成功の掟?
子供のころ、くじ運がよくて大人になってからはさほどという人がいる。
子供のころ、くじ運が悪くて大人になってからは意外とという人がいる。
なぜかわからない。
統計とってしらべたわけでもないし。
気のせいなのかもしれない。
これについてはまだよくわからない。
子供の頃、小学校の校庭にはよく小銭が落ちていた。
それを職員室にもっていく。
全校集会で毎年それをみつけた人に返す儀式があった。
平和な時代。
多く貰える人は毎年だいたい決まっていた。
山へわらび取りやぜんまい取りに行く。
あるいはタケノコ取りやきのこ取りに行く。
ばあちゃんはやたら上手かった。
父や叔母より叔父のほうが多くみつける。
ないところにはない。
生える場所はだいたい決まっている。
鉄棒のそばに小銭は落ちていることが多い。
祭りや運動会の後とか。
成功の経験が多い人、
そっちのほうが等比級数的に能力が加速する。
経験値があがると報酬系の回路が開き易くなるのだろうか。
法則が見えてくる。
1つや2つの成功例を分析してもわからない。
ただそれも経験知の世界。
分析を成功に結び付けた経験値が多い人ほど…
ってのもあるのかも…。
でも、なんかやっぱり分析うんぬんより、報酬系の回路が問題のような気がする。
むむぅ
一生の間続く「いい気分」。
というエッセイが『案外、買い物好き』(村上龍)の中にあって。
若いF1ドライバーに女のコとデートしたり羽目を外したりしたくはないのかと尋ねる龍氏。
F1ドライバーは、「女のコとデートするのも楽しいけれど、どれだけその気分が続くのかというとよくわかりません。それより、レースでいいタイムを出すと有頂天になるし、それを考えると、もしグランプリで、さらに年間チャンピオンになったらと想像するとどんなにすごい気分になるのかと。これさえ達成したら、喜びや、いい気分が一生続く、というような何かをやり遂げたいと思うんですよ」と。
まあ、それもどうかと思うけど、
報酬系が開きっぱなしで、ジャンジャンバラバラ、ジャンジャンバラバラ(←死語)。
そういう状態っていうのがどこかにあるような気がして。
どうもそう思える。というか思いたい。
いや、やはりそうに違いない!!!
そうに決まったあぁぁぁ!!!!!!!!!
楽しくハードワーク。でも、やっぱり、どこかに昏さのスパイスは必要だと思う。そんな簡単な話だと面白くもないしね。
<備忘録>
Wikipediaより 報酬系について
報酬系とは、ヒト・動物の脳において、欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことである。
ここでいう欲求には、喉の渇き・食欲・体温調整欲求といった生物学的で短期的なものから、他者に誉められること・愛されること・子供の養育など、より高次で社会的・長期的なものまで含まれる。認知心理学者は、ヒトにおいてはむしろ後者の欲求の方が、行動の決定に重要な役割を果たしていると主張している。
報酬系の働きは、学習や環境への適応において重要な役割を果たしている。例えば我々は、「この仕事を完了したらボーナスがもらえる」などと、長期的な報酬を予測することで、疲労や空腹といった短期的欲求を抑えて仕事を優先できる。しかし当てにしていたボーナスがカットされると、報酬系が抑制され、不快さを感じるのである。また、報酬系神経系の働きが、大脳皮質の可塑性に影響するという報告もあり、学習においても同様に報酬系が重要である。「誉めて育てる」という言葉はこのことを言い得ている。
報酬系が活性化するのは、必ずしも欲求が満たされたときだけではなく、報酬を得ることを期待して行動をしている時にも活性化する。例えば、喉が渇いているヒトが水を飲んだときには、脳内で報酬系が活性化し快の感覚を感じる。しかし、ヒトであれば歩いている途中に自動販売機を見つけた場合、その時点で水分が飲めることが当然推測できるので、見つけた時点で報酬系が活性化している。これに似たような実験をシュルツら(1993)がサルにおいて行っている。彼らは、ある視覚刺激を呈示して数秒後にエサが出てくるという装置を作り、サルをそれに馴れさせた。同時に中脳のドパミン系細胞に電極を挿入し活動を記録したところ、実験初期にはエサが出てきた時点で細胞が活性化していたが、実験に馴れて来ると、視覚刺激が呈示された時点で神経活動が活性化していた。
子供のころ、くじ運が悪くて大人になってからは意外とという人がいる。
なぜかわからない。
統計とってしらべたわけでもないし。
気のせいなのかもしれない。
これについてはまだよくわからない。
子供の頃、小学校の校庭にはよく小銭が落ちていた。
それを職員室にもっていく。
全校集会で毎年それをみつけた人に返す儀式があった。
平和な時代。
多く貰える人は毎年だいたい決まっていた。
山へわらび取りやぜんまい取りに行く。
あるいはタケノコ取りやきのこ取りに行く。
ばあちゃんはやたら上手かった。
父や叔母より叔父のほうが多くみつける。
ないところにはない。
生える場所はだいたい決まっている。
鉄棒のそばに小銭は落ちていることが多い。
祭りや運動会の後とか。
成功の経験が多い人、
そっちのほうが等比級数的に能力が加速する。
経験値があがると報酬系の回路が開き易くなるのだろうか。
法則が見えてくる。
1つや2つの成功例を分析してもわからない。
ただそれも経験知の世界。
分析を成功に結び付けた経験値が多い人ほど…
ってのもあるのかも…。
でも、なんかやっぱり分析うんぬんより、報酬系の回路が問題のような気がする。
むむぅ

