようだ。
ソシュールの目線で言語をみた場合、言葉の意味はあとからもたらされる。たぶんそれがソシュールに対して蓮實氏が気づいた点。
『反=日本語論』で蓮實はソシュールの言語論を検証しているが、そのポイントの一つが当事者性。当事者、つまり言葉を覚える「人」からみた場合、意味はあとからやってくる。子供が大人の会話を聞く、そうして言葉を覚えていく場合、話される言葉の意味はあとからやってくる。
反=日本語論 (ちくま学芸文庫)/蓮實 重彦

村上龍が、蓮實のフロベール論に書かれていた「描写が持つ力」に対してこの対談で言及している。それを正しいと思った村上は、『イビサ』で精神をおかしくした主人公が、クローム鍋で水を沸かすところをとにかく描写してみた。描写を過剰にすることで、感情が伝わるはずだと。「彼女は不安とともにクローム鍋を見た」と書けば簡単なんだけれども、クローム鍋のなかの水が沸騰する様子を彼女の視点で徹底的に。
「実際に水が沸騰する様子を記憶として再生して、自分でも、ちょっと俺、おかしいんじゃないかと思うくらい偏執狂的な感じで描写していくと、「彼女は不安と恐怖とともにクローム鍋を見ていた」という一行が不必要になってくるんですよね」と村上龍はその対談で蓮實に語っている。
以前、NHKの日曜美術館で犬塚勉の絵をみたときに、写実が精神性を持つことをテレビ画面で実際に彼の絵を見て知ったのだけれど、じゃあほかの画家の静物画を見て精神性を感じるかというとまったく感じない。それはいったいなぜかというのがわからなかった。
静物画というのはだいたい主題があって、それにまず目が行く。何が書きたかったのかというのがとにかく見ればすぐにわかる。
でも、犬塚勉の絵は主題が見えない。あるいは事物の後ろに隠されている。
『暗く深き渓谷の入口Ⅰ』を見ると、前面の石が主題かと思うとそうではない。では、背後の滝かとみるとそうではない。実は石で隠された川が、水が描きたかったのだと私は見る。あるいは滝の音を描きたかった。
作られた断絶。それを探ろうとする観客。意味はあとからやってくる。そのときに必要なのが過剰な写実。主題をはなれた部分を徹底的に写実することで、隠れたものが現れる。
それは、聞いたことのないある単語や言葉の意味が、全体の文脈からわかるのと似ている。意味はあとからやってくる。
そういうときに、写実は受け取る人にとって精神性を持つ。ように見える。隠されたものに対するビビッドなイメージが受け取る側のこころに想起する。なぜだかふと、「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」というユングの言葉を想い出した。
残酷な視線は、作家が、作り手が持たなければいけない。断絶を作りこむ。そのための写実である。
ゴッホのような狂気の画家は、意図せずとも観客との精神の断絶をその精神に持っている。観客はいつも後追いでその視線を覗きこまなくてはいけない。例えば「カラスのいる麦畑」。そして、その隠されたものの意味にあるいは感情にあとから気づく。それに気づいたときにはもう帰れない。ゴッホの視覚イメージに捉われる。
志賀直哉の『城の崎にて』をそういう点で見直してみた。どうも小説の技術というのも発達していて。。
時代からはなれて当事者として感じられなくなるのもそうだが、技術面でも現代となんらかの乖離が発生していて、はたして過去に書かれたものがいまでも通用するかというとそうでもなかったりするのかもしれない。
彼の作品の場合、隠されているのは彼のエゴである。わっしは自分の影は見たくはない。
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)/志賀 直哉

『Helpless』を10年ぶりくらいに観た。見直すと北野武の初期の作品と似ている。
Helpless [DVD]

