EXCESをコードせよ
端的に言って、EXCESはズレではない。有機的秩序からあふれだす欲望である。
秩序からあふれ出すが故に、言語的な秩序からもはみだす。同じものさしでは測れない。
それをコード化できるのは詩だけである。
ときに爆発的でときに簡単にあふれだす余剰なエネルギー。それに対する人間の嗅覚というのは、いったい。。それはともかく
動物的な本能を論理でコード化しようたって出来るわけなどない。
心の奥底まで落としこまれた感情のフレームを共鳴させてそれを制御するためには、ただ一つしかないメタファーを考え抜いて探すしかない。
便宜的なメタファーなど通じない。だが、それが見つかったときその言葉は強い。頭より身体に染みて、身体が反応する。*1
ストーリーはもういらない。物語もいらない。眠ることで癒されるから。
欲しいのはEXCES。過剰を生み出すコード。
*1 もっともメタファーは言葉だけでなく、写真だったり、モノの組み合わせだったり。非言語メタファーのほうが体に近かったりするが、それを制御するのは難しい。両界曼荼羅とかは口伝教義と絵で、座禅なんかの身体的な酩酊とそれとの組み合わせはヤバそうだ。
秩序からあふれ出すが故に、言語的な秩序からもはみだす。同じものさしでは測れない。
それをコード化できるのは詩だけである。
ときに爆発的でときに簡単にあふれだす余剰なエネルギー。それに対する人間の嗅覚というのは、いったい。。それはともかく
動物的な本能を論理でコード化しようたって出来るわけなどない。
心の奥底まで落としこまれた感情のフレームを共鳴させてそれを制御するためには、ただ一つしかないメタファーを考え抜いて探すしかない。
便宜的なメタファーなど通じない。だが、それが見つかったときその言葉は強い。頭より身体に染みて、身体が反応する。*1
ストーリーはもういらない。物語もいらない。眠ることで癒されるから。
欲しいのはEXCES。過剰を生み出すコード。
*1 もっともメタファーは言葉だけでなく、写真だったり、モノの組み合わせだったり。非言語メタファーのほうが体に近かったりするが、それを制御するのは難しい。両界曼荼羅とかは口伝教義と絵で、座禅なんかの身体的な酩酊とそれとの組み合わせはヤバそうだ。
なぜ伝播しやすい企業文化と伝播しにくい企業文化があるのか
こないだ『ガイヤの夜明け』を何気なく見てた。
ドン・キホーテの長崎屋買収で、ドンキ側から送り込まれたマネージャーが長崎屋のある店舗の意識改革を行うという場面が。企業文化の違いというのもあるが、いかにも買収された側と買収した側の実力の違いというのが垣間見えた。
いくつかの企業と仕事をするとヌルい会社と熱い会社というのがあって、熱い会社に出会うと自分の会社がどれだけヌルかったのか改めて肌で感じる。そういう会社というのはそれぞれの企業風土が明確で、管理職からヒラ社員まで裸にするとなにか同じものを持っている。ヌルい会社は、裸にしてもただのっぺりとしているだけ。
この違いを感じるのは何故なんだろうと。
強い会社の人と一緒に仕事をしていると、仕事の仕方に明確なコアがあるのがわかる。そういう仕事のコアは実践で伝えられて、言葉ではなかなか伝えられない。いくつかの実践パターンのなかで培われていく。
最初はその実践パターンの多さによってコアが明確になるのかなあとぼんやり思ってたのだが。
『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、 褒めてやらねば人は動かじ』。
強い会社の人たち、彼らは自分たちに対してそれをやってくれる。彼らがお客様であるのにである。ある意味、こっちに手のうちを明かしてくれているのであるが、そういう仕事の態度は、普段その会社で実践されてないと出来ない。
このとき重要なことは与えられる知識ではなくて、与えられる明確な意志なんじゃないかと。
インド人と仕事をしていて思ったのは、文化の違う人に仕事をしてもらうのに知識を与えても無駄骨だということ。※
丸投げなんてもってのほかだが、表面上の知識を与えても出来てくるのはまったく意図しないものだった。埒があかないので、やってみせる。やってみせて初めてこちらの意志が伝達される。それでもまだ思ったものにはならないけれども、それからは意志力の勝負でとにかく意志というのは与え続けなくてはいけない。