一生の間続く「いい気分」。
というエッセイが『案外、買い物好き』(村上龍)の中にあって。
若いF1ドライバーに女のコとデートしたり羽目を外したりしたくはないのかと尋ねる龍氏。
F1ドライバーは、「女のコとデートするのも楽しいけれど、どれだけその気分が続くのかというとよくわかりません。それより、レースでいいタイムを出すと有頂天になるし、それを考えると、もしグランプリで、さらに年間チャンピオンになったらと想像するとどんなにすごい気分になるのかと。これさえ達成したら、喜びや、いい気分が一生続く、というような何かをやり遂げたいと思うんですよ」と。
まあ、それもどうかと思うけど、
報酬系が開きっぱなしで、ジャンジャンバラバラ、ジャンジャンバラバラ(←死語)。
そういう状態っていうのがどこかにあるような気がして。
どうもそう思える。というか思いたい。
いや、やはりそうに違いない!!!
そうに決まったあぁぁぁ!!!!!!!!!
楽しくハードワーク。でも、やっぱり、どこかに昏さのスパイスは必要だと思う。そんな簡単な話だと面白くもないしね。
<備忘録>
Wikipediaより 報酬系について
報酬系とは、ヒト・動物の脳において、欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことである。
ここでいう欲求には、喉の渇き・食欲・体温調整欲求といった生物学的で短期的なものから、他者に誉められること・愛されること・子供の養育など、より高次で社会的・長期的なものまで含まれる。認知心理学者は、ヒトにおいてはむしろ後者の欲求の方が、行動の決定に重要な役割を果たしていると主張している。
報酬系の働きは、学習や環境への適応において重要な役割を果たしている。例えば我々は、「この仕事を完了したらボーナスがもらえる」などと、長期的な報酬を予測することで、疲労や空腹といった短期的欲求を抑えて仕事を優先できる。しかし当てにしていたボーナスがカットされると、報酬系が抑制され、不快さを感じるのである。また、報酬系神経系の働きが、大脳皮質の可塑性に影響するという報告もあり、学習においても同様に報酬系が重要である。「誉めて育てる」という言葉はこのことを言い得ている。
報酬系が活性化するのは、必ずしも欲求が満たされたときだけではなく、報酬を得ることを期待して行動をしている時にも活性化する。例えば、喉が渇いているヒトが水を飲んだときには、脳内で報酬系が活性化し快の感覚を感じる。しかし、ヒトであれば歩いている途中に自動販売機を見つけた場合、その時点で水分が飲めることが当然推測できるので、見つけた時点で報酬系が活性化している。これに似たような実験をシュルツら(1993)がサルにおいて行っている。彼らは、ある視覚刺激を呈示して数秒後にエサが出てくるという装置を作り、サルをそれに馴れさせた。同時に中脳のドパミン系細胞に電極を挿入し活動を記録したところ、実験初期にはエサが出てきた時点で細胞が活性化していたが、実験に馴れて来ると、視覚刺激が呈示された時点で神経活動が活性化していた。
Love Wisdom Triennale
あいちトリエンナーレ。
名古屋市美術館に行った。
現代美術。
ものの見方なのだ。
それをどう自分が発見するのか。
そういう宝さがし。
ものの見え方を楽しむ。
発見。
その目で今度は日常の風景を見つめる。
あらたな発見。
なのだけど、ちょい待てよと。
その作品の存在する、それを見ている現場。
そこで結論を出していいのだろうかという疑問。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花かと、思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。(from 美を求める心@『考えるヒント3』小林秀雄)
理解するとそこで止まってしまう。
ほんとによい作品は、違和感をもっている。
そんな気がする。
すぐに解決できないような。
言葉で言い表せないような。
前も書いたけど
例えば村上龍氏が芥川賞の選考をするときに彼が重きを置いている価値観
読み物でない小説、文学っていうのは、書き手よりも書き手が伝えようとしているものが、こう大きいというか深いっていうか、コントロールできないもんなんですよね。コントロールできるなら一言で言えばいいわけだから、スローガンみたいにして。言えないってことは、自分では掴んではいるけれどなかなか短い言葉にはできないものなんですよ。
中上健次は「獰猛な異物」とよく言ってたけど、自分でもどうしていいかわからないような、あるなにかに対する思いだったり…
記憶の残照。
そういうのって、読者や観客の中にそういう形で残る。
ふと気付くとそこだけ日が当たる感じで記憶に残っている。
あるいは逆に記憶の中で暗く瞬いている。
ずうっと頭の片隅のどこかにある。
ふとした拍子に思い出したりする。
閑話休題。
