『精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱』 | 象の夢を見たことはない

『精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱』

ケヴィン・スペイシーの『精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱』を見てて思ったのだが、アメリカ映画ってここまで表現として来ているんだけど、なんか日本の映画とかとくにテレビ系列のヤツとかマンガとかっていつまでたっても子供レベルだなあと。

むかしカンブリア宮殿でKOMATSUの坂根正弘氏が出てたときに、ダントツ商品のいくつかを紹介していたのだが、ブルドーザーのブレード(排土板)の土砂を押しだす能力を上げる話が。

ブレードの両サイドのウイングの部分の角度を改良してっていう話だったのだけど、村上龍が、「もともとの形がこうあって、それで初めて今の形になったと。いきなり今の形っていうのはできないわけですよね?」って話をしていた。

表現というのは、別に言葉によるものだけではなく。絵だったり、写真だったり、舞踏だったり、あるいは極端な話で会社運営だとか、必ずしも字義的なものに限られたものでも言語の使用を伴うものでもないし。
知覚の抽象化や概念化は言語でのみ行われるわけではなく、自身の体験から一般化された認知概念の体系化とか、芸術作品の制作やはたまた製品開発や研究作業やらの先端では、言語化されることに先立つ何かがあったりするわけで。

そういう言葉を通さない表現というのも、いきなり今の形っていうのはできなくて。それはこのブルドーザーのブレードの話と同じで、だからそのために表現する。
けれど、最初にブレードを作った人には今のブレードの形の意味がすぐにはわからないかもしれない。

一方で、表現されることで解放されるというのは、フロイト以降の精神分析学派の基礎的な事実みたく、箱庭療法とかもその一つだったりするのだけど、そしてそれは治療によって正常なかたちへと近づいていくと。うーむ。そしてそれを評価する人が社会性だとか統一性だとかを持った形というのを認知して治療がうまくいっているかいないか判断するってのも感覚的にはわかるけど。。
あるいは、根本的にその考え方だと、理想の形とか本来の形があって、人はそこへ戻る力があると言ってるわけだけど、そしてそれが人が持つ神性だとどこかで言ってる人がいて。表現される前に既に正解は自分の中に根源的に持っている的な。

なんかこの2つの話、うまく円環が閉じない部分がある。どこかで何かががウソ臭い。あるいはもともと閉じる話ではないのかもしれない。

田口ランディーが村上龍との対談で、「私は、この世の中を悪くしてるのは、カウンセラーという人達だということを強く思っていて、カウンセリングというのはもうちょっとなくならないといけないというようなことをよくいって、嫌われているんです。」と。

なんか、そのカウンセリング先進国のアメリカでこういう映画を作るようにまでなったのかとちょっといろいろ考えてしまった。

しかし、わかりやすければ映画として良いという解釈って…ほんと子供だ。村上龍の「日本のメディアは国民に「わからせる」という絶対的な使命を持っている。知らせるのでも伝えるのでもなく、「わからせる」のだ。」という言葉を思い出した。そういう価値観が蔓延してる社会というのはどこか異常だと俺は思うのだけれど。“Shrink”しているとはまさにそういう状態だと思う。精神医学を専門にしている医師をshrinkというのと当然引っかけてあって。ていうかカウンセラーがシュリンク(縮退)っていう言葉と同じだというところにアメリカ人の無意識の意識みたいなモノの妙が不思議とあるように思える。もっともそれも考えすぎかもしれないけど、ただ単にshrink(縮退)したshrink(精神分析医)っていうダジャレ的意味だけなのかもしれない。けど、この映画のそういうとこ含めて注意して見ないといろいろわかんねえままなんだろうなあ。いろんな症状の人が出てくるのだけど、それらの人の行動様式は精神疾患について知らずに薄っぺらい演技論でしか見てない奴にはわからない。日本ではカウンセリングという文化が根付いてないからわからない部分も多い。オイラも正直わからない。てかさあ、作品けなす前に少しそういうことも考えようよ。好きとか嫌いって言う感想ならわかるけど。しかし、「精神科医ヘンリー・カーターの憂鬱」って…この邦題だけだとそういうこともまったく消えてしまっててなにがどうだかさっぱりわからないんだけどね。

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禅マインド-ビギナーズマインド。一神教的な思考に冒された状態で考えていると初心というのは完成されたものと言っていると勘違いしてしまっていたが今読み返したら、まったくそういうものではなかった。あーなんのことはない、俺もシュリンクしてたのだ。初心、初心!