象の夢を見たことはない -162ページ目

チーズ考

ヤギのチーズを頂くわけだ。
三越で買った。
アルムおんじが作ったのではなくスペイン産だ。
そしてそれはカビで緑なわけだ。

ゆきちゃーん。とハイジは言う。
「ヤギの目ってこわいよね。」と友達が動物園でヤギを見ながら言う。ヤギの目を覗き込む。水平のスリット型瞳孔なのだ。ワレワレハっていいそうな宇宙人の目である。たしかにコワイ。
そしてハイジを思い出す。

中国の肉市場では犬が撲殺される犬をながめている。そんな光景に出くわした。
そう別の友達は語った。茶色の犬の肉が比較的旨いのだと小学生の私に誰かが語ったことを思い出した。

そしてチーズをナイフで削る。

チーズがどのようにして発見されたのかは正確には定かではないが、「アラブの商人が羊の胃袋を干して作った皮の水筒に山羊のミルクを入れて砂漠を旅していた途中に、砂漠の疲れとのどの渇きを癒そうと水筒をあけたところ、中からミルクではなく澄んだ水(乳清)と柔らかい白い塊(カード)がでてきた」というのが最初のチーズの発見であるという説が有力だとされている (by wikipedia)

濃い土の味がする。
内部に青かびを植えつけて熟成させる。そんなことをわざわざするわけである。
けれど、なぜか大地そのものを食べている、そんな味なのである。チーズなんぞまともに食べたことのない日本人の自分にもそれがわかる食の深さ。何?これは何?

土曜日、運動しすぎてカラカラな身体で街へ出た。朝も昼も食べてない。ウインドウショッピングをしてて気づく。忍耐力がない。歩く速度もなにかに対する反応も遅くなっている。これはダメだと家に帰る。そしてワインでそのチーズを流し込む。

遠藤周作はパリ時代、お金がなくてパンとワインとチーズだけで過ごしたとどこかで読んだ記憶がある。過酷な砂漠で消耗しきったカラカラの体に沁み込む。そんなふうにして生まれた食べ物。

歴史というのは長い年月の偶然の積み重ねで出来ている。ハンバーガーやポテトフライやホットケーキにはない。そして、いつの日かそんなイージーな食べ物に駆逐されてしまうのだろうか。

はじめての村上春樹

asahi.com 〈はじめての村上春樹〉世界のカオス 向き合う楽しみ

いろんなことをもっともらしくテレビやマスコミに説明されることに飽きた自分にとっては、こういう感じのゆるい解説のほうがいまどき抵抗がない。
安西水丸氏ってこんな姿かたちの人だったのね。ちょっと服とかカッコいいじゃん?
エッセイの挿絵をみてると、そしてワタナベノボルって人称で語られる人ってなんかすこーしどんくさそうな丸顔の人だと思ってた。ていうか彼の挿絵だと村上春樹も丸顔だけれど。

春樹氏の字はちょっと油で揚げた「かりんとう」みたいで読みやすいとか、「午後の最後の芝生」が僕は好きでとか、『日出る国の工場』の話とか、彼が好印象を持つ部分というか感覚というかが自分と似てるなあと。そういうとこは前々から少し思ってたのだけど、だから自分と同じ丸顔だと勝手に思ってたのかもしれない。すこーしドンクさそうな苦笑。

「午後の最後の芝生」は、ほんと村上春樹らしい短編だと思う。夏の芝生とか、心地よい労働とか、一服したときのそよ風とか、それでいてきっちりあの喪失感が入ってて。
1985年に文庫版の『羊をめぐる冒険』から入って初めて手にとった短編集が『中国行きのスロウ・ボート』だった。いまでも村上春樹の好きな本を1冊だけ選べといわれたら、この本を選ぶと思う。

『日出る国の工場』は、小学生になって自分も一緒に工場見学に行くような気分で読んだ。消しゴム工場の話がなぜか好きだった。たぶん、帰りにおみやげの消しゴムを貰うことを想像してたからかもしれない。またしても現金なヤツである。なんせ読んでいるときの気分は小学生なのである。
消しゴムって今ではほとんど使わなくなったけれど。

中二病

あるミュージシャンのブログを見てオモタ。我に酔って正義を叫ぶほどキモイものはないなと。そして同時に我に酔うほど気持ちのいいものもないことを俺も知っている。だが、実際に作家や芸術家や歌うたいと言われる人達の歌を聞いたり絵をみたり小説を読んだりすると、そういう意識レベルではない部分が伝わってくる。