コミュニケーションの問題は、言葉ではなく伝える意思の問題だと思う。そのあたり、ボディーランゲージと一緒で、「あ、こいつは必死でなにかを伝えようとしてる」と相手が思ってくれて初めて相手に聞く意思が芽生える。仕事の場合、そこまでやったうえで、後はこちら側の情の問題。イヤな感情は知識なんかよりすぐ相手に伝わる。
名前が覚えられない問題も、企業文化の問題も、どうやら変化とかアバターとかいうチャラチャラしたうわべの考え方でも知識でもなくて、自分にとってはどうやら意志と愛情というのがポイントだったようである。
と無理やりまとめてしまうのである。ははは
※ほんとは知識の奥にある考え方を伝えたい。
そのために、品を変えて教えるのだが、なぜそういう考え方が良いのか、自分でやってその結果を自分で納得しない限り、彼らはいつまでたってもザルのままである。
文化が違う場合、価値観を共有することが一番難しい。しかし、一番のポイントはそこである。
たとえばドンキと長崎屋の場合の商品陳列。ドンキの場合、わざと乱雑に積み上げることで消費者に購買意欲を沸かせる。従来の百貨店やスーパーの場合、5Sが基本。お客さんはキタナイ店には行きたくない。お客さんが自分が欲しいものを目につきやすいようにする。だから通路を迷路のようにするなんていうのはもってのほか。
どこに理をおくのか。なぜそうするのか。どちらにも理はあって、その理は自らの好き嫌いにも直結している。これまでの自らの生き方にも直結する。そういう価値観を変えるのは難しい。
自分がもし長崎屋の社員だったら、売上結果をみないことには納得はしないだろう。売上高と純利益の両方が1か月ですぐに上がるのかというとそうではなかったりもするだろう。
相手の体にそれを染み込ませる。所詮、人間同士のやることだから最後は意地だったりもする。
日本人同士の場合、価値観を共有・共感しやすいのでそれでもまだ納得も早いのだが。。そこを納得させるのもやっぱり意志を見せ続けるしかないように感じる。意志と愛情。それに尽きると。
『よくね、素人の人から「ボクシングとレスリングと空手の中で何が一番強いですか?」って聞かれるけど、本当にその技術をすべて持っている人間が一番強いんだよね』(前田日明)
ドン・キホーテの長崎屋買収で、ドンキ側から送り込まれたマネージャーが長崎屋のある店舗の意識改革を行うという場面が。企業文化の違いというのもあるが、いかにも買収された側と買収した側の実力の違いというのが垣間見えた。
いくつかの企業と仕事をするとヌルい会社と熱い会社というのがあって、熱い会社に出会うと自分の会社がどれだけヌルかったのか改めて肌で感じる。そういう会社というのはそれぞれの企業風土が明確で、管理職からヒラ社員まで裸にするとなにか同じものを持っている。ヌルい会社は、裸にしてもただのっぺりとしているだけ。
この違いを感じるのは何故なんだろうと。
強い会社の人と一緒に仕事をしていると、仕事の仕方に明確なコアがあるのがわかる。そういう仕事のコアは実践で伝えられて、言葉ではなかなか伝えられない。いくつかの実践パターンのなかで培われていく。
最初はその実践パターンの多さによってコアが明確になるのかなあとぼんやり思ってたのだが。
『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、 褒めてやらねば人は動かじ』。
強い会社の人たち、彼らは自分たちに対してそれをやってくれる。彼らがお客様であるのにである。ある意味、こっちに手のうちを明かしてくれているのであるが、そういう仕事の態度は、普段その会社で実践されてないと出来ない。
このとき重要なことは与えられる知識ではなくて、与えられる明確な意志なんじゃないかと。
インド人と仕事をしていて思ったのは、文化の違う人に仕事をしてもらうのに知識を与えても無駄骨だということ。※
丸投げなんてもってのほかだが、表面上の知識を与えても出来てくるのはまったく意図しないものだった。埒があかないので、やってみせる。やってみせて初めてこちらの意志が伝達される。それでもまだ思ったものにはならないけれども、それからは意志力の勝負でとにかく意志というのは与え続けなくてはいけない。
コミュニケーションの問題は、言葉ではなく伝える意思の問題だと思う。そのあたり、ボディーランゲージと一緒で、「あ、こいつは必死でなにかを伝えようとしてる」と相手が思ってくれて初めて相手に聞く意思が芽生える。仕事の場合、そこまでやったうえで、後はこちら側の情の問題。イヤな感情は知識なんかよりすぐ相手に伝わる。
