『ホーキング、宇宙と人間を語る』 スティーブン・ホーキング
やっと読み終わった。
ホーキング、宇宙と人間を語る/スティーヴン ホーキング

¥1,890
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人にわかりやすいように喋るとか、相手が興味を持ちやすい表現方法があって。
自分がどのように興味を持ったのかとか、どういう道筋で考えたとか、それでどう動いたとか、過去の自分に追随していくカタチで話すと、結局自分の言葉で話すことになり、聞き手もわかりやすいし、興味を持ちやすい。自然にその人の考えの流れの中に入りやすいわけで。
宇宙と人間ってずいぶん離れていると思うのだがだいじょうぶなのか?と思っていたけど、そんなふうに宇宙から人間へというのが彼の思考のなかでシームレスに。その部分を読んでいて、頭のいい人っていうのは説明がうまいけど、自分に対して正直であることもその条件なのだと。ふとそう思った。
自分に正直であり続けるということは非常に困難なことで、逃げたりごまかしたりすると論理はそこで破綻する。だから、ずっと逃げずにわからないことに向かい合わないといけない。タフな人なのだ。
難しいことをわかりやすく話すということに対して偏見があったのだが、ほんとに理解できている人にしかそれはできないことなのだということも思い知ったわけで。
まあそれはそうと。
いままで自分が疑問に思ったり、考えたりしてたことがこの本を読んだあとすぅーと彼が示したラインの上に降りてきて。バラバラに考えてたいろいろなことが一つにつながった。ものの見方が変わる瞬間。快感!!
さて、これでやっと「お風呂でプラネタリウム」が買える。ぬはは。
関係ないけど、この本のなかにアインシュタインとファインマンの話が出てくる。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として量子力学と相対性理論が挙げられるのだが、ファインマンは量子力学者のほう。そのファインマン、横に貼り付けてあるカール・セーガンの「Symphony of Science」でボンゴをぶったたいています。
「創発」とか「自由意思」とか、池谷裕二氏の『複雑な脳、単純な「私」』の中には、「なんのために人は生きているのだろう?」と考えたことがある人にとっては、かなり衝撃的なことが書かれていて、それが腹の中に落ちた石みたいになってしまっていたのだが、この本を読んで、宇宙から人間へといたる道筋で彼によって提示された事実によって少し楽になったような気がする。
とはいえ、完全にそっちのほうに頭が逝ってしまった。ぬぬぅ。しばらくまともな本は読めなさそう。現実味のない小説でも読むか。
ホーキング、宇宙と人間を語る/スティーヴン ホーキング

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人にわかりやすいように喋るとか、相手が興味を持ちやすい表現方法があって。
自分がどのように興味を持ったのかとか、どういう道筋で考えたとか、それでどう動いたとか、過去の自分に追随していくカタチで話すと、結局自分の言葉で話すことになり、聞き手もわかりやすいし、興味を持ちやすい。自然にその人の考えの流れの中に入りやすいわけで。
宇宙と人間ってずいぶん離れていると思うのだがだいじょうぶなのか?と思っていたけど、そんなふうに宇宙から人間へというのが彼の思考のなかでシームレスに。その部分を読んでいて、頭のいい人っていうのは説明がうまいけど、自分に対して正直であることもその条件なのだと。ふとそう思った。
自分に正直であり続けるということは非常に困難なことで、逃げたりごまかしたりすると論理はそこで破綻する。だから、ずっと逃げずにわからないことに向かい合わないといけない。タフな人なのだ。
難しいことをわかりやすく話すということに対して偏見があったのだが、ほんとに理解できている人にしかそれはできないことなのだということも思い知ったわけで。
まあそれはそうと。
いままで自分が疑問に思ったり、考えたりしてたことがこの本を読んだあとすぅーと彼が示したラインの上に降りてきて。バラバラに考えてたいろいろなことが一つにつながった。ものの見方が変わる瞬間。快感!!
