春の二条城
日時:4月10日(日)午後
行った場所:二条城
天気:晴れ
午後である。二条城の桜も満開だとのことで、バスで二条城へ。
で、城内見学。廊下を歩くとキュキュと鳴る。なぜか自分の足元からは聞こえず。前の人の足元で聞こえるような気がする。うぐいす張りってどういう仕組みなのだろうとおもったら、こういうことなのね。
しかし、何部屋あるんだろう。ここでどんな権謀術数が。若手のキレキレの奴とか、とぼけたヤリ手のタヌキ親父とか、バリバリの実務派とか、日本のトップレベルのそんな奴らがいて城内や庭を歩いていたのを想像してみる。そして徳川の殿様と。
徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。
そのときって、やっぱ一番すごかっただろうなあと。なんて思いながら、狩野派のふすま絵やら、すげえ釘隠しやなあとか、欄間って表と裏って彫られてるモノ違うんだぁとか、城内アナウンス(ボタン式)を聞くともなしに聞きながら、薄暗い廊下をひたすら進む。二条城、改めて見るとやっぱスゴイ。この広大さでここまで残っているとそれだけで想像の羽が拡がる。
でも、今調べてみたら、二条城、江戸幕府の始まりと終焉の場所で、その間は使われていなかったらしい。ふーむ、想像空振り 笑
そして、外へ。二条城二の丸庭園。

昔はよく知らなかったのだけど、もう作庭当初の1602年頃の面影はほとんどないらしく。この京都市情報館のサイトは初めてみたけど、
二条城の庭園 - www.city.kyoto.jp
ここまで図や写真付きでまとめられているのは見たことない。やるなあ。すばらしい。

この護岸岩組、ここまでおっ立てることになったのは当初からなのかとか。地割は天龍寺の庭と似ているように思えて、たぶん当初からそこまでは変わってないと思うのだが、やっぱり意識してたのだろうか?奥の滝岩組ってイジったのだろうか?そういうのは作る側にならないとわからない。庭師になりてえなあ。前世で。
で二条城さくらマップ(クリックで飛びます。pdfファイル)
んー?
なんか見てないところがあるような気がする…

で春の京都、桜の旅しゅうりょー
長らくおつきあいありがとうございました。
おしまい。
行った場所:二条城
天気:晴れ
午後である。二条城の桜も満開だとのことで、バスで二条城へ。
で、城内見学。廊下を歩くとキュキュと鳴る。なぜか自分の足元からは聞こえず。前の人の足元で聞こえるような気がする。うぐいす張りってどういう仕組みなのだろうとおもったら、こういうことなのね。
しかし、何部屋あるんだろう。ここでどんな権謀術数が。若手のキレキレの奴とか、とぼけたヤリ手のタヌキ親父とか、バリバリの実務派とか、日本のトップレベルのそんな奴らがいて城内や庭を歩いていたのを想像してみる。そして徳川の殿様と。
徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。
そのときって、やっぱ一番すごかっただろうなあと。なんて思いながら、狩野派のふすま絵やら、すげえ釘隠しやなあとか、欄間って表と裏って彫られてるモノ違うんだぁとか、城内アナウンス(ボタン式)を聞くともなしに聞きながら、薄暗い廊下をひたすら進む。二条城、改めて見るとやっぱスゴイ。この広大さでここまで残っているとそれだけで想像の羽が拡がる。
でも、今調べてみたら、二条城、江戸幕府の始まりと終焉の場所で、その間は使われていなかったらしい。ふーむ、想像空振り 笑
そして、外へ。二条城二の丸庭園。

昔はよく知らなかったのだけど、もう作庭当初の1602年頃の面影はほとんどないらしく。この京都市情報館のサイトは初めてみたけど、
二条城の庭園 - www.city.kyoto.jp
ここまで図や写真付きでまとめられているのは見たことない。やるなあ。すばらしい。