観客は日常生活の視点で、狂気を見る。
イマジナリーラインを切ることで、観客は第三者的に流れを追わざるをえない。結果、突発的な交通事故を目の前でみるような感覚を何度も味わうことになる。因果は後から観客に与えられる。
そういう視線、小津安二郎に似ている。小津安二郎の視点でバイオレンスを撮っている。
「残酷な視線を獲得するために」というのは、『対談集 存在の耐えがたきサルサ』(村上龍 文春文庫)において、村上龍と蓮實重彦との対談につけられた名前。こういうテーマで対談というふうに企図されてたわけでなく、あとから名づけられたようだ。
ソシュールの目線で言語をみた場合、言葉の意味はあとからもたらされる。たぶんそれがソシュールに対して蓮實氏が気づいた点。
『反=日本語論』で蓮實はソシュールの言語論を検証しているが、そのポイントの一つが当事者性。当事者、つまり言葉を覚える「人」からみた場合、意味はあとからやってくる。子供が大人の会話を聞く、そうして言葉を覚えていく場合、話される言葉の意味はあとからやってくる。
反=日本語論 (ちくま学芸文庫)/蓮實 重彦

村上龍が、蓮實のフロベール論に書かれていた「描写が持つ力」に対してこの対談で言及している。それを正しいと思った村上は、『イビサ』で精神をおかしくした主人公が、クローム鍋で水を沸かすところをとにかく描写してみた。描写を過剰にすることで、感情が伝わるはずだと。「彼女は不安とともにクローム鍋を見た」と書けば簡単なんだけれども、クローム鍋のなかの水が沸騰する様子を彼女の視点で徹底的に。
「実際に水が沸騰する様子を記憶として再生して、自分でも、ちょっと俺、おかしいんじゃないかと思うくらい偏執狂的な感じで描写していくと、「彼女は不安と恐怖とともにクローム鍋を見ていた」という一行が不必要になってくるんですよね」と村上龍はその対談で蓮實に語っている。
以前、NHKの日曜美術館で犬塚勉の絵をみたときに、写実が精神性を持つことをテレビ画面で実際に彼の絵を見て知ったのだけれど、じゃあほかの画家の静物画を見て精神性を感じるかというとまったく感じない。それはいったいなぜかというのがわからなかった。
静物画というのはだいたい主題があって、それにまず目が行く。何が書きたかったのかというのがとにかく見ればすぐにわかる。
でも、犬塚勉の絵は主題が見えない。あるいは事物の後ろに隠されている。
『暗く深き渓谷の入口Ⅰ』を見ると、前面の石が主題かと思うとそうではない。では、背後の滝かとみるとそうではない。実は石で隠された川が、水が描きたかったのだと私は見る。あるいは滝の音を描きたかった。
作られた断絶。それを探ろうとする観客。意味はあとからやってくる。そのときに必要なのが過剰な写実。主題をはなれた部分を徹底的に写実することで、隠れたものが現れる。
それは、聞いたことのないある単語や言葉の意味が、全体の文脈からわかるのと似ている。意味はあとからやってくる。
そういうときに、写実は受け取る人にとって精神性を持つ。ように見える。隠されたものに対するビビッドなイメージが受け取る側のこころに想起する。なぜだかふと、「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」というユングの言葉を想い出した。
残酷な視線は、作家が、作り手が持たなければいけない。断絶を作りこむ。そのための写実である。
ゴッホのような狂気の画家は、意図せずとも観客との精神の断絶をその精神に持っている。観客はいつも後追いでその視線を覗きこまなくてはいけない。例えば「カラスのいる麦畑」。そして、その隠されたものの意味にあるいは感情にあとから気づく。それに気づいたときにはもう帰れない。ゴッホの視覚イメージに捉われる。
志賀直哉の『城の崎にて』をそういう点で見直してみた。どうも小説の技術というのも発達していて。。
時代からはなれて当事者として感じられなくなるのもそうだが、技術面でも現代となんらかの乖離が発生していて、はたして過去に書かれたものがいまでも通用するかというとそうでもなかったりするのかもしれない。
彼の作品の場合、隠されているのは彼のエゴである。わっしは自分の影は見たくはない。
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)/志賀 直哉