プライミングというのは、例えばなにかを度忘れしたとき、その場所へ戻ってみると思いだすことがある。そういうことも言うのだけれど、『先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況』を言うらしく。
例えば「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」、「あかひげ」などという言葉の読みが、「富士山」や「帰郷」という言葉の読みよりも早くなることを言うそうで…。
面白いのが、多くの場合、その効果が無意識的であるということ。
また、かなりの長期間(例えば1年間)にわたりその効果が持続するらしい。
そして、先行する事柄には、単語、絵、音などがありうると。
違和感というのは、不思議な磁力を記憶の中で持っている。
コンプレックスと同じで、それに関係する感情値をもったものを引き寄せる。
いつの間にか、無意識の中でそれは複合体(complex)を作る。
その導火線に火がつくときがある。
セレンディピティ(英語:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉だとのこと。
心の中に、そういう無意識の違和感っていうか、暗黙の記憶の残照みたいなものを多く持っている人が、セレンディピティの素養がある人のように最近よく思う。
まあそれだけではないのだろうけれど…
名古屋市美術館に行った。
現代美術。
ものの見方なのだ。
それをどう自分が発見するのか。
そういう宝さがし。
ものの見え方を楽しむ。
発見。
その目で今度は日常の風景を見つめる。
あらたな発見。
なのだけど、ちょい待てよと。
その作品の存在する、それを見ている現場。
そこで結論を出していいのだろうかという疑問。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花かと、思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。(from 美を求める心@『考えるヒント3』小林秀雄)
理解するとそこで止まってしまう。
ほんとによい作品は、違和感をもっている。
そんな気がする。
すぐに解決できないような。
言葉で言い表せないような。
前も書いたけど
例えば村上龍氏が芥川賞の選考をするときに彼が重きを置いている価値観
読み物でない小説、文学っていうのは、書き手よりも書き手が伝えようとしているものが、こう大きいというか深いっていうか、コントロールできないもんなんですよね。コントロールできるなら一言で言えばいいわけだから、スローガンみたいにして。言えないってことは、自分では掴んではいるけれどなかなか短い言葉にはできないものなんですよ。
中上健次は「獰猛な異物」とよく言ってたけど、自分でもどうしていいかわからないような、あるなにかに対する思いだったり…
記憶の残照。
そういうのって、読者や観客の中にそういう形で残る。
ふと気付くとそこだけ日が当たる感じで記憶に残っている。
あるいは逆に記憶の中で暗く瞬いている。
ずうっと頭の片隅のどこかにある。
ふとした拍子に思い出したりする。
閑話休題。
プライミングというのは、例えばなにかを度忘れしたとき、その場所へ戻ってみると思いだすことがある。そういうことも言うのだけれど、『先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況』を言うらしく。
例えば「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」、「あかひげ」などという言葉の読みが、「富士山」や「帰郷」という言葉の読みよりも早くなることを言うそうで…。
面白いのが、多くの場合、その効果が無意識的であるということ。
また、かなりの長期間(例えば1年間)にわたりその効果が持続するらしい。
そして、先行する事柄には、単語、絵、音などがありうると。
違和感というのは、不思議な磁力を記憶の中で持っている。
コンプレックスと同じで、それに関係する感情値をもったものを引き寄せる。
いつの間にか、無意識の中でそれは複合体(complex)を作る。
その導火線に火がつくときがある。
セレンディピティ(英語:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉だとのこと。
心の中に、そういう無意識の違和感っていうか、暗黙の記憶の残照みたいなものを多く持っている人が、セレンディピティの素養がある人のように最近よく思う。
まあそれだけではないのだろうけれど…
『ねにもつタイプ』 岸本佐知子
自分の本棚に並んでいる本はだいたい出自がわかる。
「この本は村上春樹関係」とか「これは友だちの誰それから薦められて」とか。
この本だけ出自がわからない。
ネットでいろんな人のブログを見たりしているうちに、ネットサーフィンに嵌り込み、知らないうちにアマゾンのカートに入っていて…
まあ、いいやと買ってしまった。

