鴉空 -AKUH @中津川
JR中津川まで。

旅だね。さすがに通勤できない。土岐か、譲って瑞浪で限界だわ。
街から郊外へそして山へ、トンネルを抜けて小さな街があって、そして田んぼで山で。そしてまたトンネルがあっていくつかの駅をすぎてやっとすこし大きめの街。
けど、東京近郊だと1時間10分っていう距離は通勤距離か?東京-鎌倉くらい?
そして栗きんとんの街である。
やっぱり、中山道の馬籠の近く。それらしい酒屋さんとか漬物屋さんがあったり。
ただ本当はこういう場所だとそういう外に表れているのより家の中の毎日の生活の中に残っているもののほうが本当は大切なものがあって。ただそれも日本全国どこでも同じでなくなりつつあるらしく。
それはともかく、GHEEEとGRiP、高木フトシっていう対バンで池下upsetで高木フトシ祭りがあったとき以来だわ、鴉空。考えてみればなんていう豪華なライブだったんだろう。そうやって過ぎ去っていくのだねライブも。
あ、いかんいかん。こういう文章を書いてしまう高木フトシの歌を聴きながらだと。
感傷的になり過ぎる。籠っちゃうとダメなんだよね。
まあ、でもそういう時も必要だから冬があったりするのか。

人間の感情っていうのは、たった一人で籠っちゃうとどんどん自分を壊していくんですよ。でも、人と、社会の中にいて自分の感じる感情っていうのは、次の明日の自分に繋がって行くんですよ。その感情と向き合うってことの毎日の連鎖っていうのが人生なんですよ。by 前田日明
そうやって繋がってくものがたぶん大事なんだろうね。
昨日と違って今日はさわやかな秋晴れだ。
ついに禁断のCDR買いにまで突入してしまった。
いっぱいあるから、キリないんだよなあ。
やっぱMC。間とか含め、微妙なジャブの応酬があっておもろい。
鴉空ライブ前の転換でHATE HONEYがガッツリかかってて笑。
うわっ、ないわ…やりにくいだろうなあと思いながらも、内心は「おもろすぎる」。
で、案の定MCで、その話になり。
YANA氏「HATE HONEYのコピーバンドやらされたことある?。人一人位殺してんじゃねえかっていうおっかないバンドのリーダーの人に。」ってマジぼやき。
フトシ氏「え?一人だっけ?二三人殺してんじゃないの」って苦笑いしながら返してた。
案外、YANA氏も言う人なんだね。笑えた。やっぱヤラサれてたんだ笑。コピバンって…、あれだ
多分バシベで戸城さんに影響され過ぎである笑
HATEはHATEで、鴉空は鴉空、バシベはバシベで良くて、まだまだ突っ走って欲しいなあ。まあでも、前にバシベ観に行って昨日鴉空聴いて。個人的には鴉空だけあればいいや。過去はもういいし、夢の続きももういい。今のオリジナルがあればそれでいい。
で、ライブ中はYANA氏のドラムをガン見。スティックを細かく変えてて。普通のだったり、フサフサがついてるのだったり。RED COUNTERのときは、知らないうちにそのフサフサが濃いピンク色に。マジシャンか!やっぱ、そういうのも含めてわからない。すごく不思議な入り方してたりする。YANA氏も同じようにZEPPETはZEPPET、鴉空は鴉空、GHEEEはGHEEEでそれぞれ違うんだよね。
楽しい夜だった。

旅だね。さすがに通勤できない。土岐か、譲って瑞浪で限界だわ。
街から郊外へそして山へ、トンネルを抜けて小さな街があって、そして田んぼで山で。そしてまたトンネルがあっていくつかの駅をすぎてやっとすこし大きめの街。
けど、東京近郊だと1時間10分っていう距離は通勤距離か?東京-鎌倉くらい?
