象の夢を見たことはない -191ページ目

出会い

一期一会というお題目を唱えるのは好きではない。
意識っていうのはちんけなシロモンだ。
そりゃそんなことを唱える奴は秀吉とはそりが合わねえだろうなあとそんな風にも思ったりもする。

ここんところ自分の直観を大事にしている。
直観といっても、「ん?」と引っかかったことだけど。

楽しいことが大好きです。楽しいことはないかしら?
よろしくお願いします。

というのが気に入っているマイミクさんのキャッチなのだが、そうなのだと。
情報のアンテナを張るっていったって具体的にどーすりゃ?と。たぶん、そんなふうに「ん?」ってひっかからないと好奇心とかきっかけとかにはならないわけで、そこからだいたい今の自分が始まっている。ライブに行くことだったり、東南アジア圏への旅行とか。
あとはインドへ放り込まれたことだな。当時の部長に感謝。

大きくはその2点なのだが、起点はいずれも人だったのさ。考えてみれば。

村上龍の『歌うクジラ』だが、いうまでもなく主題は希望で…

心がけてたというか決めてたのは、とにかくアキラがずっと移動を続けるようにしようと思ったんですよ。なにか絶対乗り物に乗ってるか、動いてるか走ってるかにしようと思ったんですよね。…
あれでも、僕も気付いてなかったんですけど、あれ、文章書くまで。確かに移動しないと誰にも出会えないなと思って。
人と出会うことは大切っていうより、それだけで生きてるって(ことだと)決めつけて書いたんですけど。だから、アキラが気付くのはそこだけなんで。でも、そこから、その、死にたくないっていう意識が生まれるんであって。人との出会いって言うのはめんどくさいことのほうが多いんですけど大事なんだなと。そういう単純なことにね。

amazonのインタビューより)

で、『理解することとコミットすることは違う。理解することでは変われない。深くコミットすることでしか人は変われない。』という確信もあり。要は理解しきれないモノに出会うことが重要で。人が理解できないものというのは圧倒的に人だったりするわけで。それは、おそらく自分でもあると。
しかも、コミットするってのは、理解するという受動的なものではなく、能動的に関わり合うっていうことで。それもやむにやまれぬ衝動から能動的に関わり合う。

そしてそういうコミットできるモノには、ただ「出会う」のだと。
そんな風なことを、別の場所で彼が言っていた。
それらのモノには、まるで事故に会うように出会う。
出会って初めてそれだと判る。出会わなければ判らない。それはロジックなどではないと。

一期一会ったって、おめえ…
出会いってそんなもんじゃねえだろうよ?と。
本当に人生で大事なものはいつも秘匿されていて、格言などという残りカスの中にはない。それは現場では見えず、かつ現場でしか糸口は得られない。

ミエナイ

人が輝いて見えるときはわかりやすい。
自分が輝いているときはわかりにくい。

わしづかみする。生のまま。
そういう瞬間が見える。

2011. 1.9 (日) 名古屋APOLLO THEATER
ア・ル・カ・ラ 3枚目 レコ発TOUR
「TOUR・TOUR・TOUR」
アルカラ/BYEE the ROUND/→SCHOOL←
o.a: DIEZEL




バンドのフロントマンというのはなんなんだろう。
→SCHOOL←の矢野くんとか。バイザの松山くんとか。アルカラの稲村くんとか。
三者三様だけどどこかのタガがはずれていて。いい意味で。

彼らは自分がビチビチはねる魚みたいなのをハトヤホテルのCMみたく、、
て言ってもわからんな。古すぎて。
ビチビチッ!!!って逃がしてしまうことなく抱え込んでいる。
わかってるんだろうか?
大人にならないと、子供のとき自分が掴んでいたことがわからないけど、
大人になってもその瞬間はわからない。のかもしれない。
でも、すごいね、彼らのライブ。

BYEE the ROUNDはオープニングがカッコよくなっててびびった。
横一線に並んでなにするのかと。
しかし今日はメンバーの演奏が激アツだった。
ここ4回の名古屋では一番の盛り上がり。

あと、チームワークっていうのは、お互いが違う方向見てても背中で感じてるっていうのも客からは見えてたり。どのバンドでもそういう瞬間が何度も。
見ているほうが思い知らされる。
そしてそういう瞬間を自分でも何度も重ねたいと。
それぞれにステージは違うのだけど、仕事とか遊びとか。
たとえ、そのときがそういう瞬間だと自分はわからなくても。

<今日のおみや>

$ニャンちゅうなブログ-やじるし

→SCHOOL←の音もそうだけど、エレクトロポップ?
ボーカルの矢野くんのキャラが良い。
パワフルだ。ライブおもろい。
なので会場限定のCDRを買ってみた。
てかグランジハードコアからこれ!?
コアテイストはどこかに残っているけど…
すごい転身。

プリンシプルとフレームワーク

そういえば、心の病についても日本人は型を形成する力が弱いと河合隼雄さんが。

臨床でドイツにいたときの経験と、日本人のカウンセリングをしたときの比較をしてみても、欧米人と比べると日本人は病気の型を形成する力が弱くて、明確なかたちに現れないことが多いと。
夢分析でも実感として、欧米人の夢を分析するほうがはるかに分析しやすい。日本人のほうが難しいと言う話を。これは遠藤周作氏との対談で@こころの声を聴く。