さて、これでやっと「お風呂でプラネタリウム」が買える。ぬはは。
関係ないけど、この本のなかにアインシュタインとファインマンの話が出てくる。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として量子力学と相対性理論が挙げられるのだが、ファインマンは量子力学者のほう。そのファインマン、横に貼り付けてあるカール・セーガンの「Symphony of Science」でボンゴをぶったたいています。
「創発」とか「自由意思」とか、池谷裕二氏の『複雑な脳、単純な「私」』の中には、「なんのために人は生きているのだろう?」と考えたことがある人にとっては、かなり衝撃的なことが書かれていて、それが腹の中に落ちた石みたいになってしまっていたのだが、この本を読んで、宇宙から人間へといたる道筋で彼によって提示された事実によって少し楽になったような気がする。
とはいえ、完全にそっちのほうに頭が逝ってしまった。ぬぬぅ。しばらくまともな本は読めなさそう。現実味のない小説でも読むか。
音楽と記憶
以下固い文章で、しかも長文。
なので携帯からの人はご注意ください。
日本の心理学科は文学部や教育学部から派生している。
現象的に心理を捉えるため、システム的、系統的、階層的な視点が弱く、このため教科書をみても、個々の現象を大まかにグルーピングしてまとめただけで、あっちへ飛び、こっちへ飛び、体系的にまとまってないことが多い。全体を貫く軸がなく、コアや型を構成する力が弱い。
一方、アメリカの心理学科は、より理系に近い。そのため、最初に概念的な理解を要求され、章が進むとそれが符号として扱われ、さらにその符号が階層的に構成されているので、結構読むのに骨が折れる。何度も前の章に戻って確認して自分の中で明確な論理を構築していかなければ理解できない。
しかし、明快なプリンシプルに立って構成されている(逆にそれがないと崩れる)ので、一旦理解すれば応用が効く。フレームワーク化しやすい。自分の中にも枠組みが作られるので、事に出会ったときにその事象の成り立ちを理解しやすくなる。そして、これが最も大きなことだけど、その理解はただその分野に留まらない。
他の多くの学問についても、日本そういう傾向があるらしく。理系の本も結構同じ。各論だけさらってる感じ。読んだ後、その部分だけはなんとなくわかるけど全体が見渡せない。そんな本がやたら多い。雑学は結局雑なだけ。なんだかプカプカ浮いてる。最近は『古事記』の国産みを思い浮かべてしまう。矛で渾沌とした海をかき混ぜると島が出来ました的な。なんだろうなあ。実は自分もそうなのだ。だから余計にそう感じる。まあ、人にもよるのだろうけど。
著者のボブ・スナイダー氏は、大学の教授でもないし有名でもない。インディアナ大学で音楽理論を、ルーズヴェルト大学で音楽理論と電子音楽を学んだ。それだけの人なのだが。
なんどもこのブログで紹介しているけれど、
脳科学に興味があって池谷裕二氏の本を読む人にはお勧め。池谷氏の本よりかなり固いけど。
「なぜ音楽は感情に訴えるのだろう?」という疑問を持って、日本人が書いた本をいろいろ読んだけどどうも煙にまかれているとしか感じられなかった。この本を読んでも、結局それはわからないのだが、知覚とその処理の観点で、どんなふうに音を処理していくのかを、すくなくともこれまで読んだどんなその種の本より階層的かつシステマチックに説明されるので、論理的な明快さがあり納得しやすい。
論理的な明快さがある文章は、おのずとある単位でユニット化されているので、そのユニットの知識を自分の中で組み合わせたり整理したりしやすい。つまり二次利用しやすいわけで。
結局、そうゆうふうにユニットを積み上げようとすると、論理的に整合性があわないものは淘汰されていく。抜けているパーツやいい加減なパーツはその段階で判明する。理解するということの本質とはそういうことだと思う。プリンシプルというのは、実はこの作業そのもので。考え抜くこと、その作業自体を指す。抽象的な概念などではない。
関連する研究や事象をならべて、あとはおまかせなんていうひどい本が日本のこういう類いの本には多過ぎ。プリンシプル無さすぎ。もういいかげん勘弁してほしい。
教科書なのでかなり高いけど、何冊も日本の人文科学系の著者の本を買って結局無駄になるのと較べれば安いと思う。わざわざ買わなくても、図書館で借りれるだろうし。
以下、『音楽と記憶』より抜粋。
音楽と記憶―認知心理学と情報理論からのアプローチ/ボブ スナイダー