この護岸岩組、ここまでおっ立てることになったのは当初からなのかとか。地割は天龍寺の庭と似ているように思えて、たぶん当初からそこまでは変わってないと思うのだが、やっぱり意識してたのだろうか?奥の滝岩組ってイジったのだろうか?そういうのは作る側にならないとわからない。庭師になりてえなあ。前世で。
で二条城さくらマップ(クリックで飛びます。pdfファイル)
んー?
なんか見てないところがあるような気がする…

で春の京都、桜の旅しゅうりょー
長らくおつきあいありがとうございました。
おしまい。
春の円山公園
前回はちょっと書きすぎたので今日はさらっと。
日時:4月10日(日)正午ごろ
行った場所:円山公園
天気:晴れ
円山公園。確か札幌にも?そっちのほうの桜の見頃はゴールデンウィークあたり?京都のほうはその一カ月前が桜の見頃で。
前回は紅葉の頃ここに来た。小川治兵衛作の庭をゆっくり見たのだが、今回は人が多すぎ。屋台も多すぎで歩けないし、見えない。
なのでしだれ桜のみ。

やっぱり、人の頭がはいってしまう。しかもがっつり 笑
なので載せなかったのだけど、桜の迫力はこっちのほうが出てるでしょ?
が、これじゃ誰かは本人もわからないだろうから載せてしまえと。
ちなみに今回は「枝垂桜が見たい!!!」というテーマだったので、やたら枝垂桜を撮ってます。てか、枝垂桜生まれて初めて見る感じ?
いちおう小川治兵衛について触れておくと、近代日本庭園の礎を築いた人として有名で明治以降だとこの人を超える人はまだ出てない。重森さんとかも有名だけど、この人はもう別格。もともと小川治兵衛というのは屋号で、有名なのはその七代目。ここ円山公園だけでなく琵琶湖疎水を用いて東山周辺の庭園から御所や二条城などいろんな庭園の修景、維持管理を手掛けたお庭屋さんの棟梁。
無鄰菴も観たけど、やはりこの人は滝と川なのだな。まずそこに目が行く。あとは借景。庭の外の景色を庭に自然に取り込んで、周りの景色と渾然となった自然主義的な庭園を造る。枯山水の庭のような自分との対峙を求められる庭でなく、散策して落ちつく庭なのだ。だから、豪商や政治家の人たちに作風が好かれたのもよくわかる。

昔撮った無鄰菴のさしんがあったので貼り付け。芝生の庭園ってやっぱり当時は画期的だったと思う。
小川をくねらせて庭の奥行を出し、東山を借景として取り込んでやわらかな風景を作りだしている。このさしんで、日が当っているのがちょうど東山。おだやかな感じでしょ。池泉廻遊式というより小川廻遊式といったほうがいいのか。小川に沿って散策すると落ちつくのだねえ。
そういえば、平安時代には曲水の宴がひらかれた庭園が京都にもあった筈で、なかなかでもそういう庭園は立地的に作れない。琵琶湖疎水をひき入れようという発想で最初から作ったのだろう。そう考えると政治的な力を使わないとこんな庭は作れない。すげえなあ。
無鄰菴は山縣有朋の別邸で、日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われたと。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎だったと。そんな人たちを会議の前に受け入れる庭なんだなあと。写真だとわかりにくいけど、実際にここに行くと言ってる意味がわかる筈です。
ぬー、結局さらっとはいかなかった…。すんまそん。
次回、最終回。
日時:4月10日(日)正午ごろ
行った場所:円山公園
天気:晴れ
円山公園。確か札幌にも?そっちのほうの桜の見頃はゴールデンウィークあたり?京都のほうはその一カ月前が桜の見頃で。
前回は紅葉の頃ここに来た。小川治兵衛作の庭をゆっくり見たのだが、今回は人が多すぎ。屋台も多すぎで歩けないし、見えない。
なのでしだれ桜のみ。