型を形成する力の弱さは、そういうところに根ざしているらしい。村上春樹の小説もよく似ていて。ほんとうに世界的に売れているのだろうか。中国の一人っ子政策で生まれた世代で読まれているとかいう話は聞いたことがあるが。。
世代的な傾向とあるいは民族的な傾向もあるのだろう。個人差はもちろんあるが、国際競争力的な観点でマスで見るとあまりよろしくないのかもしれない。プリンシプルとフレームワーク。

あるいはスタイル。水泳のフォームでも欧米人は無茶苦茶なのだが、速い人は速い。でも下手な人はどうしようもないくらい矯正しがたいフォームで、ゴルフでもそういうのは同じらしい。大リーグをはじめて見たときにも思ったのだけど奇妙奇天烈なヤツはいっぱいいる。

個人の力とか、パーソナリティーの強さというのが日本にあった時代もある筈だし。三島由紀夫の言うようなノーブル・サヴェッジ(高貴なる野蛮人)っていうような野蛮さも必要だし。

そろそろ男の世界をつくらないと守るべきものも守れん。とカッコよくいってみたり。血みどろで風に舞おうぞ。押忍。と自分を励ましてみる。

「歌の力」

式年遷宮が近いということもあり、今年のお正月には伊勢神宮のしきたりや神宮独特の工芸品や供物などを紹介する番組が@三重。全国放送?だが、それぞれの地域でそんなふうにそれぞれの地域に根ざした番組はある。それは実家に帰ったときにほっとするなにかだったり。郷愁なのだろうか。

NHKの紅白歌合戦について、村上龍氏はJMMで

 変化の必要性をアナウンスするのは、当然メディアと文化の役割です。大晦日、紅白歌合戦を見ましたが、途中で「歌の力」という曲の合唱がありました。「歌の力」という曲そのものは悪くないのですが、大衆のための歌が自律的な力を持っている時代には「歌の力」というような歌は必要とされません。あのような歌が必要とされるということは、歌が力を失っている時代だという証ではないかと思いました。

 これまで何度かエッセイなどで書きましたが、大衆的な歌は、国民的な悲しみがあるときに必要とされます。第2次大戦後、シャンソンやカンツォーネのすばらしい歌がいくつも生まれました。また、「ブルー・ヴェルヴェット」に代表されるアメリカの50年代のポップスも輝いていました。その流れはビーチボーイズやビートルズという偉大なグループまで続いたあと、「ポップス、ロック、ジャズの終焉」という形で、80年代のどこかで終わってしまったとわたしは考えています。

 NHKは、「紅白歌合戦」という旧態依然としたイベントを続けることで、「変化など必要ない」というメッセージを毎年送り続けていることに気づいていないようです。高度成長のころ、紅白歌合戦は国民的な楽しみでした。高度成長の負の部分、つまり若くして故郷を離れる辛さ、開発によって変わっていく風景、ハードな労働などですが、当時の歌謡曲や演歌やフォークソングは、苦しみや悲しみを癒してくれたのです。しかし、紅白歌合戦が持っていた役割は、もうとっくに消滅しています。


と。ふむ。でも逆に海外でNHKの紅白歌合戦を楽しみにしている人は、今の時代すごく多くなってきていると思う。高度成長の負の部分というのは、生き残りを懸けた海外展開というふうにカタチを変えているのかもしれないなあと。

式年遷宮の番組で、雅楽というか能の高砂みたいな地歌というかが流れていたのだけど、リズムは単調で貧弱。で、あれにメロディーってあるのか?

ポムじい:「しまってくれんか。わしには強すぎる」・・ええっ!?そーゆー神秘ものでもないだろう。未発達と考えたほうが妥当っていう気ガスル…あるいは型を形成する力が弱いというか。なので原始的な伝承という方法でしか。ううぬ…。だからこその適応能力の高さなのかしら?それは明治維新からこっちで証明されてるので、一番はそこなのだよなあ、国際競争で生き残るためには。むむう。ハードとソフトをうまく使って…オイラはどうすれば。。ブツブツ

リズムの身体性については坂本龍一氏のスコラを見るまでもなく。。あるいは、呼吸だったり心臓だったりの不随意である自律神経系とのフィードバック調整だとか、脳の神経の発火タイミングとの関係とか。ただ、メロディーについては、オイラはよくわからなくて。人の声の抑揚にのせた感情ではないということにこの日本古来の音楽?を聴いて気付いた。抑揚はあるのだが一向に響いてこない。
じゃあ、メロディーってなんだろう?なぜ、メロディーで感情が動かされるんだろう?

詩をビートにのせるっていうのは、ビートニク詩人たちがやっていて。佐野くんを通して知ってた筈だが、ビートと声の抑揚だけだと、いくら詩が感情を呼び起すものでもその詩以上に感情を呼び起こすものにはならない。彼の昔のカセットブック「ELECTRIC GARDEN」にはメロディーがあった。だから感情が動いたのだと今気付いた。そこがスポークン・ワードなパフォーマンス・ポエトリーとは違う。詩とビートだけでは響いてこない。メッセージ性の追求?それもメロディーがあったほうが響いてくる。それも詩と同調したメロディーでないとダメで。世界観というのは。そう感じる。

それぞれの楽器そのものの音で感情が動かされるってのもあってそれも不思議なのだが。。やはりオイラにとっての音楽の一番の謎はメロディーかなあ。メロディーの力というのはいったい…?

三重

県民ショー的なのか…

赤福。

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消費期限が…たべなくちゃ。一人で。くっすー

あらためまして

明けましておめでとうございます

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今年もよろしくおねがいします

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