¥4,410
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すべての生物は、生き延びるために、外界から入ってくる情報のどれが自分たちの生存に関係があるかを判断して、膨大な情報を縮小しなくてはならない。このことを成し遂げる基本的なメカニズムの一つが、カテゴリー化である。知覚と意味記憶の中心的なメカニズムであるカテゴリー化は、記憶の主要な基盤である。
<知覚的カテゴリー>
知覚的カテゴリーは、その一部が知覚システムに組み込まれたボトムアップによる識別で、知覚の初期の段階でわれわれの感覚的入力に直接に働き、その入力信号の特徴を抽出する。
たとえば音の高さや大きさなどの基本的な特徴は、聴覚的カテゴリー化のレベルで知覚される。その特徴は、聴覚器官からの刺激と聴覚的カテゴリーにより特徴的素性となる。
<概念的カテゴリー>
知覚的カテゴリーが、主としてわれわれの感覚に刺激を与えるエネルギーのパターンを分割する処理であるのに対し、概念的カテゴリーは(長期記憶と関連して)、知覚的カテゴリー化によって設定された知覚的グループを認識し、一般化する処理である。
知覚的カテゴリー化が単独の事象を扱うのに対し、概念的カテゴリー化は別々に起こった事物や対象の記憶を互いに結びつける。
概念的カテゴリーは、生命体の記憶や価値観との関係によって設定される。したがって、概念的カテゴリーは個人によって異なり、個人の歴史に応じて多様である。概念的カテゴリーは常に過去と関連している。
概念的カテゴリーは必ずしも言語と等しくないし、また必ずしも言語に依存していないことに留意してほしい。概念的カテゴリーの多くは言語における単語と関連しているが、言語に先んじて存在している。

純音の周波数変化に対する脳波パワースペクトルの応答(PDFファイル)
音は心の中で音楽になる。認知理論的な視点で入力パラメタを変えながら、生体工学や脳生理学で検証されるべき問題で、日本の心理学だと何世紀たっても答えなどでないと思う。
なので携帯からの人はご注意ください。
日本の心理学科は文学部や教育学部から派生している。
現象的に心理を捉えるため、システム的、系統的、階層的な視点が弱く、このため教科書をみても、個々の現象を大まかにグルーピングしてまとめただけで、あっちへ飛び、こっちへ飛び、体系的にまとまってないことが多い。全体を貫く軸がなく、コアや型を構成する力が弱い。
一方、アメリカの心理学科は、より理系に近い。そのため、最初に概念的な理解を要求され、章が進むとそれが符号として扱われ、さらにその符号が階層的に構成されているので、結構読むのに骨が折れる。何度も前の章に戻って確認して自分の中で明確な論理を構築していかなければ理解できない。
しかし、明快なプリンシプルに立って構成されている(逆にそれがないと崩れる)ので、一旦理解すれば応用が効く。フレームワーク化しやすい。自分の中にも枠組みが作られるので、事に出会ったときにその事象の成り立ちを理解しやすくなる。そして、これが最も大きなことだけど、その理解はただその分野に留まらない。
他の多くの学問についても、日本そういう傾向があるらしく。理系の本も結構同じ。各論だけさらってる感じ。読んだ後、その部分だけはなんとなくわかるけど全体が見渡せない。そんな本がやたら多い。雑学は結局雑なだけ。なんだかプカプカ浮いてる。最近は『古事記』の国産みを思い浮かべてしまう。矛で渾沌とした海をかき混ぜると島が出来ました的な。なんだろうなあ。実は自分もそうなのだ。だから余計にそう感じる。まあ、人にもよるのだろうけど。
著者のボブ・スナイダー氏は、大学の教授でもないし有名でもない。インディアナ大学で音楽理論を、ルーズヴェルト大学で音楽理論と電子音楽を学んだ。それだけの人なのだが。
なんどもこのブログで紹介しているけれど、
脳科学に興味があって池谷裕二氏の本を読む人にはお勧め。池谷氏の本よりかなり固いけど。
「なぜ音楽は感情に訴えるのだろう?」という疑問を持って、日本人が書いた本をいろいろ読んだけどどうも煙にまかれているとしか感じられなかった。この本を読んでも、結局それはわからないのだが、知覚とその処理の観点で、どんなふうに音を処理していくのかを、すくなくともこれまで読んだどんなその種の本より階層的かつシステマチックに説明されるので、論理的な明快さがあり納得しやすい。
論理的な明快さがある文章は、おのずとある単位でユニット化されているので、そのユニットの知識を自分の中で組み合わせたり整理したりしやすい。つまり二次利用しやすいわけで。
