象の夢を見たことはない -189ページ目

コレクトネス

なんか結局自分も日本人だなあと。つくづく思う。
というのが自分のポリティカル・コレクトネスについての反応で。

石原都知事にはムカつくが外務省がイギリスに噛みつくのは大人げないとか。
内弁慶的に思ってた。のだが。

消化物展示場@ソマリア一時パキスタンの記事を読んで、「うんうん。その通りだ」と。でも、記事に対するぺね朝さんのコメント見て「あ、そういうことも言えるのか。なるほど、ふむふむ。そういえば、昔、ホノルルの街で夜に出会った海自の自衛官の若いコたち、なかなかユルくて出来る感じだったし」と。

直情的な反応しか出来ない人を嗤えないなあと。
まあ、都知事にしろ外務省にしろ、それで日常生活が困るわけではないので眉をひそめてそれで終わってくわけだけど。それじゃいかん!と生真面目に思ってしまうところもなんだかねえと堂々めぐりにぐるぐると。

佐藤優さんのYouTubeウィキリークスでアメリカ国務省は10年機能しない』てのがいろいろおもしろかった。ローテクの話とか。

さて、期日前投票してこよう。

聖☆おにいさん

ぬぬぅ、これは…

$ニャンちゅうなブログ-おにいさん

…BLでは?新手の。

しをんちゃんの判定を待ちたい。

生温さっていう点では

$ニャンちゅうなブログ-サンレッド

サンレッドのほうが『買い』だと思う。

ぬ?これもBLなのか?戦隊ものはそうなのか?

怪人と愛を確かめ合うSMごっごなのか?

だとすると漫才コンビは皆BLで、いとしこいしもBLなのだ!!!

…最近よくわからんくなってきた。

ペイ・フォーワード

昨日も病院へ行った。
いろんなものがありがたかった。

『ペイ・フォワード』という映画がある。

他人から厚意をうけたとき、それを別な3人の人に渡す。
「ペイ・フォーワード」してみよう。

簡単に言うとそういう話なのだけど。

『歌うクジラ』が毎日芸術賞を受賞したクリックでRVRサイトへ。音が出るので注意)そうだ。それについてはまず置いておこう。
当の毎日の書評より朝日の書評のほうが「歌うクジラ」でググると最初に来てしかも全然オモシロかったりするのだが。。

その朝日のレビューを読んでいて、ペイ・フォワードを思い出した。
良いレビューというのは、人を動かす。
良さというのは人によって感じ方がまちまちだ。

厚意だってそういうものだ。

ただ、3人に渡そう。
結局はそうなのだと。行動をおこさねば周りは動かない。実は動くのは自分であればよい。そうすれば周りの景色も変わってくる筈だし。と自分を鼓舞してみる。
はじめから良いものが書けるわけもなく。それも自分が動いていかなければ変わらないわけで。

2人じゃだめで、4人、5人だとフレーズ自体心に響かない。
3人というのに意味があるような、いろんな意味で。

ちなみに最初に書いた「ペイ・フォーワード」をクリックして出てくるサイトも、ググルと最初に出てくるサイトだ。良い記事だと思う。良さというのは人によると思ってるけど、なんだかそういう普遍性っていうのを信じたくなる。

ただそれは波間の太陽の光のように。
今はこっちで光っているけれど、次はあっちで光る。
特定の場所じゃなくて、海や風や雲や太陽なんていうシステムそのものの中にある。
そんなふうに思う。3人というシステム。生き物というシステム。人間というシステム。

やっぱ愛だね。無償の愛。

『ペイ・フォワード』。いい映画です。

ペイ・フォワード [DVD]/ハーレイ・ジョエル・オスメント,ケビン・スペイシー,ヘレン・ハント


そういえば、これ"payback"(報復)に対するシャレで造語だったんだね。ドット入れるからわからんかったよ。ん?原題は"pay it forward"なんだ。へぇー。邦題のほうがいいじゃん!!

エロいインド人 R指定

小学生は読まないように!!

これはバンガロールで同じ会社にいた日本語教師の女の子の話である。

ハンピー(Hampi)という村がバンガロールのあるカルナタカ州にある。
世界遺産なのである。

観光しに行ったわけである。
そこで、道を歩いているとインドの行者にあったらしい。よぼよぼのじいさんである。
なんだか今にも行き倒れそうである。
話しかけてきた。必死の形相なのだ。

博愛心に富む友人は何事かと。
そうするとじいさんは茂みのあるほうへ彼女を連れて行こうとする。
ぐいぐい、ぐいぐいと彼女の手を引っ張る。
死にかけているにしてはすごい力なのである。
ぐいぐい。ぐいぐい。

しかし、あまりに真剣な顔で頼む。
なので、なにかたいへんなことが起こっているに違いないと。
もしかして連れの人が、そこで倒れているのか?
一抹の不安を抱えながらもあまりに強く引っ張るので仕方なく従う。

茂みに着いた。
茂みには誰もいない。

じいさんは語る。

「わしは、長い間修行をしておる。修行中の身じゃ。
わしは悟りを得たい。
そのためにはおなごと交合せねばならぬ。
そなた手伝いなさい。そなたにも功徳があるはずじゃ」

おもむろにじいさんは、自分のパンツをずりおろし、ずりおろした状態で迫ってくる。
パンツ半降ろしの状態である。
ヨボヨボ、ヨボヨボと近寄ってくる。
だいぶ、老いぼれているのだ。
ヨボヨボ。ヨボヨボ。