やっぱり、人の頭がはいってしまう。しかもがっつり 笑
なので載せなかったのだけど、桜の迫力はこっちのほうが出てるでしょ?
が、これじゃ誰かは本人もわからないだろうから載せてしまえと。
ちなみに今回は「枝垂桜が見たい!!!」というテーマだったので、やたら枝垂桜を撮ってます。てか、枝垂桜生まれて初めて見る感じ?
いちおう小川治兵衛について触れておくと、近代日本庭園の礎を築いた人として有名で明治以降だとこの人を超える人はまだ出てない。重森さんとかも有名だけど、この人はもう別格。もともと小川治兵衛というのは屋号で、有名なのはその七代目。ここ円山公園だけでなく琵琶湖疎水を用いて東山周辺の庭園から御所や二条城などいろんな庭園の修景、維持管理を手掛けたお庭屋さんの棟梁。
無鄰菴も観たけど、やはりこの人は滝と川なのだな。まずそこに目が行く。あとは借景。庭の外の景色を庭に自然に取り込んで、周りの景色と渾然となった自然主義的な庭園を造る。枯山水の庭のような自分との対峙を求められる庭でなく、散策して落ちつく庭なのだ。だから、豪商や政治家の人たちに作風が好かれたのもよくわかる。

昔撮った無鄰菴のさしんがあったので貼り付け。芝生の庭園ってやっぱり当時は画期的だったと思う。
小川をくねらせて庭の奥行を出し、東山を借景として取り込んでやわらかな風景を作りだしている。このさしんで、日が当っているのがちょうど東山。おだやかな感じでしょ。池泉廻遊式というより小川廻遊式といったほうがいいのか。小川に沿って散策すると落ちつくのだねえ。
そういえば、平安時代には曲水の宴がひらかれた庭園が京都にもあった筈で、なかなかでもそういう庭園は立地的に作れない。琵琶湖疎水をひき入れようという発想で最初から作ったのだろう。そう考えると政治的な力を使わないとこんな庭は作れない。すげえなあ。
無鄰菴は山縣有朋の別邸で、日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われたと。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎だったと。そんな人たちを会議の前に受け入れる庭なんだなあと。写真だとわかりにくいけど、実際にここに行くと言ってる意味がわかる筈です。
ぬー、結局さらっとはいかなかった…。すんまそん。
次回、最終回。
春の高台寺
日時:4月10日(日)午前
行った場所:高台寺~圓徳院
天気:晴れ
高台寺
高台寺は秋のイメージがある。
大学時代に部活の見学会で、霊屋にも傘亭にもご厚意で入らせて頂いた。内緒だったのだが、もう25年も経つので時効でしょう。そのときも秋だったように思う。けれど釣瓶落としといわれる秋の夕暮れの閉門後だったので、暗い上にあわただしく。須弥壇や厨子の有名な高台寺蒔絵も、傘亭の屋根裏の意匠もまともに見れなかったのが心残りで、でも以来なぜか来る機会がなかった。
この方丈前庭についてはそのとき存在すらしらなかった。

「こんなしだれ桜があったんだ」とかなり驚く。
だが少し盛りを過ぎてて。ズームでこれだけ寄ると緑の葉が見える。ので寄らなかった方を前の日記で載せた。絵的にはこっちの写真のほうが好きなのだが。
なぜか今回もこの方丈前庭しかゆっくり見れず。何かに流されるようにして終わってしまった。期待していた傘亭は改修中。庭園については、あとで小堀遠州作とパンフレットで気づく始末。いったいオレは何を観に行ったのだろう。
清水寺も楓の木が多かったのだが、やはり紅葉の秋にこのエリア、リベンジしなければならない。
圓徳院
圓徳院は高台寺の塔頭で長谷川等伯の絵がある。といってもデジタル複製したものなのだが。写真撮影は禁止なので写真はなし。上の圓徳院をクリックして辿ってください。ようつべご参考(クリックで飛びます)
方丈南庭に面してその『山水図襖』がある。もともとだいぶ傷んでいたので筆致の細かい部分は判読が難しいのだけど、松の幹から根に向けての筆致は有名な『松林図屏風』と同じで掠れてしかも勢いがある。とはいえ、東京国立博物館にある当の『松林図屏風』、見たことはないのだが 自嘲。
結局、この人は余白なんだと思う。しかもその採り方が天才的で。
狩野派が形式化していくに従って、襖絵の背景に金箔を大量に用いてその金箔の余白ででイノチを失っているのとは対照的に。
しかも、桐文様の金箔の上にこれを書くというところがミソで。しかも五七の桐。穿った見方をするとわざわざ住職のいないうちに書いたのは、もともとこの金箔の上に描いて狩野派の鼻をへし折ってやろうとずっと狙ってたのだとも思える。恐ろしく激しい性格だったというので、この狩野派というか永徳へのあてつけという推測、あながち間違ってはいないと思う。
さらに言えば、もともと大徳寺と秀吉の因縁あさはかならぬ関係とかもあって、実は住職は知って五七の桐の上に描かせたと考えるのは行き過ぎだろうか。それが今や北の政所の高台寺の塔頭である圓徳院にあるというのも不思議な気もするし、なんらかの必然があってだろうという気もする。
南庭は昭和の庭なので興味はなく。北庭のほうを。

