象の夢を見たことはない -183ページ目

『書を捨てよ、町へ出よう』 寺山修司

からっぽの饒舌。
あまりにすっからカンだ。振ったらカラカラ音がしそうな。
なぜ、こんな本が売れたのだろう?

時代の熱にうかされたうわ言のような本だなあという印象。
ホルモンだとか睡眠薬だとかうさんくさい無知。マスコミやら大衆やらという名のモトにテレビとラジオがあることないことを植え付けていたデマゴーグの時代。
無知と貧困。

あ、そうか、そういうことか。
貧困と無知と言う名の希望なのだと、はたと気付く。
「貧困と無知は、人間の社会にとってもっともよくないことです。」
というのは村上龍の言葉で。
皮肉にも村上龍の言う希望はその貧困と無知がセットになってお得です。
そういうことなのか?

村上龍のニューヨーク・タイムズへの寄稿文(クリックで飛びます)を読んで、ああこの人終わってるわと思ったのだけど。

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。


いやすべて失ったわけじゃねえし、酔っぱらって書いたのか?
第二次世界大戦の敗戦のあとに、日本人はすべてを失った。規範も生活様式も。アイデンティティが完全否定された。失意のどん底で頼るのは、戦勝国のアメリカだった。ストックホルム症候群。
解放後、犯人に対する好意は憎悪へと変化する。それが学生運動・安保闘争の時代だったのかも知れない。そんな時代背景を彼らの後ろに眺めてみる。
彼はそんな時代の貧困と無知を今の時代に重ね合わせたかったのだろうか。
日本の大部分は今回の震災後も無事であるし、無知というのもあてはまらない。
なにより、知は不可逆だ。だからあの時代に戻ることはない。

無知であるが故の希望。貧困であるが故の熱病的な情熱。
上から目線で個々の人に割り振った希望。
はたして彼はそんなことも見失ってしまったのだろうか。
ブランデーでいかれちまったのか?
最近の彼の痴呆ぶりはかなりヤバい。

だが、寺山修二についてはあきらかに彼の実体はこの本の中にはない。おそらく。
それが生の不思議。生きている寺山修二は彼の演劇の中にあった筈で。それは彼の詩の中にもある。

『歌うクジラ』の主人公アキラ。
あらゆる階層において棲み分けが完成し、「理想社会」と呼ばれていた日本。
アキラという一人の少年が、分断された最下層区域である「新出島」から脱出をはかろうとしていた。
徹底した情報管理と富の管理により人工的に彼に背負わされているのは無知と貧困なのだが、あきらかにそうではないなにかを彼は身にまとっている。

心がけてたというか決めてたのは、とにかくアキラがずっと移動を続けるようにしようと思ったんですよ。なにか絶対乗り物に乗ってるか、動いてるか走ってるかにしようと思ったんですよね。

出会いという言葉にまとめてしまったのだが、おそらくそうではない。たぶん移動そのもの、あるいは生そのものを書こうとしたのだし、この小説から感じるのもなにかそういう生きたモノで。
彼が描く希望というのはたぶんそういうものだ。
無知と貧困とセットになっているお手軽なサンキューセットの商品ではたぶんない。

実体を見誤ると結論はあさっての方へ。
書を捨てよ、街へ出よう。
それの意味するところは知の放棄ではない。真の知の探求なのだ。
現場へ戻れ。

そういう意味でこの本自体が強烈な彼の詩の体現なのだろ?
本にはまったく意味がない。この本がすっからかんであることに意味がある。それによってはじめてこの本の題が生きたチカラを持つ。ってことじゃね?現代芸術的だな。寺山修司のアフォリズムもそういうものだ。だから彼の言葉自体に意味はない。

書を捨てよ、町へ出よう。

$ニャンちゅうなブログ-書を捨てよ、町へ出よう

それがこの本の第一章の題名。
シャイな彼の本体は、第二章から始まる。
のかもしれない。そうでないのかもしれない。
いかがわしさこそが彼の本体。
なのかもしれない。そうでないのかもしれない。
なんにせよ、イカシタおっさんだなあ。

情けない週末

2011年03月26日(土) at. 名古屋 APOLLO THEATER

PINKLOOP "Ego+ism is not dead" TOUR 2011
PINKLOOP / BOMB FACTORY /smash up

に行ってきました。
すんません。不謹慎で。
不謹慎だ!こだまでしょうか?