『ねにもつタイプ』。(リンク先、笑える!)
これ、ちょっとツボってしまった。
作者の岸本さん、翻訳家でJ・アーヴィングなんかを訳してたりする。村上春樹から?とおもって関連する方々のブログを検索してみたがそれらしい記事はなし。
うーむ。しかし、なんでカートに入れたんだっけ?
なんていう日常に起こるなぞから妄想を炸裂させていく感じのエッセイ。
シャンプーとリンスを買う。シャンプーとリンスの容器はとてもよく似ていて間違いやすいので、同じものを買わないように、何度も何度も確かめてからレジに向かう。間違いない、確かにシャンプーとリンスだ。夜、まず髪をシャンプーし、ついでにリンスを髪にすりつける。やたら、泡が立つ。ボトルを確かめる。シャンプーだ。誓ってもいい、買う時には絶対にシャンプーとリンスだったのだ。なのに目の前のボトルはシャンプーとシャンプーに変わっている。(『フェアリーランドの陰謀』より)
とか。
最近、気がつくといつも一つのことを考えている。
なにかといえば、それは「ちょんまげ」のことだ。
とか
そして、コアラの鼻の材質。なんとなく、昔の椅子の脚の先にかぶせてあった黒いゴムのカバーに似ている気がする。触ったらどんな感じだろう。
とか。
始終そんなふうに思考が脱線していて、「この人翻訳の仕事は進むのだろうか?」とみょーな心配をしてしまう。
どこか、筒井康隆チックな人だなあと思ったら、
『中学3年生のとき筒井康隆の作品を知り、「読む前と後とで人生が変わるくらいの衝撃」を受けた』
そうで…。あー、自分と一緒だと親近感。
第23回講談社エッセイ賞受賞。
「へー、そんな賞があるんだー」と思って調べてみた。
やっぱりどこかマイナーな感じで、蛇の道は蛇な感じの作家の方々。正直、知らない人が多い。
作品に至ってはまったく読んだことはない。
うーむ、エッセイの世界も奥深い。
「この本は村上春樹関係」とか「これは友だちの誰それから薦められて」とか。
この本だけ出自がわからない。
ネットでいろんな人のブログを見たりしているうちに、ネットサーフィンに嵌り込み、知らないうちにアマゾンのカートに入っていて…
まあ、いいやと買ってしまった。
『ねにもつタイプ』。(リンク先、笑える!)
これ、ちょっとツボってしまった。
作者の岸本さん、翻訳家でJ・アーヴィングなんかを訳してたりする。村上春樹から?とおもって関連する方々のブログを検索してみたがそれらしい記事はなし。
うーむ。しかし、なんでカートに入れたんだっけ?
なんていう日常に起こるなぞから妄想を炸裂させていく感じのエッセイ。
シャンプーとリンスを買う。シャンプーとリンスの容器はとてもよく似ていて間違いやすいので、同じものを買わないように、何度も何度も確かめてからレジに向かう。間違いない、確かにシャンプーとリンスだ。夜、まず髪をシャンプーし、ついでにリンスを髪にすりつける。やたら、泡が立つ。ボトルを確かめる。シャンプーだ。誓ってもいい、買う時には絶対にシャンプーとリンスだったのだ。なのに目の前のボトルはシャンプーとシャンプーに変わっている。(『フェアリーランドの陰謀』より)
とか。
最近、気がつくといつも一つのことを考えている。
なにかといえば、それは「ちょんまげ」のことだ。
とか
そして、コアラの鼻の材質。なんとなく、昔の椅子の脚の先にかぶせてあった黒いゴムのカバーに似ている気がする。触ったらどんな感じだろう。
とか。
始終そんなふうに思考が脱線していて、「この人翻訳の仕事は進むのだろうか?」とみょーな心配をしてしまう。
どこか、筒井康隆チックな人だなあと思ったら、
『中学3年生のとき筒井康隆の作品を知り、「読む前と後とで人生が変わるくらいの衝撃」を受けた』
そうで…。あー、自分と一緒だと親近感。
第23回講談社エッセイ賞受賞。
「へー、そんな賞があるんだー」と思って調べてみた。
やっぱりどこかマイナーな感じで、蛇の道は蛇な感じの作家の方々。正直、知らない人が多い。
作品に至ってはまったく読んだことはない。
うーむ、エッセイの世界も奥深い。
バコ国立公園
『パーフェクト・ゲッタウェイ』