結局、そうゆうふうにユニットを積み上げようとすると、論理的に整合性があわないものは淘汰されていく。抜けているパーツやいい加減なパーツはその段階で判明する。理解するということの本質とはそういうことだと思う。プリンシプルというのは、実はこの作業そのもので。考え抜くこと、その作業自体を指す。抽象的な概念などではない。
関連する研究や事象をならべて、あとはおまかせなんていうひどい本が日本のこういう類いの本には多過ぎ。プリンシプル無さすぎ。もういいかげん勘弁してほしい。
教科書なのでかなり高いけど、何冊も日本の人文科学系の著者の本を買って結局無駄になるのと較べれば安いと思う。わざわざ買わなくても、図書館で借りれるだろうし。
以下、『音楽と記憶』より抜粋。
音楽と記憶―認知心理学と情報理論からのアプローチ/ボブ スナイダー

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すべての生物は、生き延びるために、外界から入ってくる情報のどれが自分たちの生存に関係があるかを判断して、膨大な情報を縮小しなくてはならない。このことを成し遂げる基本的なメカニズムの一つが、カテゴリー化である。知覚と意味記憶の中心的なメカニズムであるカテゴリー化は、記憶の主要な基盤である。
<知覚的カテゴリー>
知覚的カテゴリーは、その一部が知覚システムに組み込まれたボトムアップによる識別で、知覚の初期の段階でわれわれの感覚的入力に直接に働き、その入力信号の特徴を抽出する。
たとえば音の高さや大きさなどの基本的な特徴は、聴覚的カテゴリー化のレベルで知覚される。その特徴は、聴覚器官からの刺激と聴覚的カテゴリーにより特徴的素性となる。
<概念的カテゴリー>
知覚的カテゴリーが、主としてわれわれの感覚に刺激を与えるエネルギーのパターンを分割する処理であるのに対し、概念的カテゴリーは(長期記憶と関連して)、知覚的カテゴリー化によって設定された知覚的グループを認識し、一般化する処理である。
知覚的カテゴリー化が単独の事象を扱うのに対し、概念的カテゴリー化は別々に起こった事物や対象の記憶を互いに結びつける。
概念的カテゴリーは、生命体の記憶や価値観との関係によって設定される。したがって、概念的カテゴリーは個人によって異なり、個人の歴史に応じて多様である。概念的カテゴリーは常に過去と関連している。
概念的カテゴリーは必ずしも言語と等しくないし、また必ずしも言語に依存していないことに留意してほしい。概念的カテゴリーの多くは言語における単語と関連しているが、言語に先んじて存在している。

純音の周波数変化に対する脳波パワースペクトルの応答(PDFファイル)
音は心の中で音楽になる。認知理論的な視点で入力パラメタを変えながら、生体工学や脳生理学で検証されるべき問題で、日本の心理学だと何世紀たっても答えなどでないと思う。
村上春樹とカフカ
実はカフカを読んだことがないのである。
『変身』は3ページくらい読んだ。
合わないと思ってそれ以来手に取ることがなかった。
『海辺のカフカ』。
なぜカフカが出てくるのかわからなかった。村上春樹がなぜカフカにこだわるのか。そして彼がこの作品を大事にしていることの意味がわからなかった。自分的には、この物語の二重構造は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の焼き直し、それも少し質のわるい焼き直しにしか思えなかったから。
『村上春樹 雑文集』を読んで、なぜカフカ賞なのか。なぜこの本の題名が『海辺のカフカ』なのか。やっとその意味がわかった。そしてフランツ・カフカ賞を受けることになった意味と、彼をこの賞に選んだチェコの人たちのほうが、自分よりよほど村上春樹の本質に近かったことも。(どうでもいいけど、ここまで執拗に書くとフカフカと読めてしまう。)
村上春樹 雑文集/村上 春樹

¥1,470
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カフカ賞を受賞したとき、チェコの新聞社が彼の小説のオープンエンド性について尋ねているのだが、彼の答えは従来通りのもので。逆になぜチェコの新聞社の人がわざわざそれを尋ねたのかがわからなかった。
『城』を読んでなかったので、どういう物語かを調べようとしてすぐ松岡正剛の千夜千冊『城』フランツ・カフカに行きあたった。まったく…この人はいったい?
