象の夢を見たことはない -135ページ目

夏一

夏一ってかくと名前みたいだな。
しかもちょっと字面がかっこいいかも。
新潮文庫の100冊に対抗してできた集英社文庫のナツイチ
買わないと誓ったのだが、言ったそばから買ってしまっていた。

$ニャンちゅうなブログ-つるかめ

仲里依紗と余貴美子ってどっちもなんだか好きなのだ。
帯買いしてしまった。

夏の本屋はなんだかやばい。
暑い道路から一歩入ると、冷房がひんやりと。
そしてしっとりとした本の匂い。
文芸春秋だけ買うつもりだったのに、テンションあがってしまった。

YouTube【予告】つるかめ助産院~南の島から~ 仲里依紗

おばあと余貴美子って、ちゅらさんじゃん。
みどころrrrr レニーハート笑

平和でイノセントな世界

He thinks he is somebody but he is just a nobody.
You think you are the only one, but everyone thinks you are just one of them.

自己愛者に対して人並み以上に嫌悪感があるのは、自分もそうだからなのかもしれない。あるいは、自己中で短気な父親に閉口してきたという子供の頃からの想いが強いからかもしれない。そのどちらでもあるからかもしれない。

そして、逆にそういう人物に惹きつけられてしまう。打ちこんではいけない池やバンカーを意識しすぎるあまり逆にそこに打ち込んでしまうゴルファーのように。

人がなにかを嫌いであることに単純な理由などない。むしろ、複数の事項が重なりあってこんがらがっているからで、それらが強い引力でもって同じようなモノを引き付けてコンプレックス(複合体)になっているからだ。その複合体のコアは明文化することのできないアフェクトのようなものであって、けっして単純に、たとえばそれを言葉にすることによって呪縛が取れるようなシロモノではない。

それらはその人の影であるけども、それを含めてその人なのであって、逆に影が無くなれば死んでしまうという童話が指し示すように、それがないと生きるエネルギーを失って死んでしまう。そんなものが明文化などできるわけはない。

ときにそれは、その人より大き過ぎてその人を殺してしまうことがあるらしい。影がその人を呑み込んでしまう。そういう物語もどこかにあったような。芥川賞に求められているのはそういうモノであって、けっして「文芸」なんてものではないと思う。もっと普遍的なものであって、いまの時代に、特に人が求めているのはそういうものであるが故に、期待値が大きいというか大きすぎるんだと思う。石原慎太郎氏が選考委員辞めたのも彼が生きている間はそういうものが出てこないと見切ったからなんだろう。

でも今そういう人がでてきたら、確実に時代にレイプされてボロボロになって死ぬしかない。それがいいことなのか悪いことなのか。ただもしかしたらそれがその人にとって本当に人生を生きたことになるのかもしれない。それは多分その人にしかわからないし、その人もよくわからないかもしれない。

成熟した社会という幻想。社会は成熟するという幻想。ripe matured … ばかばかしい。さまざまに生きる人の偶然と必然の波が洗うこの世界にあって、平和というのは波間に光る太陽のようなものでしかない。常にそこにあることを期待できるわけもないけれど、どこかには必ず現れる。ただそう信じるしかない。自分に酔ってどうのこうのと叫ぶ彼らの姿は滑稽を通り越してアホまるだしにしか見えない。

ただ、
酔っていながら醒めている。
醒めていながら酔っている。
そういう刃物の上を歩くヤツにはどうしても惹きつけられる。それは一体何故なんだろう?それも禅のいう初心の中に含まれるのだろうか?もしそうでなければ、逆に禅などおもしろくもおかしくもない。



ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義であるとか。
まったくもってすばらしい。

JST 15 08

ブラボー、ブラボー

午後八時のライブハウス

光の束にうずくまり

ギターをかきならし

自分に酔いしれながら

戦争反対を叫び続ける自己愛者たち

飽きることなく自分の中心で平和を叫び続ける

(佐野くん風)

『冥土めぐり』 鹿島田真希

鹿島田真希(かしまだ まき、1976年10月26日 - )は日本の小説家。特にフランス文学の影響を受けた前衛的な作品を執筆している。(from wikipedia)