ジョヴォヴィッチ。。
ハワイでトレッキング。楽しそうだ。
そうだ、外人ってトレッキングが好きなのだと。
そういや、不思議なことにインド人もけっこう好きらしく。
不思議っていったらなんなんだけど。
前にいた会社で、オンサイトで来てたコも、
「来週、富士山に登るつもり」とか言ってて。
「オー、アイブビーンゼア。イットワズナイス!」
とか言ってみたかったが、生まれてこの方富士山なんぞ登ったことなどない。
そんなアウトドアなんぞしたことない人間でも、海外の島なぞに行くとトレッキングしたくなるから不思議なものだ。
今年の夏はどこへも行かなかったなあと。
そして、またもや反芻が始まるのである。
ボルネオ島サラワク州。
クチンから

まずバスに乗り、バコの村へ。

バコの船着き場から、バコ国立公園行きの乗合船に乗って

海辺で船を降りる。
靴脱いで、裸足で海に入る。
どぼーん。ピチャピチャ。
え?どうやってここから帰るの?
謎は深まる。とにかく、迎えに来てくれるらしい。
バコ国立公園内のヘッドクオーターへ。
ヒゲイノシシ?がお出迎えしてくれた。イノくん、さしんはなし。

ヘッドクォータ内のロケーションははこんな感じ。

地図はこんなの。

帰りの船の時間があるので、どこまで行けるかわからないけど。
後ろを振り返るとこんな感じの海岸線。
しばらく海沿いをテクテク歩く。

で、山の中へ入っていく。
途中、こんな感じの場所やら

矢印あり。国立公園内だけど直書き。
うーん、アジア。
「うわっ、ウツボカズラじゃん!!!」

っていうのを眺めながら、テクテク。

こんな滝を跨ぎつつ。
外人が足を洗ってたのでマネして水場で足を洗ったり。
気持ちいーい。

歩いてたのだが、サルとか全然見つからず。
おらんなー、生ザル。
歩くのも飽きてきたので海岸へ降りてみた。
誰もいない。ポッツーン。さびしーい。
っていうか、ほんと誰もいないし、誰もこない。
オーイ。
しばらく、孤独に浸って遊ぶ。
なんも変化なし。戻ろ。
帰り路、すごいスピードで駆け抜ける外人のカップル。はえー。
奴らのトレッキングスピードったらない。
一緒の船で来てたはずだったが、どこまで行ってきたのだろう。
ヘッドクォーターでシャワーを浴びて、チキンライスを食べて、
船着き場へ。潮は満潮になっていた。
来たときは、浜辺の砂の上に降り立ったのだけど、帰りは桟橋から。

