『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
他人の背中を押すことは上手でも、自分を勇気づけることは下手である。
というYANA氏の言葉がずっと突き刺さっていて。。
突き刺さるってことは当然いいことなのだ。
いまごろ、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んでいる。

この本がなぜ売れたのかわかるような気がした。いま格闘中。
顧客は自分自身であると置き換えてノートにまとめながら。自分を追求しながら。かなりしんどい。それをしているときはどこかで充実している。けど本当は早く終えたいとそればかり考えている。
たぶん最初にそれをせずに仕事にあてはめても…っていうか。。自分の場合は特に。
それがこの本が売れた本当の原因であり、自分にとっての意味のような気が。
他人のあらさがしは上手でも、自分のあらさがしは下手である。
そしてやはり最初の言葉へ戻る。勇気を持つってことはたいへんだ。
人は自分自身を幸せにする責任がある。
まずそこから始めてみようと。
というYANA氏の言葉がずっと突き刺さっていて。。
突き刺さるってことは当然いいことなのだ。
いまごろ、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読んでいる。

この本がなぜ売れたのかわかるような気がした。いま格闘中。
顧客は自分自身であると置き換えてノートにまとめながら。自分を追求しながら。かなりしんどい。それをしているときはどこかで充実している。けど本当は早く終えたいとそればかり考えている。
たぶん最初にそれをせずに仕事にあてはめても…っていうか。。自分の場合は特に。
それがこの本が売れた本当の原因であり、自分にとっての意味のような気が。
他人のあらさがしは上手でも、自分のあらさがしは下手である。
そしてやはり最初の言葉へ戻る。勇気を持つってことはたいへんだ。
人は自分自身を幸せにする責任がある。
まずそこから始めてみようと。
ジングルベルを鳴らせ!
大阪だったり東京だったりから遠征してやって来てたり。
そんな土曜。すごいねえ、みんな。
そんな根っからのファンの人たちと比べたら屁みたいな根性なしで名古屋にしか行けてないっす。すんまそん。
というわけで、ジングルベルを鳴らしてきたぜ!!!
新宿心音会板谷祐と高木フトシとCITTA'の唄宴×7
~ジングルベルを鳴らせ!!~

場所は、池下CLUB UPSET。
受付で振り向いたら山盛りのポテトの皿を持ったタスクちゃんが
「メリークリスマス!!」
どうも、ポテト揚げ係だったようで。フトシくんは乾き物係。
シンガーだろうが、容赦なく使う池下UPSET中井さん。
今日はフード付きだったのです。大判振る舞い!!!
ホールのチキンやら、ピザやら、おでん。フライドポテト、名古屋名物の手羽先、サラダなどなど。おまけに最後はでかいケーキ。
すげえ。すげえよ!!!
そして、各テーブルにはキャンドルがぁぁぁぁーーー。
クリスマスらしい飾り付けとライティングで。
素晴らしいーーー
そんな中で始まったMC。タスクちゃんとフトシくんの掛け合い漫才的な何か。笑
ていうか、この実は照れ屋の二人がシラフではできないよなあとおもったらやはり既に二人でシャンパン一本空けていたらしい。ウケル!あ、このあとだっけ、シャンパン空けてたの?
まあいいや
なんて楽しいMerry Christmas!!!
そしてハードル上げるだけ上げて、オープニングアクトのイケダツカサくんに渡す。ツカサくんにはいい迷惑である。やりにくー。
まあ、そんな先輩は運命と思ってあきらめるしかないな。
そして、タスクちゃん、フトシくんと続く。
いや、楽しかったですわ。
一人で家にいたら、こんなクリスマスは味わえなかったし。
タスクちゃんは、LC33とかスラットのパンデミックとか。
タスクちゃんにしろ、フトシくんにしろ、音源は一枚も持ってない。
ライブで聴きはじめたので、ライブ以上のものを音源に見出せないというか。
この二人は特に根っからの唄うたいだし。
板谷祐氏の歌声はなんだろう?マッチ売りの少女のマッチの炎を見ている感じ?
その炎の中に見える何かをずっと見ていたいのだけど、それは陽炎のように儚く消えてしまう。なので、次、その次と揺らめく炎を覗きこむように揺らめく声の行方を確かめようとする。だが、いつかマッチに終わりがくるのをどこかで予感している。
そんな感じがCDで伝わるわけがない。
高木フトシ氏の歌声はあふれる感情かな。ほとばしったり、たゆたったりしてるのだが、やはりそれも生き物で。とはいえ、もうすでにいろいろSOLD OUTしてしまっていて。『Kill out/Room's』も。おいおい。。あのイノセントはもう聴けないのか?これはヤバイ、もういいかげん買うしかなかろうと今頃買ったのがこの一枚。