そして栗きんとんの街である。
やっぱり、中山道の馬籠の近く。それらしい酒屋さんとか漬物屋さんがあったり。
ただ本当はこういう場所だとそういう外に表れているのより家の中の毎日の生活の中に残っているもののほうが本当は大切なものがあって。ただそれも日本全国どこでも同じでなくなりつつあるらしく。
それはともかく、GHEEEとGRiP、高木フトシっていう対バンで池下upsetで高木フトシ祭りがあったとき以来だわ、鴉空。考えてみればなんていう豪華なライブだったんだろう。そうやって過ぎ去っていくのだねライブも。
あ、いかんいかん。こういう文章を書いてしまう高木フトシの歌を聴きながらだと。
感傷的になり過ぎる。籠っちゃうとダメなんだよね。
まあ、でもそういう時も必要だから冬があったりするのか。

人間の感情っていうのは、たった一人で籠っちゃうとどんどん自分を壊していくんですよ。でも、人と、社会の中にいて自分の感じる感情っていうのは、次の明日の自分に繋がって行くんですよ。その感情と向き合うってことの毎日の連鎖っていうのが人生なんですよ。by 前田日明
そうやって繋がってくものがたぶん大事なんだろうね。
昨日と違って今日はさわやかな秋晴れだ。
ついに禁断のCDR買いにまで突入してしまった。
いっぱいあるから、キリないんだよなあ。
やっぱMC。間とか含め、微妙なジャブの応酬があっておもろい。
鴉空ライブ前の転換でHATE HONEYがガッツリかかってて笑。
うわっ、ないわ…やりにくいだろうなあと思いながらも、内心は「おもろすぎる」。
で、案の定MCで、その話になり。
YANA氏「HATE HONEYのコピーバンドやらされたことある?。人一人位殺してんじゃねえかっていうおっかないバンドのリーダーの人に。」ってマジぼやき。
フトシ氏「え?一人だっけ?二三人殺してんじゃないの」って苦笑いしながら返してた。
案外、YANA氏も言う人なんだね。笑えた。やっぱヤラサれてたんだ笑。コピバンって…、あれだ
多分バシベで戸城さんに影響され過ぎである笑HATEはHATEで、鴉空は鴉空、バシベはバシベで良くて、まだまだ突っ走って欲しいなあ。まあでも、前にバシベ観に行って昨日鴉空聴いて。個人的には鴉空だけあればいいや。過去はもういいし、夢の続きももういい。今のオリジナルがあればそれでいい。
で、ライブ中はYANA氏のドラムをガン見。スティックを細かく変えてて。普通のだったり、フサフサがついてるのだったり。RED COUNTERのときは、知らないうちにそのフサフサが濃いピンク色に。マジシャンか!やっぱ、そういうのも含めてわからない。すごく不思議な入り方してたりする。YANA氏も同じようにZEPPETはZEPPET、鴉空は鴉空、GHEEEはGHEEEでそれぞれ違うんだよね。
楽しい夜だった。
努力の限界
映画を観ていると、
「これは無意識でフィルムに入れているな…」
っていうシーンが出てくる。
もちろん編集で入れるときはわかっててそのカットを入れるのだろうけど、撮っているときにはそれとは自分では気付いていないと思える背景だったり、俳優の仕草だったり。
すべてを意識でコントロールしてるっていうことには正直疑問がある。
しかしながら、無意識のうちにコントロールしている、あるいは出来ている・出来るようになっていることについては「ああ、確かに…」っていうところが他者にも見えるように思う。
それも訓練した部分ではなくて、その人の地が見える部分で。
訓練した部分も訓練することによって無意識に出せるようになると思うけど、どうしてもそこは心には響いてこないんじゃないか?っていう疑念がある。
磨けば…っていう努力の限界はどうやっても人にはソレと見えるような気がしてならない。一方、その人が常人を遥かに超えている部分っていうのもどうやっても人にはソレと見えるような気がする。
そんなことをクリント・イーストウッドの『ヒア・アフター』を観ながら思った。
意識的に、「このカットは構図はこうであるべきで、オレはそれをみごとに実践した」っていう部分は見てればわかるけど、そしてそれをたいしたものだとは思うけど、それは努力に対する称賛でしかなくて、観てて怖れを抱くレベルの部分っていうのはその人が無意識でやってるところで、そういう場所に較べれば意識なんて屁みたいなものだとそんな風に思えてしまう。
どうでしょう?