迷わず走って逃げたそうである。

バンガロールの近くにも怪しげなアシュラムがあり。
アシュラムというのは、ヒンドゥー教信者の宿泊施設や礼拝堂や食堂などの施設を備えた村のような場所で。
その怪しげなアシュラムでは、礼拝をしながら日夜信者が教主らや別の信者らと交わうとか。
中には女性信者しか受け付けないアシュラムもあるらしい。
なんとうらやま…いやいや。

これも、別の日本語教師の女の子から聞いた話だ。
生徒のインド人たちから聞いた話なのだろう。
まあ、彼女もそこに行ったわけではない。。と信じている。
と書くと「失礼くさい!!」と怒られるだろう。…書いてしまったものはしょうがない
自分が体験した話ではないので真実はわからない。

そんなわけで、インド人にはムッツリすけべが多いのである(←偏見)
恋愛結婚などとんでもない。親が占星術師に聞いてお見合いをして結婚する。
そんなケースが大半な南インドにおいては性は封印されている。
いのちは制限の中ではなおさら燃え上がろうとする。するのである(←独断)
ダメ、ぜったい!!だめ (と書いておこう。くっすー)

ちなみに『理趣経』というのが、真言宗の『金剛頂経』の経典の中にあり。
顕教的な立場を重んじ、戒律を守る立場からは否定されているのだけれど、チベット密教の中にはまだその裏部分は色濃く残っているらしい。
ヒンドゥー教との勢力争いの中で、民衆を惹き入れるため、悟りを得るための手法として、その闇の部分は力を増し、いきおいヒンドゥー教も無視できぬようになって、同じく…
という流れで後期密教は発展してきた。らしい。
なので、そういう流れはヒンドゥー教の中にもあり。。

だから、先の日記に書いたチベタン・ゴールデン・テンポー。
テンポー。ドラゴン怒りの鉄拳である。違う。
そのチベット密教の寺にはこんな感じの絵が壁にところ狭しと描かれていたわけである。

$ニャンちゅうなブログ-チベット密教

とか。あとは、前のブログ記事を参照。

でも、本尊はこんな感じで晴朗なのだ。

$ニャンちゅうなブログ-チベタン・ゴールデン・テンプル

悟りの境地である。はーい。
必要以上にキンピカだけれど。

おそるべし。おそるべしチベット仏教。明日はどっちだ!!(意味不明)

豊かな身体

三浦しをんちゃんの『神去なあなあ日常』は、三重の美杉村がモデルなのだけど、うちの実家もその近くの田舎なので自然の色が色濃く。

$ニャンちゅうなブログ-美杉村

鹿が最近増えていて全国的にそうなのか。
夜、車にぶつかってきて修理に40万、鹿はぶっ倒れたけどすぐ走って逃げて行ったとかそんな話を実家に帰るとよく聞くようになった。
熊はもともと紀伊半島では希少種なので、天敵がいなくなったからというのでもないと思う。だいたい熊が鹿を襲えるほど素早いものだろうか。
わかりやすい説明というのは危険なものだし、それは事実を逆に隠すことがある。

それはともかく。
自分が子供の頃には、「かみさん」という人がいて。
もう亡くなってしまったので悲しいことなのだけれど。
この本に描かれているようないろんな風習はその頃はまだ残っていたと思う。
子供の頃には身近にいろんな謎なものがあった。
そういうのは子供のときには肌感覚のようなものだったので、おっかないモノでもあったのだけど。
いまはうちの田舎でも無くなってしまった。あるいは命が消えたカタチだけのものになっている。そういうのは消えると決して甦ることはない。

バンガロールにいたのは、二年に渡ってるけどせいぜいあわせて5カ月程度。
でも印象は強烈で。
都市といえどもそこはインド。
まだまだいろんなそういうものが残っていた。

ニャンちゅうなブログ-インドの吉祥模様

これは玄関に描くコーラム、ランゴリと呼ばれる吉祥模様で魔よけでもあるのだけれど、早朝におかあさんたちが描いていて。午前中とか早い時間に訪問客の足跡で薄くなって壊れることは好ましいこととされている。そういえば、西洋の六芒星な魔方陣とかも同じように地面に描くわけで。

で、最近読んでたのがこの本。

$ニャンちゅうなブログ-チベット密教 ツルティム・ケサン

ちなみに、チベット仏教寺院(クリックすると前の日記へ!)もバンガロールのあるカルナタカ州には多くあって。

日本の密教って、伝わったのが中期密教なのだけど、ヒンズー教の隆盛とかイスラム教との争いでなくなるまでその後もインドで発達しつづけた結果、結局最終形態としてチベット密教になったらしく。
その中には身体的な修業により悟りを得るという本来の仏教システムというのが。
なので、この本を読むと日本の仏教というのが、そういう点でいかにスカスカになってしまっているのかがわかる。

チベット仏教、砂マンダラが有名だけど、あの意味は、そのカタチにあるだけではなく。修業の中で生きてくるものなので、表面だけ見ててもわかるものではない。壁掛けや立体にしてしまうことは民衆に対する方便としてはよかったのだろうけど、カタチに捕らわれると大事なものを失う。ここでも、わかりやすさというのは危ういものだとおもう。

認知科学的には、メタレベルの知覚とかスキーマとかについては、言語レベルのものと、身体レベルのものがあって。身体レベルのものも、フレームワーク化できる筈だが、言語化できないので伝達することが難しい。なのでそういう秘匿された宗教内にしか残っていないものもある筈で。

科学云々というのは言語化とか数値化とかできるものに限られてしまって、いつのまにかそういうものまで駆逐していく方向に意識まで向かわせているとするとなんだか勿体ないなあと思ってしまうのである。ほんとの科学と科学信仰というのはまったくの別物なのに。言葉というのは簡単なもので、そっちを信じやすい。

とはいえ、いろんな胡散臭い坊主がインドにもいて。
その話はまたいずれ。