自分がなぜパンクのライブに行くかという大きな理由の一つが、パンクを聴いているコたちを眺めること。
ライブ中に彼らの様子をチラ見する。あるいは、バンドとバンドの合間の転換中に物販でバンドのメンバーと話してる彼らや彼女たちを眺める。どこか冷めていて、でも、どこか純粋で、そうであるが故に傷つきやすく、なんだかバリア張ってたりとか。でも、人情があるが故だったりするのだよ、普通の人以上に。

そんな奴らを見ていると、自分がいかにいいかげんで自分にウソをついているかと。たまに絡むと、冷や水をぶっかけられたような気持ちになる。

で、こいつらをなんとかしたいと思うのだね。
もちろん、引っ張り上げられるのは自分で、そのコらに「ヲイヲイ、落ちついて!!どうどう!」って言われるのは自分だとわかっていながら。でも、なんだか、涙だか鼻水だかヨダレだかを全部流しながら、なんとかしたいと思うのだよ。。なんとかしたいのも助けられたいのも自分自身なのだけど。

そんなふうに剥き出しの自分に会える機会って普通に生きてるとなかなかない。
傷ついて自己嫌悪に陥って包丁握るとか、手摺りを飛び越えるとかしたくなる。

で、今日は演奏が終わったあと、シラちゃんがやって来た。知らんふりしてたので寄っていったのだけど。やっぱ、何かが邪魔して話せない。「なんか飲む?」って聞いたのだけどやっぱり遠慮するよねえ、たとえ嬉しく思ってても。そう察知して無理やり握らせばよかった。自己嫌悪に陥る。
そのあとジュンヤ氏がドリンクコーナーに居たので、寄って行って話をちょろっとしたのだけど。なんか思ってることが言えない。カズヤ氏もすぐ近くに居たのだけど、声を掛けそびれる。ああー。で、タイミングを失う。アホすぎる。自分が傷つくのがこわい。

なんだろうねえ、この負けた感じ。今日はボロ負けだった。
くっそぅー。自分にうそをつくのはもうイイって。

ジュンヤ氏に「実家は、だいじょうぶでした?」と聞いたのだけど、やはり山形は雪国で高速が使えないとかで物資が届かず。ガソリンや特に灯油がなくてたいへんだという答えが。。あー、なんもできません。申し訳ないすガーン

ドバっとな

見た瞬間、「こいつは違う」と思う奴がいる。
カリスマ性とかオーラとかいうものなのか。

だが、なぜそれがわかるのかという疑問。

禅の考え方に初心というのがあって。修行の目的は、その初めての心、そのままを保つことだと。たとえば、たった一度般若心経を唱えたとする。そのときとてもよく唱えられたけど、二度目、三度目になるとだんだん初めて唱えたときの心を忘れると。

ん?
なぜ、初心なんだろう?
なぜ、なにが良くてなにが悪いのかが自分でもわかるのだろう?

後天的に得た経験で良さがわかってくるものもあるし、生まれたときから良さがわかるものもある。なにが良くてなにが悪いのかを判断する基準は、結局はその組み合わせなのだろうと思っている。なにもすべてが先天的なものでもなかろう。経験するうちに判断が逆転することもある。しかも、何が良いか悪いかって時代や状況によっても変わるし。

のだが、ある人を見たときに「こいつは違う」と判断している自分は、何との差分を判断しているのかわからないけれども、その人の中に差分を超えた跳躍、常人からのあきらかな跳躍を見ているような気がする。するのである。しないというご意見は却下だ。

初心がいいのは、ビギナーズラックとかも同じで身体のなにかが開いてるのだろうと。なにかわからんけど。なんかの器官があるような気がする。フェロモンを感じるのはフェロモン感知器官として知られる鋤鼻器らしいが人間では退化してしまっているそうだ。でも確かにそれは「ある」らしい。そんな器官が他にあってもおかしくないとおもうのだが。。おもわないというご意見は却下だ。
で、その開いた器官でなにを感じているのだろうか。。勝手に開けてしまっているが。

手を伸ばして物をつかもうとするときに脳内のニューロンが反応するのは指先の感覚だ。しかし熊手で少し遠くのものを掻き取るときには、ニューロンは指先の感覚より、熊手の先で何かに触れたときに自分の手が触れたように反応する。これは身体感覚が指先から熊手の先端に拡張したからだと。乗り物に乗ったり、道具を使うと身体感覚は拡張するらしい。と池谷裕二氏。

だけど、例えば猟師が獲物を仕留めたときの「手ごたえ」とか、モノを投げたときに相手にヒットする感覚を投げた瞬間感じたりするのはなんなんだろうか。それって拡張というより跳躍?
そして、ちょっと違う部分もあるけど、初心のときってそういう跳躍をバシバシ感じているのだと思う。そういうのが束になって襲ってくるのでなにがどうだかわからないけど、無意識に。いいものは良い、悪いものは悪いと瞬間的にいろんなものを判断してビギナーズラックが生まれるとか。違うか