物販でフトシくんに「ひまわり下さい」といったが通じなかった笑。
そばにいたファンの人がすぐ反応して探してくれた。ありがとうおぉー。
中身はこんな感じ。

なにかが流通に乗るといってたのだが、次のアルバムとか言ってたのだっけ?iTunesでもダウンロードできるようになるとのこと。
今年の2月くらいから、ずーっと『Innocent』聴きたかったのだが、思ってもいない僥倖。今日聴けた。あとやはりこれも冬には聴きたくなる『EisWein Song』。
ホクホクである。
そんな土曜。すごいねえ、みんな。
そんな根っからのファンの人たちと比べたら屁みたいな根性なしで名古屋にしか行けてないっす。すんまそん。
というわけで、ジングルベルを鳴らしてきたぜ!!!
新宿心音会板谷祐と高木フトシとCITTA'の唄宴×7
~ジングルベルを鳴らせ!!~

場所は、池下CLUB UPSET。
受付で振り向いたら山盛りのポテトの皿を持ったタスクちゃんが
「メリークリスマス!!」
どうも、ポテト揚げ係だったようで。フトシくんは乾き物係。
シンガーだろうが、容赦なく使う池下UPSET中井さん。
今日はフード付きだったのです。大判振る舞い!!!
ホールのチキンやら、ピザやら、おでん。フライドポテト、名古屋名物の手羽先、サラダなどなど。おまけに最後はでかいケーキ。
すげえ。すげえよ!!!
そして、各テーブルにはキャンドルがぁぁぁぁーーー。
クリスマスらしい飾り付けとライティングで。
素晴らしいーーー
そんな中で始まったMC。タスクちゃんとフトシくんの掛け合い漫才的な何か。笑
ていうか、この実は照れ屋の二人がシラフではできないよなあとおもったらやはり既に二人でシャンパン一本空けていたらしい。ウケル!あ、このあとだっけ、シャンパン空けてたの?
まあいいや
なんて楽しいMerry Christmas!!!
そしてハードル上げるだけ上げて、オープニングアクトのイケダツカサくんに渡す。ツカサくんにはいい迷惑である。やりにくー。
まあ、そんな先輩は運命と思ってあきらめるしかないな。
そして、タスクちゃん、フトシくんと続く。
いや、楽しかったですわ。
一人で家にいたら、こんなクリスマスは味わえなかったし。
タスクちゃんは、LC33とかスラットのパンデミックとか。
タスクちゃんにしろ、フトシくんにしろ、音源は一枚も持ってない。
ライブで聴きはじめたので、ライブ以上のものを音源に見出せないというか。
この二人は特に根っからの唄うたいだし。
板谷祐氏の歌声はなんだろう?マッチ売りの少女のマッチの炎を見ている感じ?
その炎の中に見える何かをずっと見ていたいのだけど、それは陽炎のように儚く消えてしまう。なので、次、その次と揺らめく炎を覗きこむように揺らめく声の行方を確かめようとする。だが、いつかマッチに終わりがくるのをどこかで予感している。
そんな感じがCDで伝わるわけがない。
高木フトシ氏の歌声はあふれる感情かな。ほとばしったり、たゆたったりしてるのだが、やはりそれも生き物で。とはいえ、もうすでにいろいろSOLD OUTしてしまっていて。『Kill out/Room's』も。おいおい。。あのイノセントはもう聴けないのか?これはヤバイ、もういいかげん買うしかなかろうと今頃買ったのがこの一枚。

