象の夢を見たことはない -167ページ目

Journey - Separate Ways

噴いた。

アル・ヤンコビックですらコピるのためらうだろう完成度のアレを…



だいたいあってるとか。アホすぎる。

神無月?誰?マジたのむわ。

本物はコレね。

http://www.dailymotion.com/video/xf6yc_journey-separate-ways_fun


久々大笑いしたわ。平和に貢献。音楽は世界を変える。

ありがとうジャーニー。

オーナー・オブ

コード進行も演奏方法も曲調のバリエーションも複雑化して、しょうじき80年代90年代の曲を聞くと古臭せーなあとおもうのだけど、当時の曲の単純なサビとか骨太すぎるイントロを聞くと単純にうぉおってなる。まあ、それも一瞬なのだけど。

おさんだなあ。

そういうのは、多分それぞれの世代にあるのだろう。
ビートルズだとかザ・ビーチ・ボーイズとかはかなり上の世代で、ABBAとかビージーズとかのディスコ世代やKISSなんかのハードメタルとかはちょっと上の世代。

そういうのも耳に入ってきたし、ラジオで聞いてもいたけれどやはり洋楽にどっぷりはまったのはテレビからで、ベストヒットUSAとかMTVとか。
入るきっかけは、予備校時代の下宿でおなじ屋根の下ですごしていた同級生が聞いてたこの曲を聞いてから。



アルバムジャケットも見てすぐわかるキャッチーな感じなものがいろいろと。
この曲とYesのオーナー・オブ・ア・ロンリーハートを聞くと予備校時代の下宿先にタイムスリップする。
ただ、いまやそんな昔の記憶も色褪せてきた。

今この曲を最後まで聞くことはない。商業主義音楽の悪いところで、今でもそういう売れる曲っていうのは変わらない構造を持っているのか。しかし5分超は長いわ。いまじゃあり得ない。

たぶん、残念なことにそんなふうに音楽が入って来るのは10代の終わりまでで、その頃までの音楽が自分の心の一番奥の座席に陣取ってしまう。誰にとってもそうなんじゃないのかなあと最近ふと思う。なんなんだろうねえ。新しくてずっとカッコいい曲はいっぱいあるし、聞いてもいるのだけど。

オーナー・オブ・ア・ロンリー・ハート。



んー、Yesは今でもちゃんと聞けるなあ。
近所にLed ZeppelinだとがThe Whoだとか聞いてるイカした(イカれた?笑)兄ちゃんとか姉ちゃんとかいたら、そのあたり変わったかもしれないけど。。いや、たぶん変わらないだろうなあ。ビートルズは中学の頃から聞いてたし。はしかに罹るように避けられない音楽っていうのはたぶんある。
いまじゃ、ほんとにそれが残念だったのかよかったのかなんてよくわからない。

しかし、JourneyのSeparate WaysのPVは度肝を抜くダサさ!酷過ぎ。PVの黎明期といえどあれはないわ 笑 当時もいろいろセンスは自分的にはイギリス勢圧勝で、そういう印象はいまでも変わらない。アメリカで売れると曲が野暮ったくなるのか、そういう曲が売れるのか。全部が全部そういうわけでもないし、まあそれも好みの問題だけど。

レンブラント

名古屋市美術館『レンブラント展』へ。

LEDライトとかエッチングを説明するパネルとか展示方法に新しい試みがされていて。あいちトリエンナーレを昨年やったからか、どこかでなにかが吹っ切れた印象が。美術館自体、現代美術と同じで、収蔵コンテンツより、そのコンテンツの新しい価値観を提示する場として進化しなけりゃ面白くない。ただの箱じゃダメだと、そんな意識を折衷させつつな感じ。そして以前よりさらにフランクな感じになったような。そこが一番だあね。美術なんてしゃっちょこばって見るモンじゃないし。こういう方向性、嫌いではない。

ふつうなら椅子に座ってる係員の方が、立って案内をされてたのは…あれは作品について聞いて貰ってもよいという意思表示なのだろうか。ずっと椅子にすわってるというのは大変だなあと思ってたので、それもよい感じだ。

今回のレンブラントの企画展はエッチングに焦点を当てている。レンブラント、油彩の画家なのかと思っていた。彼の光と影の基礎はエッチングにあって。レンブラントに対して、一般の多くの人にその見方を提示することが今回の企画展の目的らしく。

ふーむ。

その他、刷る紙の種類(西洋紙、和紙、中国紙など)によって、どう印象が変わるかとか、1刷り目、2刷り目の間にさらに更新を加えたりしているの説明図とか。レンブラントがあのオランダ黄金期にあって海外交易のおかげでいろいろな事物を見聞したり試したり。
そんなことがわかるような展示になっていたのだが、正直そこは研究員的には大事だろうけど、どうなんだろ?