で、どちらかというとそんな跳躍の感覚を感じたときのほうが、よりドキドキする。ちょードキドキする。ような気がする。ガーッっとアドレナリンかなにかが出る感じ。ドバッと出る量が違う。出るのは見たことないけど。

それって、アハ体験で脳内から出ているものと同じような気がするが、ならばそういう経験を多くするほどカシコクなるのだろうか。なんかどうせならそういうふうにしてドキドキしながら賢くなりたいよなあと最近思う。で、希望っていうのも、なんか実体がない言葉で最近いやだなあと思うことがあるのだけど、そんなふうな手触りというか肌感覚がある実体に落とし込めたらいいなあとも思うのである。まる。

「…ぼ、僕は、僕はあの人に勝ちたい」的なのがやっぱね。
ひらめき電球、だからワンピースなのか?。。そうなんだよねえ、現実のロールモデルが見えにくい昨今なのだよなあ。ロクな大人がいないと。申し訳ない。

ミャ-ンガ 笑

ていうか、これがあれか?白泉社というやつなのね、三浦しをんちゃんのエッセイによく出てくる。

はまった。

一気。

で、5巻目。

$ニャンちゅうなブログ-3月のライオン 5

女子マンガ、やっぱり面白い!!

とおもったら男性誌なのね。なのか?

ジブン将棋はできません。小学校の頃、妹に完敗した 笑

二つの希望

錆びついた世界に答えはあるのか
空に広がる無限のレメディ

見え透いた未来に答えはないだろう
何処かへ行くだろう
お前も同じように

というBOMB FACTORYのWaiting For Youの歌詞が最近ずっと心に引っかかっている。

自分が欲しいモノというのが答えという希望。
果たしてそれは希望なのか。
なにかが欲しい場合、それをイメージする。たとえば成功した自分をイメージする。そこにあるモノを一つ一つイメージしながら書きだしてみる。それを得るために今足りないものを挙げていく。優先順位をつける。そしてそれを得るための具体的なステップを考える。期間を決めてマイルストーンを設ける。複数の線表が出来上がる。そして着手する。
そして希望は目的に変わる。

そんな希望。

自分が思ってもいなかったモノが答えという希望。
今はどちらかというとそういう時代だと。
空に広がる無限のrem・e・dy。救済(策) 。
見え透いた未来に答えはねえだろ?
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」という村上龍の『希望の国のエクソダス』。彼の書いたこの小説は好きではないけど、この言葉だけはいつも心のどこかにある。

自分だったらどうするか、いま自分に行き詰っている。
かといって見える世界にもココロが行き詰っている。
見え透いた未来に答えはあるのか?
そんなときに必要なのは果たして何なのだろうか?

きっかけであり、あるモデルプランであり、それを実践するための金銭的な支えとサポート。
たとえば子供たちへの海外ホームステイプランと現地での教育、とか。
たとえば大人たちへの日本の他の地域の農業だったり漁業だったりへの視察と体験プラン、長期研修、とか。あるいは期間を決めての住み込みのアルバイトとか。
たとえば絵や陶芸や料理やピアノなんていうまったくやったことのないことの体験学習とか。
そんなふうに今目先がいかないものを他の自治体が提案して用意するというのが、現在の政党政治に頼らない新しい住民主体の政治なのかもしれないし、あるいは新しいビジネスモデルと雇用の創出につながるかもしれない。

エクソダス - 旧約聖書にある出エジプト記。古代イスラエルも参照。転じて大量の国外脱出をいう。(wikipediaより)
でも出るのは本当は国外ではない。村上龍が言っているのは自分という国の外のことなんだと。各自が各自に自分から脱出する、大量に。そういう意味なんだと思う。

盲人の国では片目でも王になれるのかどうかは知らないが、芸術家に必要なのは新しい視点を見せることで、エガちゃんに和むとか言ってる場合じゃねえだろうとも思うのだが。。まあ、それは彼の問題だからどーでもいいや。問題も希望もいつも自分の中にあって自分の中にしかない。それを見つけるのは結局自分だし、他人が出来るのはそれを見つける手伝いをすることだけで、でもそれが一番の助けなのだと思う。

いつか再び会える
この場所で
I'll be waiting for you, and me
I'll be standing here for you
遠く果てしないこの場所で
遠く果てしないこの場所に
答えはいつでもここにある

Waiting for you
I'll be there


Lyrics JYUN-YA from 『CLOSED』 BOMB FACTORY


希望の国のエクソダス (文春文庫)/村上 龍


CLOSED/BOMB FACTORY