でも、なぜかこの映画を観ているとその努力と才能の境界があいまいになっているようにも思える。
ずーっと突き詰めて仕事をしていると、それも気の遠くなるくらい長くやっていれば、どこかでその一線を超えるようなそんな気もしてくる。
長生きする意義が、天才をどこかで超えてしまうことだとしたら…そんなふうに思わせられる人ってすごいなあと。
そういえば、ニュートリノが光より速く飛んだとする「Opera実験」で、相対性理論がひっくり返るかもしれないというニュースがあったなあということを考えてしまった。世界もいつか天才を超えるというのにそれは似てたりするんだろうか。
「これは無意識でフィルムに入れているな…」
っていうシーンが出てくる。
もちろん編集で入れるときはわかっててそのカットを入れるのだろうけど、撮っているときにはそれとは自分では気付いていないと思える背景だったり、俳優の仕草だったり。
すべてを意識でコントロールしてるっていうことには正直疑問がある。
しかしながら、無意識のうちにコントロールしている、あるいは出来ている・出来るようになっていることについては「ああ、確かに…」っていうところが他者にも見えるように思う。
それも訓練した部分ではなくて、その人の地が見える部分で。
訓練した部分も訓練することによって無意識に出せるようになると思うけど、どうしてもそこは心には響いてこないんじゃないか?っていう疑念がある。
磨けば…っていう努力の限界はどうやっても人にはソレと見えるような気がしてならない。一方、その人が常人を遥かに超えている部分っていうのもどうやっても人にはソレと見えるような気がする。
そんなことをクリント・イーストウッドの『ヒア・アフター』を観ながら思った。
意識的に、「このカットは構図はこうであるべきで、オレはそれをみごとに実践した」っていう部分は見てればわかるけど、そしてそれをたいしたものだとは思うけど、それは努力に対する称賛でしかなくて、観てて怖れを抱くレベルの部分っていうのはその人が無意識でやってるところで、そういう場所に較べれば意識なんて屁みたいなものだとそんな風に思えてしまう。
どうでしょう?
でも、なぜかこの映画を観ているとその努力と才能の境界があいまいになっているようにも思える。
ずーっと突き詰めて仕事をしていると、それも気の遠くなるくらい長くやっていれば、どこかでその一線を超えるようなそんな気もしてくる。
長生きする意義が、天才をどこかで超えてしまうことだとしたら…そんなふうに思わせられる人ってすごいなあと。
そういえば、ニュートリノが光より速く飛んだとする「Opera実験」で、相対性理論がひっくり返るかもしれないというニュースがあったなあということを考えてしまった。世界もいつか天才を超えるというのにそれは似てたりするんだろうか。
負けてる感じ
吐いちまったな。
まあ言ってしまったものは仕方がない。
群像劇って『マグノリア』あたりからだろうか。
そういえば、『ホーキング、宇宙と人間を語る』でM理論について書かれてあったのを読んだ。ちょっと長いけど抜粋。
M理論は、最終理論が持つべきと考えられるすべての特性を持っている唯一のモデルです。M理論は普通の意味での理論ではありません。それは異なった理論のファミリーのようなものです。このファミリーを構成する1つひとつの理論はそれぞれある範囲の物理的な状況の中だけで自然世界をうまく記述します。
それは地図のようなものだと言えるかもしれません。言うまでもなく、ただ一つの地図の上に地球の表面全体を正しく書き示すことはできません。~。M理論は、世界地図のようなものです。地球を表すのに、たくさんの地図を重ね合わせる必要があるように、物質世界、宇宙を表すには続き物の複数の理論を重ね合わせることが必要なのです。
こういうM理論が出てきた時期に、それにインスパイアされてこんなふうな群像劇が出てきたんじゃなかろうか?M理論は1995年にエドワード・ウィッテンによって提唱されたそうだ。
英会話学校の教師でたまに出会ったのだけど、不良なくせに頭がキレるかなりヤバイ感じのアメリカ人たちなのだが、ふとした拍子にこんなふうなアカデミックな話をかなり体系的に語ったりする。
大学出のインテリ崩れって感じなんだけど、「崩れててコレかよ!」と。日本人でそういう不良って日本では俺はほとんど見たことないけど、世界にいけばそういう日本人もいるのだろうか?なんかでもフラグメントでしか話せない人しかいないような気もする。
ちなみにそういう奴らは学校からすぐにいなくなる。たぶん別に面白い場所を見つけたんだろう。1990年代の話だ。リーマンショックなんてまだまだ先の時代の話。今でもそんなフラフラしたヤツがいるのかどうかは英会話学校に行かなくなったから知らない。