大学の一般教養の哲学でルソーの学問芸術論が題材にあがった。
彼は書いたものは立派だけれど、私生活はその内容とは真逆で奔放なヒドイ人間だった。
哲学の先生は書いたものと私生活とは別であって、その私生活によって書いたものが糾弾されるべきではないと講義で語ったのだけれど、それについては全く未だに納得はできない。

ただ、彼を芸術家として捉えるならば…しかし、意識と無意識をあわせたユングの言うセルフとして哲学があると言われるといやーそれってどうなん?と思ってしまうところに、まだ人の正義を信じる自分の青さがあるのかもしれない。

クリムトの哲学

$ニャンちゅうなブログ-クリムト

残念ながらウィーン大学講堂にあった彼の医学・哲学・法学はナチス軍によって1945年に消失した。
これらが残っていたら間違いなく彼の最高傑作だったろうと思う。

ちなみに、このウィーン大学大講堂の天井画3部作は「人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。」(from wikipedia)と。この「哲学」とそして「医学」、「法学」の絵を見ると、苦悩したり誇らしげに立ったり誰かを支えたり、そういう不安定な人間そのものがそれらの学問という柱を作るのであって、知性などというシロモノによって立つものではないと、そんなふうにクリムトは言っているように自分には思える。正義というのもまったくその哲学や法学によって支えられているわけで、そう考えたほうが自分にはしっくりくる。それは知性などによって立つものではない。そんなふうに思う。

ハー・マジェスティック・シアター

『英国王のスピーチ』を観た。
ジェフリー・ラッシュといえば、今どきの若い衆だと『パイレーツ・オブ・カリビアン』なのだろうけれど、自分的には『シャイン』。で、彼がみょーに好きなのか、気になっているのか彼目当てで借りたのだが…

コリン・ファース。『シングルマン』で出てた彼がまた主役だ。
『シングルマン』は結構好きだ。あのアールデコの美術はたまらん。
まあどっちもブリティッシュな感じなので、たぶんそうなのだと思ってたが、コリン・ファースってイギリスの俳優なんだね。

妹がイギリスに留学してたときはそっち系の学校行ってたからか、夏休みに遊びに行くとミュージカルやら演劇のチケットを取ってくれていて観に行った。なんなら、イギリス人とでも結婚してくれてもよかったのだが、そういうわけにもいかなかったようだ笑

どうも舞台の方が彼の国ではグレードとしてレベルが上で、そこから映画デビューして下界へって感じらしく。だから映画に出た時点でかなりキャリアを積んでて言い方は悪いけど意外と年喰ってる人が多い。日本でもそうありたいと演劇界では目指しているのだろうけど、だいたいからして、王侯貴族という権威がない日本では無理でしょ?しかもチケットはそんなにバカみたいに高くはない。娯楽として根付いている。

モノの見方というのは、家族や友人によって引っ張り上げられて変わる。そういうことを知っているか知らないかってやっぱり大きい。
逆に自分が知らないことはヤマほどあることを改めて気付かされた。世界は充分広いと思う。長生きなどしたくはないけど、いろんなことを知りたいと強く思う。

Her Majesty's Theatreなのね。ずーっとハー・マジェスティック・シアターだと思ってたわ(爆)コリン・ファースとは関係ないけど、マジェスティーと聞くといっつもここを思い出してしまう。初めて行った外国がイギリスだった。そのフットプリントは自分の中ではホント大きいものですね。

追記
wiki見てたら、『イングリッシュ・ペイシェント』も彼だったのね。その他『恋におちたシェイクスピア』やら『ブリジット・ジョーンズの日記』やら。。なんでこう印象がない人なんだろう?不思議と覚えてない。
森山未來ももともと舞台からなんだね。彼もなんか舞台役者さんのそんなニオイがあると思う。若いけどいい役者さんで好きだ。

醜文の日 

浜田省吾を見に行ってきました。

$ニャンちゅうなブログ-はましょー

トレーラーにプリントされた絵は都条例違反になるのでしょうか?
もしそうなったら、いつかヤツらの足元にビックマネー叩きつけてやるのでしょうか?

そして一文無しになるのでしょうか?
かもめは飛ぶのでしょうか?



かもめは関係なかったでしょうか?
いや聞かれても。。

船を出すのなら九月。

はい、行ってません、ハマショー。
今日は、その横の日本ガイシアリーナ競泳プールで試合でした。

$ニャンちゅうなブログ-プール

あはは。

あまりのタイムの悪さに文章が乱れました。
許してズ。

だがチームリレーでタイムは挽回したぜ。
しっかし、アップをちゃんとやらないと身体がこんなに途中で動かなくなるとは。。
年取ったわ。