『城』の主人公は測量技師のKである。
Kは、ある城の伯爵に測量のために招かれたはずなのだが、その霧深い村だか町だかに訪れたそのときから、いっこうに城のありかがわからない。
城はすぐ近くにあるのに、まことに遠い。
そうか、『城』ってそういう物語なのか。
そして正剛氏の文の中に「なぜカフカ賞なのか?」その答えが書かれていた。
ボルヘスは、これではカフカの物語は必ず未完におわると決めつけた。障害性が物語のプロットをつくるはずなのに、その障害性そのものが作品の本質であるとすれば、その物語はつねに未完でなければならないからだ。
ガッツーン。
「障害性そのものが作品の本質であるとすれば、その物語はつねに未完でなければならない」
頭をなぐられちまった。なんだこの啓示。やられた。バタン(←倒れる音)
しかも、さらに正剛氏に追い打ちをかけられた。
しかし、大騒ぎをしたところで、物語はなにも語らない。おまけにカフカはそのことについて説明もしなかった。そこにはただ、「届かないこと」「伝わらなかったこと」、そして「はじめからなかったかもしれなかったこと」だけが、ある。
が、そのことが衝撃だったのである。
そのように「文学」や「作品」をつかうことがなかったためだった。それはロレンス・スターンもおもいつかなかったことで、そしてアンディ・ウォーホルが真似したことだった。
カフカが『城』で何をしたかといえば、「方法」を残したのである。
蓮實氏が「村上春樹の書くものは小説でない。彼がなにをしようとしているかわからない。」といった答えは、こんなところで正剛氏がすでにあたりまえのように持っていた。しかもアンディ・ウォーホルまで。あー、まったく…。まったくもって、この人には敵わない。キュー(←気絶)
余談だが、『変身』を読もうとしたのは高校生のときで、筒井康隆あたりが絶賛していて、これはSFだと。で、彼の日本SFベスト集成(全6冊)の中に山野浩一の「メシメリ街道」という短編が入っている。その短編、この『城』に似ている。メシメリ街道を横切って、すぐ前に見えている隣町へ行きたいのだけど、車の往来が多くて横切れない。夢の中にいるようにぼんやりしていて、しかも閉じ込められている。この短編はひじょうにコワかったのでよく覚えているのだが、なんだかそういう物語の系譜というのは人にとって根源的なものなのだろうと思う。世界の果てと夢の果てが繋がっているというか…。ある意味膨張する宇宙の果てのその先に何があるということがうまく人には想像できないことともなぜか少し似ているような気がする。人の限界というのはそういうとこで、それを本質的に人は知っているのだろう。
『変身』は3ページくらい読んだ。
合わないと思ってそれ以来手に取ることがなかった。
『海辺のカフカ』。
なぜカフカが出てくるのかわからなかった。村上春樹がなぜカフカにこだわるのか。そして彼がこの作品を大事にしていることの意味がわからなかった。自分的には、この物語の二重構造は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の焼き直し、それも少し質のわるい焼き直しにしか思えなかったから。
『村上春樹 雑文集』を読んで、なぜカフカ賞なのか。なぜこの本の題名が『海辺のカフカ』なのか。やっとその意味がわかった。そしてフランツ・カフカ賞を受けることになった意味と、彼をこの賞に選んだチェコの人たちのほうが、自分よりよほど村上春樹の本質に近かったことも。(どうでもいいけど、ここまで執拗に書くとフカフカと読めてしまう。)
村上春樹 雑文集/村上 春樹

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カフカ賞を受賞したとき、チェコの新聞社が彼の小説のオープンエンド性について尋ねているのだが、彼の答えは従来通りのもので。逆になぜチェコの新聞社の人がわざわざそれを尋ねたのかがわからなかった。
『城』を読んでなかったので、どういう物語かを調べようとしてすぐ松岡正剛の千夜千冊『城』フランツ・カフカに行きあたった。まったく…この人はいったい?
