象の夢を見たことはない -160ページ目

柿食べた?

柿。

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南国に行くと、特に雨季に入るといろんな果物があって。
うらやましくてしょうがない。

でも、考えてみれば秋に食べられる果物って南国では食べれない。
梨とか。似たような果実はあるけど味はぜんぜん。
ちょっと勝った。

輸入とか輸出とかあるんだろうけど、
でもやっぱり、果物はその土地に行って食べるのが一番おいしい。
季節を頂く。

五感

福島県飯舘村を訪問したヴィム・ヴェンダース監督「最後の訪問ではなく、第一回目の訪問」

ガツンと殴られたのは、自分の五感が知らせていることを、事実は裏切るっていうところ。

『イン・ザ・ミソスープ』という村上龍の作品を彼が監督するって話は立ち消えになって、一方同じ頃に企画された村上春樹の『ノルウェイの森』は映画化されたわけだけど。

この言葉を聴いて、やはり彼に『イン・ザ・ミソスープ』監督して欲しいと思った。
作品自体はバイオレントで血みどろな小説のように思えるけど、実はそうではない。と。
見えないものの恐ろしさという点で。

小説では、五感に直接響いてくるヤバさとして暴力が表現されているのだけど、最後に暴力の本当の真実というのは、そうではないということを知る瞬間がある。
普通なら、ある異常な人間の残虐さと、それに対して恐怖を感じる五感いや第六感か?そういう感覚と直観の前で、その事実はたちどころに消えてしまうように見える。ヤバいヤツに会ってしまった。そんな事故みたいなものだとそう思いこみたい。

でもそうではない。そういうところがこの小説を読むとどこか意識だか無意識だかの片隅に残る。それを彼がどう表現するのかが見たい。言い過ぎかな。

なので、村上龍とこの来日で会っていることを望みたいのだけれど。。

あとがき
村上春樹の『アンダーグラウンド』。地下鉄サリン事件で彼がショックを受けたものも同じものだと思う。目に見えないものによって損なわれる。なぜ損なわれたのかがわからない。
彼らが一方は『ねじまき鳥のクロニクル』だったり、一方は神戸連続児童殺傷事件が起きた時期の『イン・ザ・ミソスープ』だったり、それぞれ執筆中にそういう社会的に大きな事件が起きている。どこかでなにかがそうさせるのだろうか。それとも偶然なのだろうか。
wikipediaの『イン・ザ・ミソスープ』の解説には、
(この本には)「独立するために多くの人が死んだりという、歴史的苦痛を味わっていない」という風な日本という国独特の危機感が足りないというようなこと、“この国には真剣に生きている人が少ない”と言った様な痛烈な批判も盛り込まれている。
と。なんだか納得してしまう話だけれど、世界は結構シンクロしてたりする。これが日本だけなのかどうなのかはわからない。同時代人としてヴィム・ヴェンダースのアンテナにこの作品が引っかかったのかもしれない。監督が作品を映画化するのは、そういう理由であって日本のTVみたいに監督に作品があてがわれるわけではない。

不幸

レナウンのNHKスペシャル見なかった。レナウンに元勤めてた人が知人にいる。いまや某保険会社の支店長なのだけど、当時の業界の実態はVANにしろ潰れるのは当たり前な風潮とかも聞いてたし。見ときゃよかったかなあ。

「怠慢」と「傲慢」。倍マンでハコって試合終了。

問題は、そういう意識がまったくないってことは誰でもなくて。
そりゃ人間だもの。誰だって自分をやましいと思う心はあるさ。
ただ、あっても、なんだか足の裏がシビレルなあっていう症状があってもそれに対して気にしないように努める糖尿病患者みないな自分のココロで。それは病気と同じなんだよね。

当たり前のことを当たり前に対処すればいい。
それができないのが積み重なるといずれの場合も不幸が起こる。
と多分そういうことだと。

そしてそういうことを無視して極端な反応の仕方しかできない人。
ないわ。それも同じ類いの不幸だ。まるでマンガじゃん?

『奇界遺産』 佐藤健寿

ビレバンで衝動買い。

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とにかく写真が綺麗なこともあって。

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こんなのとか

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こんなのとか

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こげなのとか

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こげなものとか。

ここでは著作権の関係でわざとピンボケにしてあるけど(うそ。いいかげんに撮ったらボケた笑)。

ほんとに夢のように、ワクワクな景色がぁぁーーー

エグ系とか得体のしれない系とかもあり。

舐めるように見ている。おもしろい。

慢☆画太郎氏の帯がこれまた。

「そろそろ自殺しようと思ってたけど、この本見てたらワクワクしてきて来年に延期した!」

まんざら嘘でもなさそうなコメントで背を押されてしまった。

行きたい場所ってヤマほどあるなあ。

岸田劉生展

そういえば岸田劉生展 http://ryusei2011.jp/
こないだ日曜美術館で見た。
解説に出てた絵描きさんって前に日曜美術館で亡くなった方の似顔絵を描いてた人なのかな?

若い頃は美術館でどこかのガイドさんが何かを語っているのを立ち聞きするのを嫌っていたのだけど、今はそんなことはなく。まあ、知らないふりして聞くこともアリだなあと思えるようになった。

「絵は自分で見なくちゃいけない」っていう意地というか固定観念が無くなった。
解説だけがすべてではないけれど、少なくとも自分が絵と向き合って分かり得るモノっていうのはたいしたものではないとやっとわかったから。まあ、なんて自惚れてたんだろうと(苦笑)

やはり、その画家が好きで研究してる人っていうのは、すごく深いところまで見ているので、自分がなんとなく思ってたことをズバーっと言葉で表現されたり、逆に思ってもいなかったことをさらっと言われたりするとガツンとくる。
まあ、ボーっと見てて自分で気付くというのが絵や美術を見る一番の面白味なのだけど。それほどすべての人がすべてのことをわかるわけはなく。

最近よくこういう美術展のときは有料の音声ガイドサービスがあったりするのだけど、高いからって言わずに今度一度聞いてみようと思う。まあそれだけの価値があるか試しに確かめてみようと。
美術館もここんところのアートフェスやビエンナーレ・トリエンナーレなんかで変わってきてるみたいで、そこがいまどきの現代アートが美術館に逆に与えた効用なのかなぁと思ったりもする。美術って、その人のモノの見方をどれだけ変えられるかなんだよね、結局。とも思う。それに関わっている人が変わらない美術なら一般人には余計たいして意味なんてないだろうとも。

キワキワにいるドクドク。それがないならその人にとってそれは芸術じゃない。ほんとは究極に個人的なものだと思う。のだが。それが人と繋がっているという不思議を感得するっていうのも密やかな愉しみなのだと思う。慣れ合いではなく。。