名前が覚えられない問題も、企業文化の問題も、どうやら変化とかアバターとかいうチャラチャラしたうわべの考え方でも知識でもなくて、自分にとってはどうやら意志と愛情というのがポイントだったようである。
と無理やりまとめてしまうのである。ははは

※ほんとは知識の奥にある考え方を伝えたい。
そのために、品を変えて教えるのだが、なぜそういう考え方が良いのか、自分でやってその結果を自分で納得しない限り、彼らはいつまでたってもザルのままである。
文化が違う場合、価値観を共有することが一番難しい。しかし、一番のポイントはそこである。
たとえばドンキと長崎屋の場合の商品陳列。ドンキの場合、わざと乱雑に積み上げることで消費者に購買意欲を沸かせる。従来の百貨店やスーパーの場合、5Sが基本。お客さんはキタナイ店には行きたくない。お客さんが自分が欲しいものを目につきやすいようにする。だから通路を迷路のようにするなんていうのはもってのほか。
どこに理をおくのか。なぜそうするのか。どちらにも理はあって、その理は自らの好き嫌いにも直結している。これまでの自らの生き方にも直結する。そういう価値観を変えるのは難しい。
自分がもし長崎屋の社員だったら、売上結果をみないことには納得はしないだろう。売上高と純利益の両方が1か月ですぐに上がるのかというとそうではなかったりもするだろう。
相手の体にそれを染み込ませる。所詮、人間同士のやることだから最後は意地だったりもする。
日本人同士の場合、価値観を共有・共感しやすいのでそれでもまだ納得も早いのだが。。そこを納得させるのもやっぱり意志を見せ続けるしかないように感じる。意志と愛情。それに尽きると。
『よくね、素人の人から「ボクシングとレスリングと空手の中で何が一番強いですか?」って聞かれるけど、本当にその技術をすべて持っている人間が一番強いんだよね』(前田日明)
人の名前が覚えられない
『人の名前が覚えられない』
『なぜ伝播しやすい企業文化と伝播しにくい企業文化があるのか』
なにか複数の問いが頭にひっかかったとき、自分の場合それらには共通する根本的なポイントがあるらしく。
ブログを書く場合、「その一つ一つをまったく別の話として書き始めて最終的にそれらを統合してある場所へ」という方法をよく使っている。もともと、文章を書く練習のためにこのブログを書いてたのだが、どうやら自分の思考にもそういう傾向があるようで。。なにごとも形にしないとみえてこないものってあるもんですな。それはともかく。。
昨日自分の中で持ち上がったのが上記の2つの問題。
たぶんこれらに共通するキーは、変化すること、あるいはアバターらしいのだけど…
どうして電子レンジとか象とかモノの名前は出てきても、人の名前は出てこないのか。ものを見て「これ、なんて名だっけ?」とか「あの、なんてったけか?電気でお湯を沸かせる、ほら、あの…」ってのはあまりないのである。でも、人の顔を見て、付随する情報は思い出せても、名前に至らない。ものの名前でも固有名詞はダメである。
どうも固有というのが問題らしい。
固有名詞は変化しない。固有だから視覚イメージは一つしかない。それを使う機会も目にする機会も少ない。そういう言葉は覚えにくいようで。
知人の日本語教師の会話をむかーし何気に聞いてた。彼女たち、生徒の名前を覚えなくてはいけないのだが、教師の仲間うちではあだ名で呼んでいるらしい。それが、結構助けになっているようで。
まあ女のコたちなので結構ひどいあだ名で呼んでたりする。で、実際に教室で名前を呼ぶときには、そんな非道な名前で呼べるわけもなく。たまにあだ名しか出てこなくて困ると言っていた。あのね、君たち…
人の名前を覚える方法については、以下のような記事があった。(※丸写しですいません。だってまえにリンク先が消えて備忘録にならなかったことがあったんですよ、しくしく
)
▽人の名前を覚える方法
①会ってからすぐ相手の名前を呼ぶ
挨拶してからすぐに3回以上相手の名前を使うと記憶に定着しやすい。とにかく使いまくる。例えば「○○さんはどう思いますか?」「○○さんってじゃあ、~なんですか?」「○○さん、すごい!」など。
②名前の由来を聞く
挨拶して、相手が珍しい名前の場合、「道明寺ってどの辺りに多い名字なんですか?」や、「親御さんどちらがつけられた名前なんですか?」など、由来やエピソードを聞くことで、脳内シナプスを広げる。
③なんと呼べばいいですか?