そういうところを見てるうちに、古典芸術って正直もう終わってるよなと。
学究的な価値だったり、骨董的な価値だったり。
その作品が現在持つ美術的な価値とそういう骨董的・学究的価値というのが全く乖離しているというか。はたして、過去のエッチングの技法やら紙の種類やらが現代でも通じるのかというとどうなんだろうと。あるいは構図だったり手法だったり。当時は斬新だったにしても、現在ではあたりまえにマンガでも使われてたりする技法になってたり、陳腐化してたり、さらに表現が進化しているのもあるだろうし。

レンブラントの作品であることで価値がハネ上がってとか。
それで、作品に何億とか何千万とかってバカみたいな話だ。どう考えてもおかしいぜ?と一般市民的には思うのだが…。はぁ、まあ世の中そんなもんだといわれればそれまでだけど。名前だけで盲目的な信仰になってしまっているのはなんだかなあと。見てて結構いい加減な絵も多かったし。細部なんてほったらかしだし。描いたもの全部が全部そこまでたいしたもんでもなかろうと。

さらに言えば、日本では今はどこもかしこも夜は明るくて、部屋の中は蛍光灯で昼間のように照らされて、清潔で便利だけれど逆に彼の絵にあるような夜の闇の陰影の深さを味わえない寂しい世の中になってしまっている。なので、結局本当にこれらの作品が理解されることはないように思う。闇の暗さのグラデーションだとか情感だとか感覚とかが退化してしまっていて、身体で感じる価値観がこの絵が描かれた当時と断絶してしまっている。そんな時代の日本でこれらの絵の本当の価値がわかるわけがないというか。そういうのもあり。

ただ、自分が子供だった頃の闇のあり様は思い出した。あと、イギリスにはじめて行ったときの感じとか。ロンドンの印象として強く残っているのは夜の景色。どうもヨーロッパの夜の闇というのは、アジアの夜の闇とまったく質が違うように感じる。自分はオランダ行ったことないからわからないのだが、オランダへ行ったことある人だと少なくとも自分よりもっと彼の絵に共感出来るものがあるだろう。

現場を知らない人には、その作品が本来持っているであろう価値はわからない。詩とか文学もそう。でも、それって難しい。時代性とかもあるし。普遍的に評価される作品とか価値なんてこの世のどこにもないのになぁと思うのだが。各時代や社会の価値観て、階層的・構造的なものだから、それ単体で存在し得るものでもない。

というのは、この展覧会みょーにお客さんが多かったのだ。
まあ、自分もそのうちの一人のヤジ馬だからしょうがない。

近代美術・現代美術が提示しているのは、現在から見た未完成なプロトタイプの価値観だと思っているのだが、古典美術に逆にそれを見出すことができる時代になってきているのかもしれない。
…言い過ぎだな。先史時代の壁画をみてミロはとか、縄文式土器をみて岡本太郎はとか、そこまではさすがにないだろうけど、まあ似たような感じで。

コミュニティレストラン 庵ひろ

手食インドカレー

なんと手でインドカレーを食べる機会があると。
行かねばと。
ていうか、コミュニティレストランてなんぞやと。

ワンデイシェフシステムをご存じですか?
プロで無い巷の料理自慢の市民が、一日シェフになり、仕入れから調理・配膳・片付け・経営までを、担当するシステムの事ですがご存知でしたか?・・・

そんな感じで書いてある。
コミュニティレストラン 庵ひろ

で、行って来た。不思議なお店だった。

なんというかゲストハウスの食堂にお邪魔する感じ?
靴を脱いで、引き戸をあけて中に入ると、座敷の広間になっていて。
インドネシア人の方とか、中国系の方?とかが座卓に陣取っている。
「うわっ。なんか変わったとこに来ちゃったよ、おい」と心の中では思っていたが、平然と相席のテーブルへ。
そして、カレーをオーダーする。
たぶんメニューは今日はこのカレーだけである。