賢庭作で後に小堀遠州が手を加えたものと云われている。伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したものだとか。建物に似合わない妙に豪壮な庭で。おもいっきり桃山の庭園。今でいえば西本願寺の方丈前あたりにあってもおかしくはない。
高台寺も、傘亭は利休のもので、庭は遠州、遺芳庵と鬼瓦席は灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席と。うーむ、おそろしくバラバラ。統一されてないというか、それが秀吉という人だったのだとも言える。まあ、北の政所のお寺なのだけど。世の征服者というのは世の東西を問わずそういうふうになってしまうンだろうなあ。普通に観光する分にはそれほど違和感はないのだけど、住んでた京都の人は目をひそめただろうなあと。あまりいい趣味ではないのだね。
とはいえ、西本願寺の飛雲閣みたく、秀吉的な折衷様なのだと言われれば、それはそれで力ずくで納得させられてしまうかもしれない。もともと文化っていうのはそうやって他の文化と出会って息を吹き返して発展してきたんだよといわれれば確かにそうだなあと。建物に見合って作られてる南庭よりやはりこちらを選んでしまう。
行った場所:高台寺~圓徳院
天気:晴れ
高台寺
高台寺は秋のイメージがある。
大学時代に部活の見学会で、霊屋にも傘亭にもご厚意で入らせて頂いた。内緒だったのだが、もう25年も経つので時効でしょう。そのときも秋だったように思う。けれど釣瓶落としといわれる秋の夕暮れの閉門後だったので、暗い上にあわただしく。須弥壇や厨子の有名な高台寺蒔絵も、傘亭の屋根裏の意匠もまともに見れなかったのが心残りで、でも以来なぜか来る機会がなかった。
この方丈前庭についてはそのとき存在すらしらなかった。