やはり、という印象から大きく外れることはなかった。

この世代の女性は、誰もがどこか倦んだものを心の中に持っているのか?と思わせるほど、その作品に判で押したような印象を持ってしまう。疲れている。たぶんなにかを待っているのだけど、待つことにも疲れてしまって、今は何を待っているのかもわからなくなってしまった。そんな印象。かならずしも同世代の人たちがすべてそうであるわけはないとおもうのだけど、もしかしたらそうなのかもしれない。

主人公は奈津子。出てくるのは、彼女の母親、彼女の弟、そして夫の太一である。
奈津子が夫の太一と二人で、かつて栄華を誇った老舗のホテルに泊まる旅行に出るところから始まる。そのホテルは今では、区の保養所になりさがり、平日1泊5千円で泊まれるようになっていた。

彼女の母親はそのホテルに対して強い思い入れを持っている。彼女が子供のころに泊まったホテルで、奈津子も子供の頃、母親とともに家族でそのホテルに泊まったことがある。そのホテルに泊まることが母親にとって、お金持ちの選ばれた家の娘であったときの栄光の象徴であった。しかし、夫に先立たれいつのまにか貧乏になってしまった母親はまだその栄光を捨てられずにいる。過去の想い出とそのときの自らの有り様にすがりつく様にして生きている。

そして弟も同じように、自らが価値のある人間であると思いこむために、分不相応なレストランで食事をするような生活を好み、あげくカード破産する。だがしかし彼のメンタルは変わることがなく、母親と同じく良かった時代の想い出に浸り夢をかたる。

そういう家族の中で、区の職員である太一と結婚した奈津子は2人から責められる。なぜそんなシケた職業の男と結婚するのか。もともと奈津子は母親のような派手な生活を好む人間ではなく、スチュワーデスをしていた母親がその職業を勧めても、地味に不登校児のサークルの会報をホッチキスで留めるような手作業を好む人間であり、子供の頃から願っていたそういう職に就いた。したがって母親とも弟とも合わないのだが、押しの強い2人には常に逆らえずにいる。自分の価値観とはあわない家族をもったが故に理不尽な人生を余儀なくされている。

では夫の太一はどうなのかというと、その奈津子によって気の毒なくらい他人の悪意に鈍感で無垢な夫として描かれている。結婚して突然脳の病に侵され、車椅子の生活となっても、やはりその鈍感さはかわらず、むしろ余計に人の善意を信じて疑わないそんな夫に対し、奈津子も最初は世話を焼いていたが、もう疲れてしまったのだ。今は残酷といえるほどの冷めた目で夫を見ながらも、太一の後ろを歩き、隣の席に腰を下ろす。

オイラが感じたのは、夫は実は結婚当初から彼女の心の中でのスケープゴートであったと。そうであると意識していないか、あるいは意識をすることを敢えて避けているが、母親と弟の暴力的な仕打ちに対して、太一は彼女が自らの心の拠り所を得るための杖代わりであった。夫に対し、愛情というよりむしろどこかでみくびれる安パイという気持ちを持てることで結婚し、それによって心の平衡を保っている。無垢であるが故にあなどれる。あなどれるがゆえに心の優位を保てる。だがしかし、そうであることに対し、心のどこかで彼に対し後ろめたい気持ちが働いていて、時に突然妙に夫に親切にしたくなり、その親切を施すことに快感を覚えている。

うーぬ、なんか知ってる人にこういう感じの人いるかも。

この短編の題名がなぜ『冥土めぐり』なのか。それを書いてしまうとマズいのでそれはここで伏せておく。おそらくそれがこの短編の主題なのだけど、最後にほんのささやかな、ささやかな救いがあることだけは書いておこう。

まあ、村上龍は芥川賞には絶対推さないだろうな。自分も読まないつもりだったけど、ブログで上げてしまった以上、読まざるを得なくて読んだのだけど、うーん…、て感じ。というか文芸春秋って初めて買ったけど、こういう本なのね。なんかやっぱそんな感じだ。読んでも読まなくてもどうでもいいけど、敢えて読む必要もないなあ。