相手がどう呼ばれたいかを聞くのもひとつの方法。「あだ名とかありますか?」「なんとお呼びすればよろしいですか?」
④連想する
~漢字や音感から連想するものを口に出していってみる。例えば「古都子」という名前の場合、「京都ご出身なんですか?」など。
⑤名刺の裏にメモ書き(参照:教えて!goo)
いつ、どこで、どんな風に出会った人なのかを状況を含めて自分が覚えやすいように連想的に記憶すると良い。名刺をもらったならその裏に、顔などの外見の特長をメモしておくといい。
記憶をつかさどる海馬の近くに扁桃体というのがある。扁桃体、情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つことがわかっている。学習される出来事の後の情動の喚起は、その出来事の記憶を強める影響を起こす。学習される出来事の後の情動の喚起が強いほど、その人の持つ出来事の記憶の保持が強化される。
シナプス云々というより、その言葉に情動を喚起させるなにものかを与えるというのがより方向として正しいと思える。あだ名なんて、まさにそれだったり。とはいえ、なかなかこれらも使えなかったりするシチュエーションのほうが多い。「こいつ、必死やんけ!」と思われるのも困る状況とか多々あり。やっぱり最後は気合いなのか。
あ、問題は思い出す方法だった!まあ、いいや。もごもご。
文が長くなったので、とりあえず今日はここまで。

『なぜ伝播しやすい企業文化と伝播しにくい企業文化があるのか』
なにか複数の問いが頭にひっかかったとき、自分の場合それらには共通する根本的なポイントがあるらしく。
ブログを書く場合、「その一つ一つをまったく別の話として書き始めて最終的にそれらを統合してある場所へ」という方法をよく使っている。もともと、文章を書く練習のためにこのブログを書いてたのだが、どうやら自分の思考にもそういう傾向があるようで。。なにごとも形にしないとみえてこないものってあるもんですな。それはともかく。。
昨日自分の中で持ち上がったのが上記の2つの問題。
たぶんこれらに共通するキーは、変化すること、あるいはアバターらしいのだけど…
どうして電子レンジとか象とかモノの名前は出てきても、人の名前は出てこないのか。ものを見て「これ、なんて名だっけ?」とか「あの、なんてったけか?電気でお湯を沸かせる、ほら、あの…」ってのはあまりないのである。でも、人の顔を見て、付随する情報は思い出せても、名前に至らない。ものの名前でも固有名詞はダメである。
どうも固有というのが問題らしい。
固有名詞は変化しない。固有だから視覚イメージは一つしかない。それを使う機会も目にする機会も少ない。そういう言葉は覚えにくいようで。
知人の日本語教師の会話をむかーし何気に聞いてた。彼女たち、生徒の名前を覚えなくてはいけないのだが、教師の仲間うちではあだ名で呼んでいるらしい。それが、結構助けになっているようで。
まあ女のコたちなので結構ひどいあだ名で呼んでたりする。で、実際に教室で名前を呼ぶときには、そんな非道な名前で呼べるわけもなく。たまにあだ名しか出てこなくて困ると言っていた。あのね、君たち…

人の名前を覚える方法については、以下のような記事があった。(※丸写しですいません。だってまえにリンク先が消えて備忘録にならなかったことがあったんですよ、しくしく
)▽人の名前を覚える方法
①会ってからすぐ相手の名前を呼ぶ
挨拶してからすぐに3回以上相手の名前を使うと記憶に定着しやすい。とにかく使いまくる。例えば「○○さんはどう思いますか?」「○○さんってじゃあ、~なんですか?」「○○さん、すごい!」など。
②名前の由来を聞く
挨拶して、相手が珍しい名前の場合、「道明寺ってどの辺りに多い名字なんですか?」や、「親御さんどちらがつけられた名前なんですか?」など、由来やエピソードを聞くことで、脳内シナプスを広げる。
③なんと呼べばいいですか?