『城』の主人公は測量技師のKである。
Kは、ある城の伯爵に測量のために招かれたはずなのだが、その霧深い村だか町だかに訪れたそのときから、いっこうに城のありかがわからない。
城はすぐ近くにあるのに、まことに遠い。
そうか、『城』ってそういう物語なのか。
そして正剛氏の文の中に「なぜカフカ賞なのか?」その答えが書かれていた。
ボルヘスは、これではカフカの物語は必ず未完におわると決めつけた。障害性が物語のプロットをつくるはずなのに、その障害性そのものが作品の本質であるとすれば、その物語はつねに未完でなければならないからだ。
ガッツーン。
「障害性そのものが作品の本質であるとすれば、その物語はつねに未完でなければならない」
頭をなぐられちまった。なんだこの啓示。やられた。バタン(←倒れる音)
しかも、さらに正剛氏に追い打ちをかけられた。
しかし、大騒ぎをしたところで、物語はなにも語らない。おまけにカフカはそのことについて説明もしなかった。そこにはただ、「届かないこと」「伝わらなかったこと」、そして「はじめからなかったかもしれなかったこと」だけが、ある。
が、そのことが衝撃だったのである。
そのように「文学」や「作品」をつかうことがなかったためだった。それはロレンス・スターンもおもいつかなかったことで、そしてアンディ・ウォーホルが真似したことだった。
カフカが『城』で何をしたかといえば、「方法」を残したのである。
蓮實氏が「村上春樹の書くものは小説でない。彼がなにをしようとしているかわからない。」といった答えは、こんなところで正剛氏がすでにあたりまえのように持っていた。しかもアンディ・ウォーホルまで。あー、まったく…。まったくもって、この人には敵わない。キュー(←気絶)
余談だが、『変身』を読もうとしたのは高校生のときで、筒井康隆あたりが絶賛していて、これはSFだと。で、彼の日本SFベスト集成(全6冊)の中に山野浩一の「メシメリ街道」という短編が入っている。その短編、この『城』に似ている。メシメリ街道を横切って、すぐ前に見えている隣町へ行きたいのだけど、車の往来が多くて横切れない。夢の中にいるようにぼんやりしていて、しかも閉じ込められている。この短編はひじょうにコワかったのでよく覚えているのだが、なんだかそういう物語の系譜というのは人にとって根源的なものなのだろうと思う。世界の果てと夢の果てが繋がっているというか…。ある意味膨張する宇宙の果てのその先に何があるということがうまく人には想像できないことともなぜか少し似ているような気がする。人の限界というのはそういうとこで、それを本質的に人は知っているのだろう。
再結成?全然ありだと思う…
4/22 fri. 名古屋 CLUB UPSET
『新宿心音会板谷祐と高木フトシの唄宴~名古屋編~』
高木フトシ / 新宿心音会板谷祐
というやつである。
いや、なにこの二人の世界?という感じで。
赤いライトの板谷祐
青いライトの高木フトシ
両者一歩も譲らず的な。
かといってスラットvsバシベという構図でなく。
新宿心音会板谷祐 vs 高木フトシ
だったわけで。
ていうかこの会場の一体感はなんなんだ?