物販でフトシくんに「ひまわり下さい」といったが通じなかった笑。
そばにいたファンの人がすぐ反応して探してくれた。ありがとうおぉー。
中身はこんな感じ。

なにかが流通に乗るといってたのだが、次のアルバムとか言ってたのだっけ?iTunesでもダウンロードできるようになるとのこと。
今年の2月くらいから、ずーっと『Innocent』聴きたかったのだが、思ってもいない僥倖。今日聴けた。あとやはりこれも冬には聴きたくなる『EisWein Song』。
ホクホクである。
『1973年のピンボール』
以下の文は『1973年のピンボール』の結末の核心に触れるので、小説を読んだことのない人はご注意くだされ。
映画『ノルウェイの森』の結末を観て、「あっ!」とおもったことがもう一つある。
この映画を観るまで気付かなかった。というか、トラン・アン・ユン監督に教えられたわけだけど。
それが『1973年のピンボール』の結末部分について。
実はずーっと意味がわからなかった。
なぜ村上春樹はこの小説を書いたのか。
というかこの結末はいったいなんなのだ?と。
なぜ楽しかった想い出を台無しにしてしまうのだ?と。
この小説でいったい彼は何を描いたのかということがまったくわかっていなかった。。
自分が村上春樹の小説をはじめて読んだのは、ちょうど『羊をめぐる冒険』の文庫本が講談社から出たときで大学の生協の本屋に平積みしてあった。表紙はこれ。

なんとも軽快で都会っぽい絵ではないですか。
この本で村上春樹のストーリーテリングというか、冒険小説の興奮と軽快な語り口に味をしめて、次々に彼の小説を読みだした。まさか、こんなふうに彼の喪失感に引き込まれることになるとはつゆほども知らずに。
もっとも、神戸なんていう街に出てきた田舎者の学生だったので、本を新刊で買うなんて発想すらなく、その時点で講談社文庫の棚にあった小説は『1973年のピンボール』と『風の歌を聴け』。この順番で読んだわけで。
で、中公文庫の『中国行きのスローボート』を見つけ、講談社文庫の『カンガルー日和』と来て。。そのあとに出た新潮文庫の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を同じように手軽な気持ちで手に取り、奈落の喪失感を味わうはめに。
いっきに暗い井戸の底にほうりこまれて、いまだに自分の影をそこにおいたままなのだ。
考えて見りゃ『風の歌を聴け』で違和感はあったのだよ。あれ?こんな小説を書くんだ?と。でも『中国行きのスローボート』と『カンガルー日和』でふむふむと。そこで気を抜いてしまったのだね。
まあ、そんなわけでその後に出た長編『ノルウェイの森』は読む気力すらなく。
しばらくはエッセイなどを読みつつショックを癒したのだったよ。そうだ、そういうことなのだ。なので、『1973年のピンボール』はずーっと謎だったのだ。
というか、『1973年のピンボール』の結末がショッキングだったせいで…なぜ、こういう結末なのかと。そこでイヤになって逃げりゃよかったのに。
あれさ、お墓なんだよね。直子の。
養鶏場の匂いのするあのコンクリートの冷たい場所。
知ってた?オレ、知らんかっただよ。。
恐ろしい数のピンボール台だ。七十八というのがその正確な数字だった。僕は時間をかけて何度もピンボール台を勘定してみた。七十八、間違いない。台は同じ向きに八列の縦隊を組み、倉庫のつきあたりの壁まで並んでいた。まるでチョークで床に線を引いて並べでもしたように、その列には一センチの狂いもない。
そこに直子はいた。しばし、彼女と遊ぼうとし、その後は…
そういう話だったのかと。がっつーん。
想像とリアルな映像というのはかくも訴求力が違うのかと思い知った。
直子の死を直接的に描くこと。それにより、トラン・アン・ユン監督に突き付けられたわけだ。自分の現実に対する認識の甘さ。現実を想像する力のなさを。
考えて見れば、最初に丁寧に描かれているキズキの自殺と直接的な直子の死の描き方が逆なのよね。非凡な監督だよ、まったく。。
もしかして、『羊をめぐる冒険』も、オレってばよくわかってないのかも知れん。
だが、読み直す気力は今はない。
※七十八÷八列…割り切れん。また数字の謎だよ。そういや、読んだときもそう思ったのだった。そのときは謎かけする人だと知らなかったけど。気付かなきゃよかった。もういいや。
映画『ノルウェイの森』の結末を観て、「あっ!」とおもったことがもう一つある。
この映画を観るまで気付かなかった。というか、トラン・アン・ユン監督に教えられたわけだけど。
それが『1973年のピンボール』の結末部分について。
実はずーっと意味がわからなかった。
なぜ村上春樹はこの小説を書いたのか。
というかこの結末はいったいなんなのだ?と。
なぜ楽しかった想い出を台無しにしてしまうのだ?と。
この小説でいったい彼は何を描いたのかということがまったくわかっていなかった。。
自分が村上春樹の小説をはじめて読んだのは、ちょうど『羊をめぐる冒険』の文庫本が講談社から出たときで大学の生協の本屋に平積みしてあった。表紙はこれ。