そして出てきた。

$ニャンちゅうなブログ-インドカレー

旨そう!!家庭の料理感がこれまた意外と良い。
そしてチャパティもなんだか「なんとかそれらしく作りましたぜ、旦那」って感がすこぶる良い。
味の方はというと、

旨い!!!おいしい

正直、インドカレー店でランチに出てくるカレーをすごく旨いと思ったことはない。
やっぱ、カレーは家庭料理の方が旨いと思う。
家庭料理ったってスパイスから選んで作った本格派で。

お客さんは、皆一日シェフとお知り合いだったようで、相席したテーブルにもいらしたので少しお話した。昨日会社終わったあと、作り始めてほとんど寝ないで作ってたらしい。普通なら30分で作れるのだけど、量があると玉ねぎを炒めてあめ色にするのも1時間以上かかったそうで。いくら料理を作るのが趣味でもなかなかそこまでできないなあと。そういう苦労を聞くと味わって食べないと失礼だと。
あれで1000円は申しわけないかも。

ボールがなかったのでさすがに手で食べなかったけど。
カレーって実は手で食べると旨いのである。
ただ、ご飯に手を突っ込むときアツ!ってなるのだが。
日本のお米を普通に炊いてあると、まず激アツ!笑
そんな話もしーので、話に夢中で最後に出てきたラッシー写真とるの忘れた。犬

同級生 

林文浩くんのエッセイを読んだ。

http://www.maniform.com/hayashi/

ずいぶん粗い感じ。
小学校卒業前の文集では、キャンプでの出来事を書いていた。その文章はホントに生き生きしていた。彼の感情が溢れていた。彼はもともとそれほど饒舌な文章を書けるわけではない。饒舌なのは彼自身の行動だ。それは、小学校時代から変わっていない。

小学校卒業以来で、彼の姿をはじめて見たのはブラウン管を通してだった。『ファッション通信』だったか、そんなテレビ番組で、ファッション雑誌の編集長としてインタビューを受けていた。なんだか見たことのある名前がテロップに。どうもそういえば顔にも面影がある。
「ん?おいおい?…マジかよ」と。
そのころ、彼は雑誌『DUNE』の編集長をしていたようだ。

二回目はその10年後。
ソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』で。
なにも知らないでレンタルビデオで借りて見てたら、なんだかどこかで見たような顔が。そこには、さらに年齢を重ねた林文浩がいた。チャーリーという名前で。そういえば、彼はチャーリーブラウンが好きだった。小学校の頃から。

彼の小学校の頃からの暴れん坊ぶり・傍若無人ぐあいに関する逸話は数知れない。男のコは10才くらいで大きな転機を迎えるのだが、5年生、6年生頃の彼のまわりはいつも台風が吹き荒れていた。いわゆるガキ大将でいじめっこで、しかも頭がキレるので手が付けられない。その頃、歴代天皇をそらんじれるほど歴史マニアな彼が敬愛していたのが織田信長。彼もまさに暴君としてクラスに君臨していた。2クラスあって、別のクラスだったけど、別のクラスですらその余波が。

彼は小学校の時から隣町までバスに乗って絵を習いに行っていた。
そんな子供は自分の周りには彼しかいなかった。スヌーピーだって、ど田舎なあの土地では、当時は新しく、ご両親が進歩的な方なのだろう。

子供の頃のバイタリティというのは、間違いなく大人になるまで続く。
彼によってそのことを確信した。

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]/ビル・マーレイ,スカーレット・ヨハンソン,ジョバンニ・リビシー

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『ロスト・イン・トランスレーション』での彼の役どころは、主人公ビル・マーレイと異国である日本で親しくなるスカーレット・ヨハーソンの日本人の友人役で、実際、林くんはソフィアの友人であったようだ。そういえば彼はどこか寂しい雰囲気を持っていて、そこがこの映画のビル・マーレイに似ている。
もしかしたらソフィア・コッポラとこんなふうに知りあったのかもしれない。
映画というのは、おそらくそれを作った監督を実際に知っていれば、もっと違った見方ができるのだと思う。

先日、妹が姪っ子たちと遊びに来ていた。そのとき、妹から彼の訃報を聞いた。
気付いたときに『DUNE』は廃刊となっていて、エディターとしての彼の仕事は見ることはできなかったけれど、今春発刊された『Libertin / Dune』を今注文した。

文章なんかに生きた真実はない。
彼自身の写真展をいつか見ることができるだろうか。

参考:追悼 林文浩さん(チャーリー)http://numero.fusosha.co.jp/blog2/2011/07/post_14.html