みょーにアットホームだし。川崎は行ったことないのだが毎回こんな感じなのだろうか。ええなあ。今では名古屋でも毎度のことになってる気もするが、今日は特にそう感じた。
まずは板谷氏。
とにかく、LCシリーズをこれだけまとめて聞けて感無量。
当初DVDを買うつもりだったのだが、新宿心音会5周年ということで

なぜかTシャツに化けてしまった。
ZI:KILLもCRAZEも知らない。なので新宿心音会の板谷祐しか知らない。
根っからの唄歌い、それがこの人の良さなのでそれはそれでいいと思っていたのだが、LC24を聴いていて、「あぁ、この人はホントはこういう曲を作るのか」と。スラットは5月から怒涛のように夏の終わりまで行きそうな気配なのだが、板谷祐の曲をバンドで聞きたいなあと。この曲を聴いていてふとそう思った。#0022じゃない方のLCというか…。
あいかわらず、なんだか生きた歌を歌う。今、そこにあるせつなさとか気持ちとか。歌声とともにその時は流れ去ってしまう。生きているので掴めない。ちゃんと生きていない今の自分には流れ去っていくそれがやたらに眩しい。
そしてフトシ氏である。
こないだの新宿LOFTのUSTREAMで鴉空をはじめてがっつり見た。
そうかこんな感じなのかと。
しかし、ベースが足りないのだよ、どうあっても。そのあたりの感想があり。
BOØWYを氷室氏が単独で。実は沈黙してた布袋氏もホントはやりたかったというのもあり。
なんだかMCで八田氏の話をするわけである。高校時代は二人だけ金髪でやたら悪いヤツだと近所で評判だったとか。彼女に呼び出されて、「昨日、女の人と歩いてたでしょ!」と詰問されたとか。そりゃ思うわなあ。HATEのPV見ていても、「オレってその気があるのだろうか…ちょっとヤバイなあ」と思ってしまうくらいなので、高校の時なんかは余計だったろうと。
でHATEのCHAIRをやるつもりだったらしいけど、新聞に翌日それを一人で演ったと書かれたら、八田くんが布袋氏のように泣くかもしれんからヤラナイと。わざわざそういうわけである。
ああ、そういうことかと。
この場にいた人間はそうブログに書けと。ツイッターでそう呟けと。
いうことだなと。
オレはHATEをやりてえと。素直にそういやいいのにねえ。
GHEEEがアルバム出したので、そのツアーでYANA氏は忙しくてかまってくれないし、バシベはスラットやってる間はないし、オレのこの高ぶるロック魂をどうしてくれるんだと。
(んなことはひと言も言ってないのだが)
いうことらしいので、オイラの日記にはそう書いておこう。まる。
ていうか、今なら違ったカタチのHATE HONEYが見れるんじゃないかと。
なんかねえ、たぶんあれから二人ともいろいろあって一回りも二回りも変わったと思うのだよなあ。
大きな声では言えないけど、ほんとはバシベよりそっちが見たかったりするのである。
『新宿心音会板谷祐と高木フトシの唄宴~名古屋編~』
高木フトシ / 新宿心音会板谷祐
というやつである。
いや、なにこの二人の世界?という感じで。
赤いライトの板谷祐
青いライトの高木フトシ
両者一歩も譲らず的な。
かといってスラットvsバシベという構図でなく。
新宿心音会板谷祐 vs 高木フトシ
だったわけで。
ていうかこの会場の一体感はなんなんだ?