船を待つ間、あたりを散歩する。
ボードウォークから見てたら猿がいた。
そう、彼らは水場に近いところにいるのだ。
どうりで山で見ないわけだ。

船に乗って帰る。緑が綺麗。
このあたりは、奇岩が多くてそれも見ドコロなのだが、遠かったので写真はなし。
太陽の光を浴びながら、滑るように走る船。
風が気持ちいい。
バコ国立公園
クチンから北へバスで1時間ほど、バコの村まで行きます。
公園は、Muara Tebas半島の北端に位置します。アクセスはコーチもしくはボート。
バコの船着き場から乗合ボートにのってヘッドクォーターまで30分くらい。
ジョヴォヴィッチ。。
ハワイでトレッキング。楽しそうだ。
そうだ、外人ってトレッキングが好きなのだと。
そういや、不思議なことにインド人もけっこう好きらしく。
不思議っていったらなんなんだけど。
前にいた会社で、オンサイトで来てたコも、
「来週、富士山に登るつもり」とか言ってて。
「オー、アイブビーンゼア。イットワズナイス!」
とか言ってみたかったが、生まれてこの方富士山なんぞ登ったことなどない。
そんなアウトドアなんぞしたことない人間でも、海外の島なぞに行くとトレッキングしたくなるから不思議なものだ。
今年の夏はどこへも行かなかったなあと。
そして、またもや反芻が始まるのである。
ボルネオ島サラワク州。
クチンから

まずバスに乗り、バコの村へ。

バコの船着き場から、バコ国立公園行きの乗合船に乗って

海辺で船を降りる。
靴脱いで、裸足で海に入る。
どぼーん。ピチャピチャ。
え?どうやってここから帰るの?
謎は深まる。とにかく、迎えに来てくれるらしい。
バコ国立公園内のヘッドクオーターへ。
ヒゲイノシシ?がお出迎えしてくれた。イノくん、さしんはなし。

ヘッドクォータ内のロケーションははこんな感じ。

地図はこんなの。

帰りの船の時間があるので、どこまで行けるかわからないけど。
後ろを振り返るとこんな感じの海岸線。
しばらく海沿いをテクテク歩く。

で、山の中へ入っていく。
途中、こんな感じの場所やら

矢印あり。国立公園内だけど直書き。
うーん、アジア。
「うわっ、ウツボカズラじゃん!!!」

っていうのを眺めながら、テクテク。

こんな滝を跨ぎつつ。
外人が足を洗ってたのでマネして水場で足を洗ったり。
気持ちいーい。

歩いてたのだが、サルとか全然見つからず。
おらんなー、生ザル。
歩くのも飽きてきたので海岸へ降りてみた。
誰もいない。ポッツーン。さびしーい。
っていうか、ほんと誰もいないし、誰もこない。
オーイ。
しばらく、孤独に浸って遊ぶ。
なんも変化なし。戻ろ。
帰り路、すごいスピードで駆け抜ける外人のカップル。はえー。
奴らのトレッキングスピードったらない。
一緒の船で来てたはずだったが、どこまで行ってきたのだろう。
ヘッドクォーターでシャワーを浴びて、チキンライスを食べて、
船着き場へ。潮は満潮になっていた。
来たときは、浜辺の砂の上に降り立ったのだけど、帰りは桟橋から。

船を待つ間、あたりを散歩する。
ボードウォークから見てたら猿がいた。
そう、彼らは水場に近いところにいるのだ。
どうりで山で見ないわけだ。

船に乗って帰る。緑が綺麗。
このあたりは、奇岩が多くてそれも見ドコロなのだが、遠かったので写真はなし。
太陽の光を浴びながら、滑るように走る船。
風が気持ちいい。
バコ国立公園
クチンから北へバスで1時間ほど、バコの村まで行きます。
公園は、Muara Tebas半島の北端に位置します。アクセスはコーチもしくはボート。
バコの船着き場から乗合ボートにのってヘッドクォーターまで30分くらい。
…てか、俺の問題はモチベーション
よく忘れるのは、今の自分の判断がトライアル・エラーの結果だということで。
その判断結果をまだ山を超えてない人に与えてもまったく意味がない。
トライアル・エラーの本質は、トライアル・エラーを経験することにあって、結果ではない。
だから、放っておけと。
けど、動き癖をつけておかないと、手をださなければいけないときに動けない。
それがホント難しい。じじいになるのはイヤだな。
ていうか、人をどうこうしようという考えがあると、結局自分が動けなくなる。
そっちのほうがさらに忘れやすいことだったりする。
忘れてるわー、オレ。
その判断結果をまだ山を超えてない人に与えてもまったく意味がない。
トライアル・エラーの本質は、トライアル・エラーを経験することにあって、結果ではない。
だから、放っておけと。
けど、動き癖をつけておかないと、手をださなければいけないときに動けない。
それがホント難しい。じじいになるのはイヤだな。
ていうか、人をどうこうしようという考えがあると、結局自分が動けなくなる。
そっちのほうがさらに忘れやすいことだったりする。
忘れてるわー、オレ。