なんとも軽快で都会っぽい絵ではないですか。
この本で村上春樹のストーリーテリングというか、冒険小説の興奮と軽快な語り口に味をしめて、次々に彼の小説を読みだした。まさか、こんなふうに彼の喪失感に引き込まれることになるとはつゆほども知らずに。
もっとも、神戸なんていう街に出てきた田舎者の学生だったので、本を新刊で買うなんて発想すらなく、その時点で講談社文庫の棚にあった小説は『1973年のピンボール』と『風の歌を聴け』。この順番で読んだわけで。
で、中公文庫の『中国行きのスローボート』を見つけ、講談社文庫の『カンガルー日和』と来て。。そのあとに出た新潮文庫の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を同じように手軽な気持ちで手に取り、奈落の喪失感を味わうはめに。
いっきに暗い井戸の底にほうりこまれて、いまだに自分の影をそこにおいたままなのだ。
考えて見りゃ『風の歌を聴け』で違和感はあったのだよ。あれ?こんな小説を書くんだ?と。でも『中国行きのスローボート』と『カンガルー日和』でふむふむと。そこで気を抜いてしまったのだね。
まあ、そんなわけでその後に出た長編『ノルウェイの森』は読む気力すらなく。
しばらくはエッセイなどを読みつつショックを癒したのだったよ。そうだ、そういうことなのだ。なので、『1973年のピンボール』はずーっと謎だったのだ。
というか、『1973年のピンボール』の結末がショッキングだったせいで…なぜ、こういう結末なのかと。そこでイヤになって逃げりゃよかったのに。
あれさ、お墓なんだよね。直子の。
養鶏場の匂いのするあのコンクリートの冷たい場所。
知ってた?オレ、知らんかっただよ。。
恐ろしい数のピンボール台だ。七十八というのがその正確な数字だった。僕は時間をかけて何度もピンボール台を勘定してみた。七十八、間違いない。台は同じ向きに八列の縦隊を組み、倉庫のつきあたりの壁まで並んでいた。まるでチョークで床に線を引いて並べでもしたように、その列には一センチの狂いもない。
そこに直子はいた。しばし、彼女と遊ぼうとし、その後は…
そういう話だったのかと。がっつーん。
想像とリアルな映像というのはかくも訴求力が違うのかと思い知った。
直子の死を直接的に描くこと。それにより、トラン・アン・ユン監督に突き付けられたわけだ。自分の現実に対する認識の甘さ。現実を想像する力のなさを。
考えて見れば、最初に丁寧に描かれているキズキの自殺と直接的な直子の死の描き方が逆なのよね。非凡な監督だよ、まったく。。
もしかして、『羊をめぐる冒険』も、オレってばよくわかってないのかも知れん。
だが、読み直す気力は今はない。
※七十八÷八列…割り切れん。また数字の謎だよ。そういや、読んだときもそう思ったのだった。そのときは謎かけする人だと知らなかったけど。気付かなきゃよかった。もういいや。
『ノルウェイの森』
トラン・アン・ユンにゆだねられた時点で期待したのだ。『青いパパイヤの香り』のDVDを買ったくらいのファンなので。