相手がどう呼ばれたいかを聞くのもひとつの方法。「あだ名とかありますか?」「なんとお呼びすればよろしいですか?」
④連想する
~漢字や音感から連想するものを口に出していってみる。例えば「古都子」という名前の場合、「京都ご出身なんですか?」など。
⑤名刺の裏にメモ書き(参照:教えて!goo)
いつ、どこで、どんな風に出会った人なのかを状況を含めて自分が覚えやすいように連想的に記憶すると良い。名刺をもらったならその裏に、顔などの外見の特長をメモしておくといい。
記憶をつかさどる海馬の近くに扁桃体というのがある。扁桃体、情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つことがわかっている。学習される出来事の後の情動の喚起は、その出来事の記憶を強める影響を起こす。学習される出来事の後の情動の喚起が強いほど、その人の持つ出来事の記憶の保持が強化される。
シナプス云々というより、その言葉に情動を喚起させるなにものかを与えるというのがより方向として正しいと思える。あだ名なんて、まさにそれだったり。とはいえ、なかなかこれらも使えなかったりするシチュエーションのほうが多い。「こいつ、必死やんけ!」と思われるのも困る状況とか多々あり。やっぱり最後は気合いなのか。
あ、問題は思い出す方法だった!まあ、いいや。もごもご。
文が長くなったので、とりあえず今日はここまで。

フランス語講座
かなり馴染んできた。英会話学校の場合、同じクラスでも会う人が違ったりするのだが。
初回からメンツ変わらず、出席率も良く。まあ、フランス語を習おうなんていう人はそうそういないのか。
でも文化教室で習う場合なんかより教室も新しく雰囲気も明るい。
語学学校、やはり教室の新しさや雰囲気は大事である。みなさん、仕事や家事の息抜きも兼ねて来てるからね。今月、ボージョレーヌーボーパーティーなんかもある。とはいえ、まだ喋るも何も、「ありがとう」すらとっさに出てこないレベルだったりするが。
まあ、目的さえしっかり持ってればこのまま行けそうな気がする。
あーほかに書くことないや。今読んでる本。
人を動かす 新装版/デール カーネギー

¥1,575
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ベタな本なのだが、以外と書かれていることをすべて出来ているわけではなかったり。いま、こんな単純な方法論では立ち行かないのだが、基本というのはそうそう変わるものではない。いつのまにか頑固で融通の利かなくなったオヤジへ!って感じの本である。さっそくこの本に書かれているとおりフランス語講座のクラスメイトの名前は覚えた。人はそれを下心丸出しと言う。丸出しですが、何か?
まあでも、この本読むならプレジテント読んでたほうがずっとよい。アソシエ世代はほんとはこういう本読むべきだったりするのにと思うのだが。他人の仕事の仕方をハックしたってたいして身にならなかったりするし。なんて言ってる奴、人はそれをオヤジと言う。オヤジですが、何か? 何か?
やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方/アン・ワイザー コーネル

¥1,890
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カール・ロジャース系の心理学は食わず嫌いで読んでなかったのだが。フォーカシングとは、ある心理状態、たとえば鬱だったり、イライラしてたりするときに自分の体の状態に耳を傾けて(フォーカシング)、その状態と寄り添うことでその状態を解消しようとするメソッド。
感想は、やっぱりアメリカ心理学、日本にそのまま持ってくるにはかなり無理がある感じ。アメリカ人のように自分が感じていることを言葉にして表に出せばそれでなにもかも収まるかというと日本人の場合そうでもないよなあと。でもなにかはあるかもしれない。読み始めたばかりなので感想はまた。
初回からメンツ変わらず、出席率も良く。まあ、フランス語を習おうなんていう人はそうそういないのか。
でも文化教室で習う場合なんかより教室も新しく雰囲気も明るい。
語学学校、やはり教室の新しさや雰囲気は大事である。みなさん、仕事や家事の息抜きも兼ねて来てるからね。今月、ボージョレーヌーボーパーティーなんかもある。とはいえ、まだ喋るも何も、「ありがとう」すらとっさに出てこないレベルだったりするが。
まあ、目的さえしっかり持ってればこのまま行けそうな気がする。
あーほかに書くことないや。今読んでる本。
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ベタな本なのだが、以外と書かれていることをすべて出来ているわけではなかったり。いま、こんな単純な方法論では立ち行かないのだが、基本というのはそうそう変わるものではない。いつのまにか頑固で融通の利かなくなったオヤジへ!って感じの本である。さっそくこの本に書かれているとおりフランス語講座のクラスメイトの名前は覚えた。人はそれを下心丸出しと言う。丸出しですが、何か?
まあでも、この本読むならプレジテント読んでたほうがずっとよい。アソシエ世代はほんとはこういう本読むべきだったりするのにと思うのだが。他人の仕事の仕方をハックしたってたいして身にならなかったりするし。なんて言ってる奴、人はそれをオヤジと言う。オヤジですが、何か? 何か?
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カール・ロジャース系の心理学は食わず嫌いで読んでなかったのだが。フォーカシングとは、ある心理状態、たとえば鬱だったり、イライラしてたりするときに自分の体の状態に耳を傾けて(フォーカシング)、その状態と寄り添うことでその状態を解消しようとするメソッド。
感想は、やっぱりアメリカ心理学、日本にそのまま持ってくるにはかなり無理がある感じ。アメリカ人のように自分が感じていることを言葉にして表に出せばそれでなにもかも収まるかというと日本人の場合そうでもないよなあと。でもなにかはあるかもしれない。読み始めたばかりなので感想はまた。

