象の夢を見たことはない -159ページ目

オロナミンC

風邪をひいた。
一晩寝ても汗もかかず、治りそうもないグダグダ風味の風邪だったので、ジムに行ってやった。無理やり汗をかいてしまえ。

さすがにつかれたので、バンドマン御用達と云われのあるあのレッドブルを飲んでみた。

$ニャンちゅうなブログ-レッドブル

正直美味くない。前もすげえ疲れたとき飲んでみたのだがたいしてオレには効かない。バンドマンじゃないからだろう。

まだ、レッドブルが日本に入って来てない頃、英会話教室でアメリカ人の講師が「なんで日本にレッドブルがないんだ?」と言っていて、それって何?と聞いても彼らもよくわからない。どうやら、エナジードリンクらしいのだが、何せモノがないのでこちとらどんなものかわからない。

オロナミンCみたいなものか?と聞けばよかったのだろうか。
どっちにしろ彼らはオロナミンCを知らないので話は通じるわけもなく。
ところでオロナミンCと言えば子供のとき、悪夢のようなCMを見た。いまだにトラウマだ。



子供ゴコロに「これはないわ!」と思ったのを覚えている。
クレイジーすぎる。
是非レッドブルに卵を入れてあのアメリカ人講師に飲ませてあげたい。そして若いバンドマンたちにも飲ませてあげよう。オーイエー!

それはアコースティックから始まった

そういえば、佐野元春、80年代半ばにそれまでコンサートホールでやってたライブとは別に、原点回帰のように、東京のライブハウスを中心にマンスリーライブをやり始めた。お客さんと至近距離での直のやり取りがしたかったとか。そこで、のちに『カフェ・ボヘミア』に収録されることになる出来たばかりの「99blues」とかをアコギで演奏したり。

曲がいったいどんな形で始まるのか、そして最終的にどんな形になるのか。

アコースティックというのが、バンドの前段階としてあるということを生で知る。そういうことがまさにライブ感覚で感じれることもあり、どちらかといえばお客さんのほうがエキサイティングな瞬間を目撃してたことになるわけで。盛況なうちにそのイベントも終了した。

考えてみれば、突然単身ニューヨークへ行ってコネクションもない現地のミュージシャンとアルバムを作るとか、カセットブックにしろ雑誌『THIS』にしろ、こんなふうなライブハウスへの原点回帰とか、自分がやりたいことは、たとえ一人ででもやってしまわないと気が済まない、そんなエネルギーがあの穏やかな感じの人の中にあるっていうことがなんだか不思議な気もする。



なんか簡単そうなコードやなあとか、途中で歌詞を失ってしまうとこも見てて楽しい。

アコギのライブがバンド解散後の終着点みたくなってしまってるのを観るのはやはりなんだか哀しい。アコースティックライブから、そこから始まる新しい形っていうのを観たいよ。

なので、このニュースはすごく面白い。ツイッターで彼がどこにつぶやくでもなくつぶやいてたことが、形になっていくのを見るのは、なんだか新しい感覚だ。

2011.11.11 Nothing's Carved In Stone村松 拓が追加。BYEE the ROUND松山晃太、12月21日(水)に吉祥寺WARPで弾き語りイベント 
(http://ro69.jp/news/detail/60151)
(クリックで記事に飛びます)

BYEE the ROUNDの松山晃太が、12月21日(水)に吉祥寺WARPで弾き語りイベント『コピ語りFIGHTER I -俺より強い奴に会いに行く-』を行う。その出演者発表第5弾として、村松 拓(Nothing's Carved In Stone)が追加された。

『コピ語りFIGHTER I -俺より強い奴に会いに行く-』は、弾き語りでコピー楽曲のみを演奏するというイベント。村松のほかに、笠原健太郎(Northern19)・渋谷 龍太(SUPER BEAVER)・石井卓(Jeepta)・松本 明人(真空ホロウ)・金廣真悟(グッドモーニングアメリカ)など、各バンドのヴォーカリストが出演する。今後もアーティストが追加される。

