象の夢を見たことはない -178ページ目

ス・キ・ヤ・キ

早く寝過ぎてこんな時間に起きてしまった。

チキン・ウィング・フェイスロック

こんなメンドクサイ技をフィニッシュホールドにするなんて、今じゃ考えられないのだが。当時はまだ、マンガちっくな技がカッコいい的なプロレスのへその緒がついていたUWF。

型にこだわると本質から外れて『形骸化』する。
当時、スポコン漫画にはだいたい必殺技があったのだがアレの影響なのだろうか。
とはいえ、古柔術やら能やらにも型があったなあと。

でも、今wikipediaで『能』を見てみたらこんなことが書いてあった。

能の技法
所作(型と舞)
能は型(演技等の様式、パターン)によって構成されている。所作、謡、囃子、全てに多様な型がある。 しかしここでいう型は、いわゆる舞や所作の構成要素としての型である。これらの型の成立の経緯についてははっきりしないが、梅若猶彦は型の出現を江戸期、型が安定的に継承されるようになったのは昭和期ではないかと推測している。型が出現した理由として梅若は、身体動作に名前を付けることで学習が効率的になるということを挙げている。また梅若は、現代の能においてはこれらの型が必要以上に重視され、一種の信仰の対象のようになっていることの弊害も指摘し、世阿弥の著述からは型への信仰は窺えないこと、重要なのは役者が自分の内面と身体の関係を自由にコントロールできる能力を身に付けることであり、型の学習のみではそれは不可能なことを指摘している。


チキン・ウィング・フェイスロックにしろ、実はこういう歴史があったようで。

ペッパー・マーチンのチキン・ウィング・フェース・ロック(クリックで飛びます)

アメリカでは日本のように技の呼称にこだわることはほとんどないようで、ガニアは「あの技もスリーパーと呼ぶんだよ。」と後に説明している。

というところがすごく興味深い。
ちなみにUWFで、ビデオに「神様」のテロップが出るゴッチ氏も技の名前などどうでもよく。「今のは、なんていう技ですか?」と聞いても、このガニアと同じような答えをしていたと。結局、当時ゴッチに習っていたUWFの先輩が若手にそれを伝えるのに効率的なように技に名前をつけて、それで呪縛にハマった。そんなとこだろうと思う。

昭和という時代は結構罪深いのかもしれない。
生きた知識に名前や型なんてなく。

G4Nふたたび

G4Nが中国ツアーやっているのだが、そのD.I.Yな様子がブログに。

インドの会社で働いてた日本語教師の知人が、おととし中国の大学で日本語教えててどんな感じか話には聞いてたけど、やっぱインドと変わんねえなあと。
うかうか生きてなんていられない土地らしく。
そしてそういうのは、体験しないとぜってーわからん。

たぶん話し出したらキリがないレベルのことを経験してると思うのだが、その片鱗が5月4日の記事や同日のU-tan's Picsに。

すげえ。
記事読んでるだけでアガル。
ロックスターや!!!
現場主義や!!!
洗濯は手洗いや!!!

苦労してハジけて。
そういうのはライブ会場で肌でわかるもんやし、だからみんな集まんねん。
人が人を感じる力っていうのは、もう持って生まれた直観みたいなもんやし。
自宅から出ずに想像だけで書いた詩には力なんてあらへん。
そんなん聞いたらすぐわかる。

なんで年老いた作家の文章はこんな年寄り臭くなるんやろう?
力が全然感じられへんし。ミズミズしさもない。
と思ってたんやけど、若くてもそんな文章の人もいると最近気がついた。
その作家はテクニックでカバーできると思ってるらしかったけど、人の目はそんな生易しいもんと違う。一時は騙せても、すぐ底が割れる。
外に出なくなったやつ、楽することを考えてるやつ、逃げてばかりのやつ。
そういうのは相手にはすぐわかる。

だから、外に出ないかんのじゃぁぁぁー!!!
生きろ、オレ!!!
行け、オレ!!!
そして死んでこい、オレ!!!

と強く自分に言い聞かせる。

考えるヒント

朝ガバッと起きた。
書き過ぎだ。バランスがとれねえなあと。

そういえば、小林秀雄に『信ずることと知ること』があった。
迷ったときは、小林秀雄なのだ。ありがたい。

で、前に書いたブログをもう一度読み直してみた。

科学的な経験というものが、人間の経験というもののすべてではない。人は何かを信ずるものだが、その信じるもののなかに人間の経験というものがある。人間の経験というものはもっと豊かなものだ。もっと戦慄すべきものだったりもする。

異常体験であれ、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験したことであるという、経験を尊重するしっかりした態度。自分の経験した直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬ。柳田国男さんの学問とはそういうもので、私はそれに感銘を受けた。

そんなことが書いてあったなあと。
いやいや、やはり現場主義たるもの、原典にあたらねばなるまいと。
もう一度読み直してみた。

考えるヒント 3 (文春文庫 107-3)/小林 秀雄

¥520
Amazon.co.jp

ぬぬぅ、やはり小林秀雄、噛めば噛むほど味が出る。
抜き出した一文ではとうてい未来の自分にさえ何も伝えられないことに気付く。
彼が言っていることが正しいという意味ではなく。

考えるヒント。
どうしてこの本はこんなナイスな題名なのだろう。
めんどくさがってたら何も得られない。
現場主義、イェス!!

ジャスト・ア・スペック

レプリカントの視点で世界を眺める。

意識はスペックに過ぎない。
創発は簡単に起こる。ある一定の神経状組織が増殖し、自己組織化することによりそのスペックが実現されている。そんなふうな視点から人間を振り返ると、もはや人間とレプリカントの違いはない。ただ、記憶を除いて。

記憶とはなんだろう。
自己が自己であるための拠り所となるアイデンティティなのか?
ならば記憶を失った人間にアイデンティティはないのか?
そうではないだろう。それは記憶の一部が消えているだけだからだ。無意識に刷り込まれた手続き記憶は体が覚えている。だからコーヒーも飲めるし、パンツをおろしておしっこもできる。

赤ちゃんのころから成長するにしたがって手に入れたそれらと意識とは別物だ。
意識というのは、ならばいったい?
意識というのはやはり脳が造り出した自己創発のかたまりで、自我はそれが記憶と結びついた幻影に過ぎない。

なんてことを考えると、魂なんてないという結論へ。
そういう考えを頭で持つのと実際にそれが心で納得できるかというのは別の話。
繰り返しSFの世界で主題となった生命の定義は、哲学的な地平からは決して拝むことができない。それは、そういう心の壁があるからで。

WHYとHOW。科学ができるのはHOWに対して答えるだけだ。
だがしかし、それが心が答えの邪魔をする人に出来る唯一の王道で。

HOWを突き詰めていくことで得られる事物の影がWHYに対する答えだ。その影から正確な形を推定することができるだけで、人にできるのは結局そこまでだ。
ならば、とことんまで世界を見てやろうじゃないか。科学者ではないけど 笑
おのれに与えられた意識というスペックで。

というところで意見がまとまった。
魂を否定してもオイラは生きようとするらしい。
それで正解なのだと思う。
としておこう。

そしてライブに行ってやる。
現場主義。イェス。

おいてけ堀

なんだ、Never Too Lateあるじゃん。

なのでプラグイン書きかえてやった 笑

置いてきぼり喰らうくらいのチェンジ・オブ・ペース。

最近そういうのがないとつまらん。

27からの切り返しがたまらんわ。