「こんなしだれ桜があったんだ」とかなり驚く。
だが少し盛りを過ぎてて。ズームでこれだけ寄ると緑の葉が見える。ので寄らなかった方を前の日記で載せた。絵的にはこっちの写真のほうが好きなのだが。
なぜか今回もこの方丈前庭しかゆっくり見れず。何かに流されるようにして終わってしまった。期待していた傘亭は改修中。庭園については、あとで小堀遠州作とパンフレットで気づく始末。いったいオレは何を観に行ったのだろう。
清水寺も楓の木が多かったのだが、やはり紅葉の秋にこのエリア、リベンジしなければならない。
圓徳院
圓徳院は高台寺の塔頭で長谷川等伯の絵がある。といってもデジタル複製したものなのだが。写真撮影は禁止なので写真はなし。上の圓徳院をクリックして辿ってください。ようつべご参考(クリックで飛びます)
方丈南庭に面してその『山水図襖』がある。もともとだいぶ傷んでいたので筆致の細かい部分は判読が難しいのだけど、松の幹から根に向けての筆致は有名な『松林図屏風』と同じで掠れてしかも勢いがある。とはいえ、東京国立博物館にある当の『松林図屏風』、見たことはないのだが 自嘲。
結局、この人は余白なんだと思う。しかもその採り方が天才的で。
狩野派が形式化していくに従って、襖絵の背景に金箔を大量に用いてその金箔の余白ででイノチを失っているのとは対照的に。
しかも、桐文様の金箔の上にこれを書くというところがミソで。しかも五七の桐。穿った見方をするとわざわざ住職のいないうちに書いたのは、もともとこの金箔の上に描いて狩野派の鼻をへし折ってやろうとずっと狙ってたのだとも思える。恐ろしく激しい性格だったというので、この狩野派というか永徳へのあてつけという推測、あながち間違ってはいないと思う。
さらに言えば、もともと大徳寺と秀吉の因縁あさはかならぬ関係とかもあって、実は住職は知って五七の桐の上に描かせたと考えるのは行き過ぎだろうか。それが今や北の政所の高台寺の塔頭である圓徳院にあるというのも不思議な気もするし、なんらかの必然があってだろうという気もする。
南庭は昭和の庭なので興味はなく。北庭のほうを。

賢庭作で後に小堀遠州が手を加えたものと云われている。伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したものだとか。建物に似合わない妙に豪壮な庭で。おもいっきり桃山の庭園。今でいえば西本願寺の方丈前あたりにあってもおかしくはない。
高台寺も、傘亭は利休のもので、庭は遠州、遺芳庵と鬼瓦席は灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席と。うーむ、おそろしくバラバラ。統一されてないというか、それが秀吉という人だったのだとも言える。まあ、北の政所のお寺なのだけど。世の征服者というのは世の東西を問わずそういうふうになってしまうンだろうなあ。普通に観光する分にはそれほど違和感はないのだけど、住んでた京都の人は目をひそめただろうなあと。あまりいい趣味ではないのだね。
とはいえ、西本願寺の飛雲閣みたく、秀吉的な折衷様なのだと言われれば、それはそれで力ずくで納得させられてしまうかもしれない。もともと文化っていうのはそうやって他の文化と出会って息を吹き返して発展してきたんだよといわれれば確かにそうだなあと。建物に見合って作られてる南庭よりやはりこちらを選んでしまう。
春の清水寺
せっかくなので、載せなかったさしんを。
しばらくこの京都シリーズ続けてしまえ。
日時:4月10日(日)午前
行った場所:清水寺
天気:晴れ

清水寺 舞台袖から下方を望む。
音羽の瀧が左に見えます。写真撮った時は気付いてないっす。無意識にそういうのは入れてることが多いです。

清水寺 舞台袖から奥の院を望む。
これは奥の院と桜、手前の欄干と屋根で絵を構成するように立ちました。

清水寺 阿弥陀堂脇から舞台を望む。
木の幹と枝がイイ感じに額縁になる感じだったので。

清水寺 奥の院から舞台を望む。
お約束ですね。

清水寺 西門脇池から三重塔を望む。
これは下に人が入ってて顔がわかるのでブログ用にトリミングしました。トリミングしてない写真は、人が前景になって、最前景が上から掛かる楓の枝になり、中景に桜、その向こうに三重塔を望む感じになります。トリミングは基本しません。その場で位置決めして一瞬で撮るのが快感なので。けど、楓の分量が少し多すぎですね。
人が多いので歩きながら位置決めしてすぐ撮ります。一瞬で撮る気合いがないと逆に写真がダレます。
おまけ
使ったカメラ:PENTAX Optio W90

一眼レフは使えない。使いこなせないっす。子供のときのほうが絞りとかシャッター速度とか知ってたような気がする。
考えてみれば小学校のときオヤジにカメラを借りて撮ったのがはじめてだったけど、よくあのカメラ小学生に貸してくれたなあ。やっぱ、デジカメ買ってあげよう。
しばらくこの京都シリーズ続けてしまえ。
日時:4月10日(日)午前
行った場所:清水寺
天気:晴れ