ハードコア

だいたい、あれだ、耳が肥えてくるまでに時間かかんだね。

だんだんと伸びてくる能力っていうのがあると思うんだけど、池谷裕二氏の本読んでると脳神経って天才になればなるほど能力に開きが出てくるらしく。
それと同じで、能力って、y=x二乗曲線みたく、いきなりギューンと上がり出すんじゃねえかと素人考えでは思うんだけどどーなんだろ?経験的に語学系はそういうとこあるような気がする。運動だって脳神経系だと思うし。ドンクサかったやつが、男子三日会わざれば刮目して見よ的に変わることあるし。結局、この諺?自体だってそういう脳の特性を語ってるんじゃないんだべか?なんて思う。

つーこんで、自分の場合はリズムが手がかりだったらしく、ライブを何回か行くようになるうち、気になっていろんなドラマーをガン見したり、変則的なリズムを好んで掴んで躍って遊んでたり、リズム勘のイイお客さんとかを眺めているうちに、それなりに熟成されるようなものがあったらしく。

土曜日にG4N目当てで行った上前津ZIONで、EACH OF THE DAYSを見て。
覚醒。
なんじゃこりゃーと。昔だったら「うわっ!ちょっと無理」って感じだったろうけど、自分でも知らない間に完全にそういうジャンルにハマってしまっていたらしく、血が騒いだ。初めて見たのに。

STAY HiGHだったのでよく見るDJさんもいて、何回か行ってる間にだんだん流す曲とかも見えて来て転換の間も楽しい。

そしてG4NのあとのMINOR LEAGUE。これも初見。EACH OF THE DAYS共々聞いたこともない。
これまた昔なら無理って感じだったんだけど、千尋の谷に突き落とされる前準備っていうのが出来てたらしく。この二組とも、2ドラムで、そのせいでいきなり眼が覚めたらしい。終始顔がニヤケっぱなし。ヤバし。中年不良だ。

でも、この手の音楽ってライブに行かなきゃ、ぜったいわかんねえと思うんだけど。
CDって爆音で聞けないし。いまごろ目覚めてどーするんだろおれ…
違った意味で千尋の谷だわ苦笑


「良心」

ちょっと村上龍の言葉に迷ったので、小林秀雄に戻った。

迷うと自分はいつも小林秀雄に戻る。
で、『考えるヒント』を読んでいたのだけど。
「良心」という題でこんなことを書いていた。

合理的に考えるということは能率的に考えるということとは違う。それは道徳の問題の上にもはっきり表れている。道徳の客観的原理などに誰が刃向かえよう。能率的に手間を省いて考えればそれは力と力との争いの問題になり下がる。そんなふうに人生を簡単に考えても、人生は簡単にはならない。
本居宣長が見破っていたように、恐らく、良心とは、理智でなく情なのだ。情であるがゆえ、それははかないものだけれども、それこそが命の敬虔であって、その自発的な力で生きていれば充分な何かであると。

要約するとこのようなことだと自分は読んだ。

考えるヒント (文春文庫)/小林 秀雄

¥590
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たぶん美というのも同じものなんだと思う。
能率的に手間を省いて考えても人生は簡単にはならない。
そして美というのも、やはり良心と同じように命の敬虔であって、その自発的な力で生きていれば充分な何かであると。

小林秀雄こんなことを書いてたんだ。一度や二度はこの本読んでるはずなのに。
やれやれ。
やはり小林秀雄一度や二度読んだだけではわからない。『考えるヒント』っていう題にもちゃんと意味があって。自分がそれについて考えたときに読まないとたいして意味がないらしく。読むというのは、簡単な行為だから、ただ単に読んでるだけでは大した意味などないんだろう。

精神に依存する美 ふたたび

RVR 龍言飛語ex版 キューバ音楽って何だ HD (クリックで飛びます)

国立芸術学校で10数年間、その間に100人とか200人いた生徒が卒業生は2人とか5人とか。
才能がない人にずっとやらせるのは残酷なんですよ。
だからあんたら才能ないから、なんか他のことやりなさいって途中で方向転換させるわけですよ。

そんななかで、5年か10年かに1人とか、最後まで残ることでもすごいのに、なんか今年のサックスですごいのが一人いるらしいってのが噂で広まって、そういう奴らが超有名なバンドに引き抜かれるわけですよ。
で、そういった連中だけでオーケストラとかバンドが成立してる。