緑といって思いだすのがこの映像。赤のイメージはあまりないのだが。
キャストが発表されたときに、松山ケンイチはいいとしてなぜ菊地凛子が直子なのかと。映画の予告編をみて、緑の水原希子についても違和感がつのった。
トラン・アン・ユン監督についても、映像以外ではどこかで高を括っていた。
それは、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』の木村拓哉があまりに現実離れした日本人だったからで、アメリカ映画などでよくあるようにコミュニケーション能力が希薄な日本人として、また無償で身体を投げ出すという自己犠牲性の権化のように象徴的に描かれていたから。
正直期待をせずに観に行ったのだが、松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子に「岡ちゃん、ごめんね」と。全面的にわたくし、間違っておりました。松山ケンイチの空気感とか、菊地凛子のマーベラスな演技とか、水原希子のレナウン娘な外観とエロい話を人前で平然とするギャップとか。
監督についても、日本語の映画で日本人のキャストで日本人のスタッフを使ってよくぞここまで!というのはもちろんなのだが、自分にとっては、あきらかにそれ以上。
もともと小説の「ノルウェイの森」には、夢のようなその場その場でスポットがあたる断片的な映像しかなく、景色は描かれているようで周辺があいまいなのだということにこの映画を観るまで気付かなかった。もう一つはワタナベと他の登場人物の関係というか距離感というか。小説を読んだときには、なぜ永沢が冴えないワタナベとつるむのかとか、なぜハツミは永沢に惹かれるのかとかが正直わかっていなかった。そういう部分が、セリフ以外のところで映像として肉づけられていて。ちょっとした会話の間だったり、あるいはしぐさだったり。そうか、そういうことだったのかと目からボロボロなにかが落ちた。
映像化するっていうのはそういうことなのかと。
終わったあとエンドロールを眺めながらしばし呆然としておりました。
呆然とした理由はもう一つあるのだけど、それは最後に。
有名な小説の映画化なので、賛否両論は渦巻いているけれど、自分的には「まあ観とけ」と言いたいっす。なにかはかならず返ってくる筈と。
良かったのはやはり映像と美術。自分はこの監督のそこが好きなので。
この映画では、衣装とかカーテンとかのファブリックのテキスタイルデザインが秀逸で、髪止めなどの小物とか。ヘアスタイルも「おおーっ」って感じで、緑はもちろん、永沢役の玉山鉄二とかばっちりだよとなんども思った。美術にはなんども驚かされた。
自分が小学生の頃、都会的なセンスのおとうさん、おかあさんがいる友達の家に遊びに行ったときのことを思い出した。台所の床の感じとか、ビーズののれんとか。プールも「そうだよ!公営のプールは当時はこんな新しい感じだったよ」と。とはいえ、学生運動が盛んだったときは、自分はもう少し幼くて当時は4歳だったけど。時代考証はそんな感じで。。ただ、ふとんだけはいただけなかった。あれはひどい。これは監督がふとんというものを知らないからだと思う。まあね、あの頃の学生はそんなイイ服は着てないよといわれりゃそれまでだし、「ん?そのカットソーのTシャツは最近のだよ」とか、細かくはちょこちょこあるのだけどね。
セットをつかった映像はあいかわずすごい。
微妙な影と光の具合、色の配置、窓枠越しのカメラワーク。驚いたのは、登場人物の肌の質感で、疵を含めてそんなふうに生き物として人をみたのは自分にとっては初めて。映画館で映画を観たことが少ないからかも知れないが…。
エロシーンは、あの「びちゃびちゃ」に驚くかもしれないけど、エゴンシーレ的な死を近くに感じながらの性というかそのときの肉体がもつ質感というのは映画にするとこんな感じなのだと。。
そしてやはり圧巻は、砥峰高原の長回しのシーンと最後の海岸での慟哭のシーンで、やはり鬼気迫るものが。こんな風景の使い方するのかと。「天才だわ、この人やっぱり…」と、松山ケンイチと菊地凛子に心を奪われながらもそんなことを考えておりました。ほかにも風景や音と心象風景の重ね合わせについてはいろいろなレトリックがあるのだが…
きりがないのでこの辺でやめておこう。
最後に、ノルウェイの森は死と再生の物語だとおもっていたのだが違った。
これは村上春樹の他の短編・長編とおなじく喪失の物語で、これが彼の原風景なのだと。最後の電話のシーンでトラン・アン・ユン監督に頭をガツンと殴られて始めて理解した。というか、そこが小説とは違うのだけれど、そういう理解をした方が村上春樹のすべての小説を理解する上では筋道として正しいと。彼はここで失って、そこからすべてが始まったのだと。ああ、なんてオレは…とそこで完全にうちのめされてしまったのさ。
おしまい。