みょーにアットホームだし。川崎は行ったことないのだが毎回こんな感じなのだろうか。ええなあ。今では名古屋でも毎度のことになってる気もするが、今日は特にそう感じた。
まずは板谷氏。
とにかく、LCシリーズをこれだけまとめて聞けて感無量。
当初DVDを買うつもりだったのだが、新宿心音会5周年ということで

なぜかTシャツに化けてしまった。
ZI:KILLもCRAZEも知らない。なので新宿心音会の板谷祐しか知らない。
根っからの唄歌い、それがこの人の良さなのでそれはそれでいいと思っていたのだが、LC24を聴いていて、「あぁ、この人はホントはこういう曲を作るのか」と。スラットは5月から怒涛のように夏の終わりまで行きそうな気配なのだが、板谷祐の曲をバンドで聞きたいなあと。この曲を聴いていてふとそう思った。#0022じゃない方のLCというか…。
あいかわらず、なんだか生きた歌を歌う。今、そこにあるせつなさとか気持ちとか。歌声とともにその時は流れ去ってしまう。生きているので掴めない。ちゃんと生きていない今の自分には流れ去っていくそれがやたらに眩しい。
そしてフトシ氏である。
こないだの新宿LOFTのUSTREAMで鴉空をはじめてがっつり見た。
そうかこんな感じなのかと。
しかし、ベースが足りないのだよ、どうあっても。そのあたりの感想があり。
BOØWYを氷室氏が単独で。実は沈黙してた布袋氏もホントはやりたかったというのもあり。
なんだかMCで八田氏の話をするわけである。高校時代は二人だけ金髪でやたら悪いヤツだと近所で評判だったとか。彼女に呼び出されて、「昨日、女の人と歩いてたでしょ!」と詰問されたとか。そりゃ思うわなあ。HATEのPV見ていても、「オレってその気があるのだろうか…ちょっとヤバイなあ」と思ってしまうくらいなので、高校の時なんかは余計だったろうと。
でHATEのCHAIRをやるつもりだったらしいけど、新聞に翌日それを一人で演ったと書かれたら、八田くんが布袋氏のように泣くかもしれんからヤラナイと。わざわざそういうわけである。
ああ、そういうことかと。
この場にいた人間はそうブログに書けと。ツイッターでそう呟けと。
いうことだなと。
オレはHATEをやりてえと。素直にそういやいいのにねえ。
GHEEEがアルバム出したので、そのツアーでYANA氏は忙しくてかまってくれないし、バシベはスラットやってる間はないし、オレのこの高ぶるロック魂をどうしてくれるんだと。
(んなことはひと言も言ってないのだが)
いうことらしいので、オイラの日記にはそう書いておこう。まる。
ていうか、今なら違ったカタチのHATE HONEYが見れるんじゃないかと。
なんかねえ、たぶんあれから二人ともいろいろあって一回りも二回りも変わったと思うのだよなあ。
大きな声では言えないけど、ほんとはバシベよりそっちが見たかったりするのである。
つぶやき日記
『終着駅 トルストイ最後の旅』がかなり良い。
映像が綺麗。
自然も人も。
ロシアの文豪トルストイと、“世界三大悪妻”といわれる妻ソフィヤとの知られざる愛の物語を描く人間ドラマ。その世界三大悪妻のソフィヤ伯爵夫人(ヘレン・ミレン)が超絶によい。すげえ。イヤすぎる。でも、なんだかわかる。
トルストイだよ。
読んだことない。
Yahoo! JAPANの今日の運勢。最近気にしているのだが、身体のバイオリズムと合っていて。泳いでいて調子がいい日と悪い日があたってるような。自己暗示?
本が読めない。
いま読んでいるのは、







積んであるともいう。
おしまい。
映像が綺麗。
自然も人も。
ロシアの文豪トルストイと、“世界三大悪妻”といわれる妻ソフィヤとの知られざる愛の物語を描く人間ドラマ。その世界三大悪妻のソフィヤ伯爵夫人(ヘレン・ミレン)が超絶によい。すげえ。イヤすぎる。でも、なんだかわかる。
トルストイだよ。
読んだことない。
Yahoo! JAPANの今日の運勢。最近気にしているのだが、身体のバイオリズムと合っていて。泳いでいて調子がいい日と悪い日があたってるような。自己暗示?
本が読めない。
いま読んでいるのは、







積んであるともいう。
おしまい。