しかし芥川賞の最近の作品ってなんか別のストーリーで同じパターンで終わる本を延々読まされている気がする。ささやかな解放というかささやかな救いなんちゃらっていう。

芥川賞自体もうなくなっちゃっていいんじゃないか?と村上龍と同じようなことを思ってしまった。文芸といわれるジャンルって、もう今の時代、別にあってもいいけどなくたっていい。今は娯楽小説とかエッセイとかの中にそういうレベルの切り口の文章は転がっている。超えてるよなと。あえてそれは「文芸」である必要はないと思う。
(ていうか、もっと「おおっ…そういうことか。むむぅ」っていうのが漫画にも映画にもある。お笑い系や深夜番組でももっと鋭い切り口の会話あるし、そっちのほうがすごいと思う。)

$ニャンちゅうなブログ-文芸春秋

追記
※スケープゴート
「贖罪(しょくざい)の山羊」原義としてはヘブライ聖書において、贖罪の日に人々の苦難や行ってきた罪を負わせて荒野に放した山羊を指した。
現在の意味はこのやや宗教的な意味合いから転じて、不満や憎悪、責任を直接的原因となるもの及び人に向けるのではなく、他の対象に転嫁することで、それらの解消や収拾を図るといった場合のその不満、憎悪、責任を転嫁された対象を指す。
心理学の一つの用語としても存在する。特に精神分析学や社会心理学において、人は無意識のうちに、不満や不快を覚えると、不快感やルサンチマンなどを他者に対して抱く。このような現象はあらゆる集団で発生しうるものであり、そうした不快感を押し付けられたり被られたりした個人は、その特定の集団内においてスケープゴートとなるのである。(from wikipedia)
もともと鹿島田真希さんはキリスト教の信者さんで中学生の頃は修道女に憧れていたとのこと。
そういう意味でモチーフとして聖なる愚者によって救われるという方向へ持っていったのだが、個人的にはそれはあまりに綺麗事過ぎるというか、ウソくさい終わり方に見えて、どうも気に喰わない。どちらかというと彼女の心の闇にあるのは別モノ(彼女が好きな倉橋由美子の残酷童話的結末)でそう考えた方がそれまでの文章の流れとして自分的には納得がいく。キリスト教的というよりユダヤ教的な結論のあり様というか、そっちのほうが自然だ。
うがった見方をすれば、何度も書き直したのは、聖なる愚者としての結論へ導く必要があったからなんじゃないのかと。プログラマー的に言えば、筋がわるいプログラムと同じ匂いがする。ぴしーっと収まってないというか、どこか収まりが悪いというか。何度も書き直されてるプログラムも印象はこんな感じ。
ちなみに彼女の夫は聖職者で夫は、妻の受賞に際し、彼女がそれを実感する前に涙を流して喜んでくれたとか。その記事を読んだとき、「ううぬ、それは…」とオイラは絶句してしまった。

アラサー

『冥土めぐり』

まだ読んでいないのだけど、それを読んだ人の感想を読んで、「ああ、そっちなのね、やはり」と思ってしまった。読みもしないのに不遜な考え方なのだが、たぶん自分は読まないだろうなと同時に思った。そして、今鹿島田真希さんの年齢をチェックしてそれが間違ってないことを直覚した。

長けた世間智とそれに相反する純粋さが共存している。純粋さに対する憧れというかそれを求める心というか。一方で、それを遠ざけようとする世間智があって。それが共存するが故、ふとしたときに浮遊感が見えるときがある。

この年代の友達はいるのだけど、ただそこまでティピカルであると感じたことはない。ただときおり話をしてて地雷を踏むことはあって、それはだいたいその純粋さの部分に踏みこんだところで怒られる。だからたぶん、彼女達の有り様を文章に落とし込むとこういうふうになるのだろう。

女性が共感を覚えるのはこんなふうに彼女達の内面を綴った文章なのだろうけども、男がこの手の本を読んでもいつも物足りないと思うのは逆にその点で。そういう点でたぶん、例えば村上龍は推さないだろうなと。男から見た女の怖さというのが、それも直截的なウエットな怖さというのがどこかに鋭く結晶している一文があれば、少しは違うのだろうけど、たとえば山田詠美とかはそう。あの年代までで、そういうのが最近の女流作家の方から消えてしまって、全体的に輪郭がぼやけてうまくカタチをとらえることができない。たぶんそういう文章なのだろうと。

それを確かめるために読んではみたいけど、新刊をわざわざ買う気はおこらない。うーん、文芸春秋の9月号を買えばいいのか。あー、ちょっと本屋行って見てくるかな。