清水寺 舞台袖から下方を望む。
音羽の瀧が左に見えます。写真撮った時は気付いてないっす。無意識にそういうのは入れてることが多いです。

清水寺 舞台袖から奥の院を望む。
これは奥の院と桜、手前の欄干と屋根で絵を構成するように立ちました。

清水寺 阿弥陀堂脇から舞台を望む。
木の幹と枝がイイ感じに額縁になる感じだったので。

清水寺 奥の院から舞台を望む。
お約束ですね。

清水寺 西門脇池から三重塔を望む。
これは下に人が入ってて顔がわかるのでブログ用にトリミングしました。トリミングしてない写真は、人が前景になって、最前景が上から掛かる楓の枝になり、中景に桜、その向こうに三重塔を望む感じになります。トリミングは基本しません。その場で位置決めして一瞬で撮るのが快感なので。けど、楓の分量が少し多すぎですね。
人が多いので歩きながら位置決めしてすぐ撮ります。一瞬で撮る気合いがないと逆に写真がダレます。
おまけ
使ったカメラ:PENTAX Optio W90

一眼レフは使えない。使いこなせないっす。子供のときのほうが絞りとかシャッター速度とか知ってたような気がする。
考えてみれば小学校のときオヤジにカメラを借りて撮ったのがはじめてだったけど、よくあのカメラ小学生に貸してくれたなあ。やっぱ、デジカメ買ってあげよう。
考えるチカラ
じゃあ、あれだ。無意識だと思う。才能というのは。
身体とか頭への沁み込み方というのは人によってぜんぜん違う。
3才児とかを見てても、「あ、こいつは違うな。」っていうのがわかる。個人差なんてその時点ですでにバリある。
とはいえ、人の能力は仕事とか勉強とかで変わってくる。
けど、それはおもに苦手なものをできるだけ無くしていく訓練のような気がする。学校で学んだ知識がなんの役に立ったのだ?と語る人がいる。実生活で、応仁の乱が、√2が、元素番号がなんの意味があったのか?無駄じゃないのかと。
RVR 大学入試不正問題 HD
インドの技術者でデキル奴は自分の頭で考えられる。それはスゴイとしかいいようがない。けど、できないヤツはインターネットで情報を拾ってこようとする。インドの技術者は情報をフェッチしてくる力が強い。だが、それはLinuxやオープン系の技術に限ってであって、英語文書のほうがそういうのは当然多く。なので70%くらいまで完成すればオッケーな仕事は速い。だが、ホントの仕事は残りの30%を詰めることであって。てか70%で完成だといえる製造の仕事は少なくとも日本にはない。それが彼らには出来ない。基本的にバグ潰しが出来ない。トラブルが起こったときにものをいうのは自分の頭で考える力だ。ズルする奴は最終的に勝てない。
知識を暗記モノだと考えている人は学校の勉強が役に立たないという結論になるのだろう。そういう人は数字を見せられた時点で思考が停止する。それでわかった気になる。権威者に聞いた時点で納得する。教科書には間違いがないと思っている。
基本的に知識というものは、学ぶ姿勢に意味がある。あるいは学ぶ過程で、何故?という思考プロセスを訓練する、あるいは思考プロセスのパターンを増やす、または思考のフレームワークを自分の中で作ったり壊したりする、そういうほうがメインで、知識には付随的な意味合いしかない。歴史の年号にしても、たとえば応仁の乱だって「いつ始まったのか?」というとらえ方でいくつも答えがある。1467年ではない解釈もある。だから暗記される知識自体を後生大事に抱えていてもしょうがない。その年号が解釈で変わるということを知るということが本当の知識だと思う。あるいはそれは「智恵」と呼ぶのかもしれない。
「知識」の主体は他者だが、「智恵」の主体は自分である。
命を他者に預けるのは賢明だとは言えないだろう。
あたりまえのことをあたりまえにできるようになるためにはそういう訓練がどうしても必要だ。訓練するのを逃げた人は結局いつまでたってもそういうレベルでしかない。
