未来に先回りする思考法
NHKの日曜美術館を観ていた。
ヒエローニュムス・ボシュの「快楽の園」
見ながら寝落ち。寝落ちしてみた夢は極彩色で秀逸だった。
デフォルメされた天国と地獄。それは、現在のこの世そのものだったという。
NHK『日曜美術館』でウォーホルの言葉を読み解く特集、『「読む」ウォーホル ポップアートの奇才は何を語ったのか』を観ていた。出演は、秋元康、佐藤可士和という豪華な布陣。これこそ、再放送すべきだけれど。
スタートアップ企業に必要なのは度を超えたハッタリなのかもしれない。今の政権を見ていると、ここまで来たのなら、倒れる最後に彼の墓標の文言をそのまま流用してほしい。
僕の墓にはなにも書かないでほしい。
もし入れるなら「全部ウソ」
電通に墓石をプロデュースしてほしいね。
indistinct chatter
起きがけに枕元の本棚から、一冊引っ張り出してページを開く。
そんなふうに占いをする。書いてあることになんらかの自分への暗示があるのではと。それが最近の日課になっている。
今日は向田邦子さんの『眠る盃』。鹿児島感傷旅行の話だった。
数年前に乳がんを患い、入院中のベッドで来し方行く末について考えた。
もし、再発して長く生きられないなら鹿児島へ帰りたい。
どうやら、そのあと書いた『父の詫び状』は、退院してから誰にあてるともつかない、のんきな遺言状のつもりで書いたとか。この本で初めてそんなことについても知る。『父の詫び状』の中にも、父の赴任で子供の頃に過ごした鹿児島のことが随所に出てくる。どうにか仕事をしていて遺言状もなにもないもんだけど、自分の気持ちに踏ん切りをつけるべく、鹿児島に2泊3日の旅をすることにした。そんな書き出しで始まるエッセイである。
あとがきに1979年10月とあり、ふと気がついて不慮の飛行機事故でなくなった日付をみたら、1981年8月22日とあった。
墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」であった(from wikipedia)。
中学生に一度だけ国語を教えたことがある。そのときの教科書の課題は、「字のない葉書」だった。彼女の文章は年を経た大人にしかわからない機微があって、それを掬い取れるのだろうかと思ったのだけど、結果はどうだったっけか。
「字のない葉書」は、『眠る盃』の中に入っている。
安藤忠雄
俺たちは誰もが坂道を歩いている。
ときどき、貰ったサッカーボールの扱いに困って、坂道の上に蹴り上げる。
それを忘れて、また坂道をしばらくすると、
蹴ったつもりのサッカーボールが足元に帰って来る。
そのときにはもうちょっとボールの扱いにも上手くなっているかもしれないし、
また苦労して坂の上に蹴り上げなければならないかもしれない。
NEWSPICKS的なアレ
<ドーネーションについて>
SHOWROOMの前田裕二氏によると、人は絆にお金を払うらしい。
だが、自分からすると絆にお金を払うのは1回だけだ。
ライブの配信とかライブハウスのドーネーション。
自分の生活の範囲で、絆にお金を払うのは1回だけ。
それ以降は、時価の、直の感動にしかお金は払わない。
<メモの魔力>
メモの魔力を読んだ。
自分の棚卸しをすることが前半部分で、後半はメモを取ることの効用について。
前半については、よくある自己啓発本より、前田氏が実際に自分がやったこととしてわかりやすいし、納得できる。
後半については、社会人なら議事録をとるとき、抽象化したり、そこから具体的にアクションアイテムまで落とし込んだりしているので、今さらな話である。具体性、つまり実現に至るまでの道筋が見えるところまで、さらにはそこからアクションアイテムにまで落とし込む。それがないと「転用」などというものに意味などない。
モチベーションは貯金できない。メモに書くぐらいなら、そのモチベーションをすぐ自分の作業へ落とし込むことをしなければ、絵に描いた餅、メモに書いた餅でしかない。
<モノヅクリについて>
製品というのは、それを使用し続けることで価値を維持しつづけられる。
形があるからわかりづらいが、物が提供するのはモノそれ自身ではない。
物が提供しつづけるサービスに対してお金を払っている。
モノヅクリという神話などとっくの昔にハリボテのように突き倒されている。
<サービスについて>
自分に時間をくれるもの、自分に快楽をくれるもの。
時間はその空いた時間で自分に快楽をくれる可能性であって、信用のようなものであり、快楽からすると、2次的なものである。だが、この可能性というのが、一番の曲者であって、実態がないだけ、博打の要素がある。人はこの博打というのが大好きで、それは0から無限大の値を持っている。快楽は推し量れる。だが、時間はその価値が推し量れない。
なお、時間を殺すものに対しても、人はお金を払っていると思う人もいるが、その時の殺された時間は快楽に置き換えられている。
答は見えている。