端的に映画産業なんてうさんくさい場所でそんなヤツラが束になって化学反応起こしてるような気がするのだけど、日本にそういう場所ってあるんだろうか。なんかそういうの含めて負けてるなあって感じがするのである。
まあ言ってしまったものは仕方がない。
群像劇って『マグノリア』あたりからだろうか。
そういえば、『ホーキング、宇宙と人間を語る』でM理論について書かれてあったのを読んだ。ちょっと長いけど抜粋。
M理論は、最終理論が持つべきと考えられるすべての特性を持っている唯一のモデルです。M理論は普通の意味での理論ではありません。それは異なった理論のファミリーのようなものです。このファミリーを構成する1つひとつの理論はそれぞれある範囲の物理的な状況の中だけで自然世界をうまく記述します。
それは地図のようなものだと言えるかもしれません。言うまでもなく、ただ一つの地図の上に地球の表面全体を正しく書き示すことはできません。~。M理論は、世界地図のようなものです。地球を表すのに、たくさんの地図を重ね合わせる必要があるように、物質世界、宇宙を表すには続き物の複数の理論を重ね合わせることが必要なのです。
こういうM理論が出てきた時期に、それにインスパイアされてこんなふうな群像劇が出てきたんじゃなかろうか?M理論は1995年にエドワード・ウィッテンによって提唱されたそうだ。
英会話学校の教師でたまに出会ったのだけど、不良なくせに頭がキレるかなりヤバイ感じのアメリカ人たちなのだが、ふとした拍子にこんなふうなアカデミックな話をかなり体系的に語ったりする。
大学出のインテリ崩れって感じなんだけど、「崩れててコレかよ!」と。日本人でそういう不良って日本では俺はほとんど見たことないけど、世界にいけばそういう日本人もいるのだろうか?なんかでもフラグメントでしか話せない人しかいないような気もする。
ちなみにそういう奴らは学校からすぐにいなくなる。たぶん別に面白い場所を見つけたんだろう。1990年代の話だ。リーマンショックなんてまだまだ先の時代の話。今でもそんなフラフラしたヤツがいるのかどうかは英会話学校に行かなくなったから知らない。
端的に映画産業なんてうさんくさい場所でそんなヤツラが束になって化学反応起こしてるような気がするのだけど、日本にそういう場所ってあるんだろうか。なんかそういうの含めて負けてるなあって感じがするのである。
『精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱』
ケヴィン・スペイシーの『精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱』を見てて思ったのだが、アメリカ映画ってここまで表現として来ているんだけど、なんか日本の映画とかとくにテレビ系列のヤツとかマンガとかっていつまでたっても子供レベルだなあと。
むかしカンブリア宮殿でKOMATSUの坂根正弘氏が出てたときに、ダントツ商品のいくつかを紹介していたのだが、ブルドーザーのブレード(排土板)の土砂を押しだす能力を上げる話が。
ブレードの両サイドのウイングの部分の角度を改良してっていう話だったのだけど、村上龍が、「もともとの形がこうあって、それで初めて今の形になったと。いきなり今の形っていうのはできないわけですよね?」って話をしていた。
表現というのは、別に言葉によるものだけではなく。絵だったり、写真だったり、舞踏だったり、あるいは極端な話で会社運営だとか、必ずしも字義的なものに限られたものでも言語の使用を伴うものでもないし。
知覚の抽象化や概念化は言語でのみ行われるわけではなく、自身の体験から一般化された認知概念の体系化とか、芸術作品の制作やはたまた製品開発や研究作業やらの先端では、言語化されることに先立つ何かがあったりするわけで。
そういう言葉を通さない表現というのも、いきなり今の形っていうのはできなくて。それはこのブルドーザーのブレードの話と同じで、だからそのために表現する。
けれど、最初にブレードを作った人には今のブレードの形の意味がすぐにはわからないかもしれない。
一方で、表現されることで解放されるというのは、フロイト以降の精神分析学派の基礎的な事実みたく、箱庭療法とかもその一つだったりするのだけど、そしてそれは治療によって正常なかたちへと近づいていくと。うーむ。そしてそれを評価する人が社会性だとか統一性だとかを持った形というのを認知して治療がうまくいっているかいないか判断するってのも感覚的にはわかるけど。。
あるいは、根本的にその考え方だと、理想の形とか本来の形があって、人はそこへ戻る力があると言ってるわけだけど、そしてそれが人が持つ神性だとどこかで言ってる人がいて。表現される前に既に正解は自分の中に根源的に持っている的な。