緑といって思いだすのがこの映像。赤のイメージはあまりないのだが。
キャストが発表されたときに、松山ケンイチはいいとしてなぜ菊地凛子が直子なのかと。映画の予告編をみて、緑の水原希子についても違和感がつのった。
トラン・アン・ユン監督についても、映像以外ではどこかで高を括っていた。
それは、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』の木村拓哉があまりに現実離れした日本人だったからで、アメリカ映画などでよくあるようにコミュニケーション能力が希薄な日本人として、また無償で身体を投げ出すという自己犠牲性の権化のように象徴的に描かれていたから。
正直期待をせずに観に行ったのだが、松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子に「岡ちゃん、ごめんね」と。全面的にわたくし、間違っておりました。松山ケンイチの空気感とか、菊地凛子のマーベラスな演技とか、水原希子のレナウン娘な外観とエロい話を人前で平然とするギャップとか。
監督についても、日本語の映画で日本人のキャストで日本人のスタッフを使ってよくぞここまで!というのはもちろんなのだが、自分にとっては、あきらかにそれ以上。
もともと小説の「ノルウェイの森」には、夢のようなその場その場でスポットがあたる断片的な映像しかなく、景色は描かれているようで周辺があいまいなのだということにこの映画を観るまで気付かなかった。もう一つはワタナベと他の登場人物の関係というか距離感というか。小説を読んだときには、なぜ永沢が冴えないワタナベとつるむのかとか、なぜハツミは永沢に惹かれるのかとかが正直わかっていなかった。そういう部分が、セリフ以外のところで映像として肉づけられていて。ちょっとした会話の間だったり、あるいはしぐさだったり。そうか、そういうことだったのかと目からボロボロなにかが落ちた。
映像化するっていうのはそういうことなのかと。
終わったあとエンドロールを眺めながらしばし呆然としておりました。
呆然とした理由はもう一つあるのだけど、それは最後に。
有名な小説の映画化なので、賛否両論は渦巻いているけれど、自分的には「まあ観とけ」と言いたいっす。なにかはかならず返ってくる筈と。
良かったのはやはり映像と美術。自分はこの監督のそこが好きなので。
この映画では、衣装とかカーテンとかのファブリックのテキスタイルデザインが秀逸で、髪止めなどの小物とか。ヘアスタイルも「おおーっ」って感じで、緑はもちろん、永沢役の玉山鉄二とかばっちりだよとなんども思った。美術にはなんども驚かされた。
自分が小学生の頃、都会的なセンスのおとうさん、おかあさんがいる友達の家に遊びに行ったときのことを思い出した。台所の床の感じとか、ビーズののれんとか。プールも「そうだよ!公営のプールは当時はこんな新しい感じだったよ」と。とはいえ、学生運動が盛んだったときは、自分はもう少し幼くて当時は4歳だったけど。時代考証はそんな感じで。。ただ、ふとんだけはいただけなかった。あれはひどい。これは監督がふとんというものを知らないからだと思う。まあね、あの頃の学生はそんなイイ服は着てないよといわれりゃそれまでだし、「ん?そのカットソーのTシャツは最近のだよ」とか、細かくはちょこちょこあるのだけどね。
セットをつかった映像はあいかわずすごい。
微妙な影と光の具合、色の配置、窓枠越しのカメラワーク。驚いたのは、登場人物の肌の質感で、疵を含めてそんなふうに生き物として人をみたのは自分にとっては初めて。映画館で映画を観たことが少ないからかも知れないが…。
エロシーンは、あの「びちゃびちゃ」に驚くかもしれないけど、エゴンシーレ的な死を近くに感じながらの性というかそのときの肉体がもつ質感というのは映画にするとこんな感じなのだと。。
そしてやはり圧巻は、砥峰高原の長回しのシーンと最後の海岸での慟哭のシーンで、やはり鬼気迫るものが。こんな風景の使い方するのかと。「天才だわ、この人やっぱり…」と、松山ケンイチと菊地凛子に心を奪われながらもそんなことを考えておりました。ほかにも風景や音と心象風景の重ね合わせについてはいろいろなレトリックがあるのだが…
きりがないのでこの辺でやめておこう。
最後に、ノルウェイの森は死と再生の物語だとおもっていたのだが違った。
これは村上春樹の他の短編・長編とおなじく喪失の物語で、これが彼の原風景なのだと。最後の電話のシーンでトラン・アン・ユン監督に頭をガツンと殴られて始めて理解した。というか、そこが小説とは違うのだけれど、そういう理解をした方が村上春樹のすべての小説を理解する上では筋道として正しいと。彼はここで失って、そこからすべてが始まったのだと。ああ、なんてオレは…とそこで完全にうちのめされてしまったのさ。
おしまい。