要するにものすごい巧い人がやれば、キューバ音楽じゃなくても、タンゴでもなんでもそうですけど、クラッシックでも、聞いてて気持ちがいいと。


ううむ。
例えば、マウスの話でかしこいマウスはどういう能力テストをやらせても速いとか。

至極この話はもっともらしいのだけど、どこかでなにかが丸められてる感じがする。
同じような話で、以前、心理学者のジュディスラングロワの実験結果について書いたけど、

心理学者ジュディス・ラングロワ(Judith Langlois)は、何百もの人間の顔のスライドを集め、次にそれらがどれだけ魅力的かを大人たちに評価してもらいました。
それを次に3ヶ月と6ヶ月の乳児たちに見せました。
すると興味深いことに、乳児たちも大人が魅力的だと思う顔をより長く、しかもずっと長く見つめたそうです。
さらにそれらは、年齢・性別・人種は問題ないようだということも発見しました。
赤ちゃんはとにかく最も魅力的な男性・女性・赤ちゃんをより長く見たそうです。
写真に写っている人が黒人であるか、アジア人であるか、白人であるかに関係なくです。
また、母親がどれだけ魅力的であるかや、自分がどの人種に属しているかとは無関係にです。
(出典:留学生必須講義2 心理学入門)


うちのオヤジは昔錦鯉を飼ってて、そういう人はあの世代の職人さんによくいたんだけど、今はどうなんだろう?で、『燐光』っていうマニアな鯉雑誌をとってた。いわば鯉のグラビア写真雑誌なのだが、最近は中国とか香港とかシンガポールとかでも錦鯉の品評会があって。その品評会の結果とかが鯉の写真付きで出てたりする。まあそういう国での愛燐家は華僑なんかのお金持ちなわけだけど。

そういう品評会では、従来の日本人的な美意識の階層構造ではない序列で賞を取る鯉がいる。もちろんそれなりの階層構造を引き継いではいるのだけど、それとは別な流れも出来てきているようで。

その日本人的な美意識の階層構造っていうのも慣れないと見方はわからない。陶磁器とかと同じだと思う。見てるうちに慣れてくるのか、あるいはいわゆるその筋の世界の価値観の階層構造が自分の脳の中に引き写されて作られるのか。自分が気になるのは、それが本来人が持つ美意識の成長方向として正解なのか?ってことで…。

どうもそれはやはりなにか違うような気がする。どのレベルまで生物としての人間基盤の美が共通なのかわからないけど、あきらかに民族的だったり、あるいは社会的だったりの後天的な要素がその価値観を塗り替えてたり。ただ飛び抜けた何かっていうのは、好みこそあれ、どちらからも評価される。
その飛び抜けた何かっていうものの正体がまだ自分にはわからない。時代のせいなのかもしれないし、先祖返りしている何かなのかも知れない。

こんな芸術論的な話って昔から何度もされてるんだけど結論なんて出ていない。心理学的な話とか。でも今や脳科学的な観点で書かれている池谷裕二氏の本を読んだほうがよっぽどわかりやすいし的を得た答えが出てる。

ともあれ、「最高のものは人類共通か否か?」という答えは、その人個人の生きる姿勢みたいなものと直結していて、それはその人の芸術家気質とか職人気質と密接に結びついてるような気もする。というかその人がある分野で一流になれるエゴを持っているかどうかというか。どっちがあっているかはひとまず置いておいても、目指す場所が見えない人は結局一生なにかを残せず終わるような。こだわりが持てないと結局ダメで。なんでもそうなんだと思うけど。もっともこだわりがあっても見てる範囲や見える範囲が狭過ぎてそれ以前の人もいるんだけどそれは論外。

まあね、なぜこんな話になったのかっていうと、小説はすごいけど、正直、音楽とか映画とかファッションとかのセンスってどうなのよ?っていうのがあるのだよね、村上龍。小説もどこかこの話と同じで、ディテールはスゲーんだけど全体を見るとどこかでへんなバイアスが掛かっていびつになる(苦笑)まあそれも含めて村上龍でそういうのがないとオモシロクない。