なんかこの2つの話、うまく円環が閉じない部分がある。どこかで何かががウソ臭い。あるいはもともと閉じる話ではないのかもしれない。
田口ランディーが村上龍との対談で、「私は、この世の中を悪くしてるのは、カウンセラーという人達だということを強く思っていて、カウンセリングというのはもうちょっとなくならないといけないというようなことをよくいって、嫌われているんです。」と。
なんか、そのカウンセリング先進国のアメリカでこういう映画を作るようにまでなったのかとちょっといろいろ考えてしまった。
しかし、わかりやすければ映画として良いという解釈って…ほんと子供だ。村上龍の「日本のメディアは国民に「わからせる」という絶対的な使命を持っている。知らせるのでも伝えるのでもなく、「わからせる」のだ。」という言葉を思い出した。そういう価値観が蔓延してる社会というのはどこか異常だと俺は思うのだけれど。“Shrink”しているとはまさにそういう状態だと思う。精神医学を専門にしている医師をshrinkというのと当然引っかけてあって。ていうかカウンセラーがシュリンク(縮退)っていう言葉と同じだというところにアメリカ人の無意識の意識みたいなモノの妙が不思議とあるように思える。もっともそれも考えすぎかもしれないけど、ただ単にshrink(縮退)したshrink(精神分析医)っていうダジャレ的意味だけなのかもしれない。けど、この映画のそういうとこ含めて注意して見ないといろいろわかんねえままなんだろうなあ。いろんな症状の人が出てくるのだけど、それらの人の行動様式は精神疾患について知らずに薄っぺらい演技論でしか見てない奴にはわからない。日本ではカウンセリングという文化が根付いてないからわからない部分も多い。オイラも正直わからない。てかさあ、作品けなす前に少しそういうことも考えようよ。好きとか嫌いって言う感想ならわかるけど。しかし、「精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱」って…この邦題だけだとそういうこともまったく消えてしまっててなにがどうだかさっぱりわからないんだけどね。
Post Script
禅マインド-ビギナーズマインド。一神教的な思考に冒された状態で考えていると初心というのは完成されたものと言っていると勘違いしてしまっていたが今読み返したら、まったくそういうものではなかった。あーなんのことはない、俺もシュリンクしてたのだ。初心、初心!
むかしカンブリア宮殿でKOMATSUの坂根正弘氏が出てたときに、ダントツ商品のいくつかを紹介していたのだが、ブルドーザーのブレード(排土板)の土砂を押しだす能力を上げる話が。
ブレードの両サイドのウイングの部分の角度を改良してっていう話だったのだけど、村上龍が、「もともとの形がこうあって、それで初めて今の形になったと。いきなり今の形っていうのはできないわけですよね?」って話をしていた。
表現というのは、別に言葉によるものだけではなく。絵だったり、写真だったり、舞踏だったり、あるいは極端な話で会社運営だとか、必ずしも字義的なものに限られたものでも言語の使用を伴うものでもないし。
知覚の抽象化や概念化は言語でのみ行われるわけではなく、自身の体験から一般化された認知概念の体系化とか、芸術作品の制作やはたまた製品開発や研究作業やらの先端では、言語化されることに先立つ何かがあったりするわけで。
そういう言葉を通さない表現というのも、いきなり今の形っていうのはできなくて。それはこのブルドーザーのブレードの話と同じで、だからそのために表現する。
けれど、最初にブレードを作った人には今のブレードの形の意味がすぐにはわからないかもしれない。
一方で、表現されることで解放されるというのは、フロイト以降の精神分析学派の基礎的な事実みたく、箱庭療法とかもその一つだったりするのだけど、そしてそれは治療によって正常なかたちへと近づいていくと。うーむ。そしてそれを評価する人が社会性だとか統一性だとかを持った形というのを認知して治療がうまくいっているかいないか判断するってのも感覚的にはわかるけど。。
あるいは、根本的にその考え方だと、理想の形とか本来の形があって、人はそこへ戻る力があると言ってるわけだけど、そしてそれが人が持つ神性だとどこかで言ってる人がいて。表現される前に既に正解は自分の中に根源的に持っている的な。
なんかこの2つの話、うまく円環が閉じない部分がある。どこかで何かががウソ臭い。あるいはもともと閉じる話ではないのかもしれない。
田口ランディーが村上龍との対談で、「私は、この世の中を悪くしてるのは、カウンセラーという人達だということを強く思っていて、カウンセリングというのはもうちょっとなくならないといけないというようなことをよくいって、嫌われているんです。」と。