だがしかし、才能というのはそれとは違うものだと思う。
努力するとかしないとか以前に、いつのまにか身体に沁み込んでしまっていて。意図する以前に出来てしまう。頭や手が勝手に動く。だが、それも環境によってずいぶん変わる。今の若いコたちを見てると手がゲームやPCや携帯に直結しているというか、手がそのカタチにすでになっている。そういうコたちと自分たちとは身体が既に違うので、常識が違うのはあたりまえ。しょーもない大人多すぎ。何に腹立ててるんだろう?バカぢゃねえかと思う。結局、おまえが適応できてないだけだろと。まあいいや。
なんにせよ、考えるための情報は必要でそのための手段は奪われたくなどない。
身体とか頭への沁み込み方というのは人によってぜんぜん違う。
3才児とかを見てても、「あ、こいつは違うな。」っていうのがわかる。個人差なんてその時点ですでにバリある。
とはいえ、人の能力は仕事とか勉強とかで変わってくる。
けど、それはおもに苦手なものをできるだけ無くしていく訓練のような気がする。学校で学んだ知識がなんの役に立ったのだ?と語る人がいる。実生活で、応仁の乱が、√2が、元素番号がなんの意味があったのか?無駄じゃないのかと。
RVR 大学入試不正問題 HD
インドの技術者でデキル奴は自分の頭で考えられる。それはスゴイとしかいいようがない。けど、できないヤツはインターネットで情報を拾ってこようとする。インドの技術者は情報をフェッチしてくる力が強い。だが、それはLinuxやオープン系の技術に限ってであって、英語文書のほうがそういうのは当然多く。なので70%くらいまで完成すればオッケーな仕事は速い。だが、ホントの仕事は残りの30%を詰めることであって。てか70%で完成だといえる製造の仕事は少なくとも日本にはない。それが彼らには出来ない。基本的にバグ潰しが出来ない。トラブルが起こったときにものをいうのは自分の頭で考える力だ。ズルする奴は最終的に勝てない。
知識を暗記モノだと考えている人は学校の勉強が役に立たないという結論になるのだろう。そういう人は数字を見せられた時点で思考が停止する。それでわかった気になる。権威者に聞いた時点で納得する。教科書には間違いがないと思っている。
基本的に知識というものは、学ぶ姿勢に意味がある。あるいは学ぶ過程で、何故?という思考プロセスを訓練する、あるいは思考プロセスのパターンを増やす、または思考のフレームワークを自分の中で作ったり壊したりする、そういうほうがメインで、知識には付随的な意味合いしかない。歴史の年号にしても、たとえば応仁の乱だって「いつ始まったのか?」というとらえ方でいくつも答えがある。1467年ではない解釈もある。だから暗記される知識自体を後生大事に抱えていてもしょうがない。その年号が解釈で変わるということを知るということが本当の知識だと思う。あるいはそれは「智恵」と呼ぶのかもしれない。
「知識」の主体は他者だが、「智恵」の主体は自分である。
命を他者に預けるのは賢明だとは言えないだろう。
あたりまえのことをあたりまえにできるようになるためにはそういう訓練がどうしても必要だ。訓練するのを逃げた人は結局いつまでたってもそういうレベルでしかない。
だがしかし、才能というのはそれとは違うものだと思う。
努力するとかしないとか以前に、いつのまにか身体に沁み込んでしまっていて。意図する以前に出来てしまう。頭や手が勝手に動く。だが、それも環境によってずいぶん変わる。今の若いコたちを見てると手がゲームやPCや携帯に直結しているというか、手がそのカタチにすでになっている。そういうコたちと自分たちとは身体が既に違うので、常識が違うのはあたりまえ。しょーもない大人多すぎ。何に腹立ててるんだろう?バカぢゃねえかと思う。結局、おまえが適応できてないだけだろと。まあいいや。
なんにせよ、考えるための情報は必要でそのための手段は奪われたくなどない。