なんか、そのカウンセリング先進国のアメリカでこういう映画を作るようにまでなったのかとちょっといろいろ考えてしまった。
しかし、わかりやすければ映画として良いという解釈って…ほんと子供だ。村上龍の「日本のメディアは国民に「わからせる」という絶対的な使命を持っている。知らせるのでも伝えるのでもなく、「わからせる」のだ。」という言葉を思い出した。そういう価値観が蔓延してる社会というのはどこか異常だと俺は思うのだけれど。“Shrink”しているとはまさにそういう状態だと思う。精神医学を専門にしている医師をshrinkというのと当然引っかけてあって。ていうかカウンセラーがシュリンク(縮退)っていう言葉と同じだというところにアメリカ人の無意識の意識みたいなモノの妙が不思議とあるように思える。もっともそれも考えすぎかもしれないけど、ただ単にshrink(縮退)したshrink(精神分析医)っていうダジャレ的意味だけなのかもしれない。けど、この映画のそういうとこ含めて注意して見ないといろいろわかんねえままなんだろうなあ。いろんな症状の人が出てくるのだけど、それらの人の行動様式は精神疾患について知らずに薄っぺらい演技論でしか見てない奴にはわからない。日本ではカウンセリングという文化が根付いてないからわからない部分も多い。オイラも正直わからない。てかさあ、作品けなす前に少しそういうことも考えようよ。好きとか嫌いって言う感想ならわかるけど。しかし、「精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱」って…この邦題だけだとそういうこともまったく消えてしまっててなにがどうだかさっぱりわからないんだけどね。
Post Script
禅マインド-ビギナーズマインド。一神教的な思考に冒された状態で考えていると初心というのは完成されたものと言っていると勘違いしてしまっていたが今読み返したら、まったくそういうものではなかった。あーなんのことはない、俺もシュリンクしてたのだ。初心、初心!
コンビニエンス考
コンビニエンスストア大手のローソンは22日、インド小売り大手のフューチャーグループと合弁会社の設立を目指し、交渉に入ったことを明らかにした。
子供の頃には、家のちかくに豆腐屋さんや魚屋さんや八百屋さんや肉屋さんがあって、そこが駄菓子屋さんを兼ねていた。誰もが自分たちの馴染みの店があって、そこが遊び場にもなっている。
違う地区の友達のうちへ遊びに行くと彼らのテリトリーにあるそんな店に入る。だいたいからしてそのような店が活気があるのは朝と夕方で、昼の店の中は薄暗い。そんなわけでなにか禁断の地を踏むようなあるいは新たな船出のようなそんな思いで薄暗い店の敷居を跨ぐ。
インドにはまだそんな店が残っていた。
道を挟んで向かいにそういう店があって、あるいは隣の隣がそういう店だったり。それぞれ果物屋だったりパン屋だったり雑貨屋だったり、本業があるからそんな近くに店があっても客の取り合いにはならず。子供たちもそれぞれ自分の店があって、他の店には浮気しない。

仕事に飽きると会社を抜け出してよく行ってた店。

その道を挟んだトイメにある店。子供でも上級生はちょっと薄暗い感じのこっちの店が好みだったようだ。たいてい、そんな店でたむろっているのは男のコたちである。どこの国でもそういうのは似ているのか笑 まあ、大人になっても男のそういう習性はかわらないのかも知れない。
子供の頃には、家のちかくに豆腐屋さんや魚屋さんや八百屋さんや肉屋さんがあって、そこが駄菓子屋さんを兼ねていた。誰もが自分たちの馴染みの店があって、そこが遊び場にもなっている。
違う地区の友達のうちへ遊びに行くと彼らのテリトリーにあるそんな店に入る。だいたいからしてそのような店が活気があるのは朝と夕方で、昼の店の中は薄暗い。そんなわけでなにか禁断の地を踏むようなあるいは新たな船出のようなそんな思いで薄暗い店の敷居を跨ぐ。
インドにはまだそんな店が残っていた。
道を挟んで向かいにそういう店があって、あるいは隣の隣がそういう店だったり。それぞれ果物屋だったりパン屋だったり雑貨屋だったり、本業があるからそんな近くに店があっても客の取り合いにはならず。子供たちもそれぞれ自分の店があって、他の店には浮気しない。

仕事に飽きると会社を抜け出してよく行ってた店。

その道を挟んだトイメにある店。子供でも上級生はちょっと薄暗い感じのこっちの店が好みだったようだ。たいてい、そんな店でたむろっているのは男のコたちである。どこの国でもそういうのは似ているのか笑 まあ、大人になっても男のそういう習性はかわらないのかも知れない。