インド英語
GHEEEはぐへえええと読むことにしたそうです笑
あ、いま訂正が入り、ぐぇええだったそうです。
どっちでもええわ笑
語源はGHEE(ギー)。
インド英語は発音が変だとよく言われる。というか実際変である。
だがそれは発音だけではない。
もともと英字新聞って結構読むのに苦労する。これは日本の新聞だってそうだ。子供の頃、初めて新聞読んだときに、「なんだかへんな日本語だなあ。読みにくいなあ」と思った経験はないだろうか。そういえば、文語体・口語体というのを子供の時に習った。いまどき文語なんて使わないけれど、実は同じような小さなハードルが新聞にはある。新聞独特の書き方というのは、あきらかに話し言葉と違うので、国語の教科書に書かれているような文章は読めても、あるいは天声人語は読めても、さらに一歩文章用に特化した新聞本体の文章は読みにくい。
そういうのを英字新聞を読むときに追体験するわけである。そして、インドで英字新聞を読むとさらにはてな?となる。英字新聞に慣れているわけではない自分が、最初インドの新聞を読んだときには、もうまったく読めない。英語で書いてあるのに英語には思えないのである。。
すいません、盛りすぎました。
それは、何故か。インド英語は発音だけでなく、単語も違っていることがあるのだ。たぶんローマ字を見た英米人の反応と同じようなものだろうが、その発音に対して想像と違うアルファベットが当てはめられたりしているので「これって、なんですか?」となる。一般の言葉はそんなことはないけれど、インド独自の文化とか風俗とかに関わる言葉はそんな読みにくい言葉がけっこうある。そして、新聞の場合は造語が結構使われていたりする。それもインド独特の英語の造語だったりする。あと、名前は特にそうだ。インド人には神様の名前と同名の名前を持つ人が多いがこれがまた読めない。いや、読めないことはないけれど、なぜそこでそのアルファベットになるのだ?という感じで。
それだけでなく、英語でももう使われないないような単語だとか古典的な言い回しとか残っていて、辞書をひくと、≪古≫と注釈されてるような単語が特に新聞では見受けられる。まあ、ある意味本場の英国より格式が高いとも言えるのかもしれないが…。
とはいえ、インド人と英語で仕事はできる程度に喋れはするけれど、TOIECで800点ギリギリレベルの人間にはなかなかインドの英字新聞は歯が立たない。
そういったわけで、インドの英語はインド英語なりの難しさがある。
自分の場合、インド人とは英語でメールをやりとりをしていたが、英語ネイティブとはやりとりしたことがない。だから、逆に、自分にとってはそっちのほうが難しいかもしれない。そして、ネイティブと話すよりたぶんインド人と話した方が通じる気がする。しかし、あの発音はまだ真似できない。
これだけ離れてしまうと、なんだかでもすごく懐かしい。
まあ、でも実際にまたインドに行けたなら、あっという間に「ぐぇええ。(´д`lll) 」ってなっちゃうだろうけれど。
あ、いま訂正が入り、ぐぇええだったそうです。
どっちでもええわ笑
語源はGHEE(ギー)。
インド英語は発音が変だとよく言われる。というか実際変である。
だがそれは発音だけではない。
もともと英字新聞って結構読むのに苦労する。これは日本の新聞だってそうだ。子供の頃、初めて新聞読んだときに、「なんだかへんな日本語だなあ。読みにくいなあ」と思った経験はないだろうか。そういえば、文語体・口語体というのを子供の時に習った。いまどき文語なんて使わないけれど、実は同じような小さなハードルが新聞にはある。新聞独特の書き方というのは、あきらかに話し言葉と違うので、国語の教科書に書かれているような文章は読めても、あるいは天声人語は読めても、さらに一歩文章用に特化した新聞本体の文章は読みにくい。
そういうのを英字新聞を読むときに追体験するわけである。そして、インドで英字新聞を読むとさらにはてな?となる。英字新聞に慣れているわけではない自分が、最初インドの新聞を読んだときには、もうまったく読めない。英語で書いてあるのに英語には思えないのである。。
すいません、盛りすぎました。
それは、何故か。インド英語は発音だけでなく、単語も違っていることがあるのだ。たぶんローマ字を見た英米人の反応と同じようなものだろうが、その発音に対して想像と違うアルファベットが当てはめられたりしているので「これって、なんですか?」となる。一般の言葉はそんなことはないけれど、インド独自の文化とか風俗とかに関わる言葉はそんな読みにくい言葉がけっこうある。そして、新聞の場合は造語が結構使われていたりする。それもインド独特の英語の造語だったりする。あと、名前は特にそうだ。インド人には神様の名前と同名の名前を持つ人が多いがこれがまた読めない。いや、読めないことはないけれど、なぜそこでそのアルファベットになるのだ?という感じで。
それだけでなく、英語でももう使われないないような単語だとか古典的な言い回しとか残っていて、辞書をひくと、≪古≫と注釈されてるような単語が特に新聞では見受けられる。まあ、ある意味本場の英国より格式が高いとも言えるのかもしれないが…。
とはいえ、インド人と英語で仕事はできる程度に喋れはするけれど、TOIECで800点ギリギリレベルの人間にはなかなかインドの英字新聞は歯が立たない。
そういったわけで、インドの英語はインド英語なりの難しさがある。
自分の場合、インド人とは英語でメールをやりとりをしていたが、英語ネイティブとはやりとりしたことがない。だから、逆に、自分にとってはそっちのほうが難しいかもしれない。そして、ネイティブと話すよりたぶんインド人と話した方が通じる気がする。しかし、あの発音はまだ真似できない。
これだけ離れてしまうと、なんだかでもすごく懐かしい。
まあ、でも実際にまたインドに行けたなら、あっという間に「ぐぇええ。(´д`lll) 」ってなっちゃうだろうけれど。
フローズンプラネット
昨日、NHKのフローズンプラネットを見ていてなかなかショッキングな映像が。
オオカミに取り囲まれるジャコウ牛。群れは一瞬の隙をついて逃げ出す。追うオオカミたち。1頭の若いジャコウ牛が遅れてオオカミにつかまった。それを横目に見ながら通り過ぎる仲間たち。そしてそこへ…
ようつべで探したら別の番組?での同じ映像があったのでそれを。
後ろの音楽がウザイけど。
よく動物は仲間同志では喧嘩しても殺すところまで行かないとか、喧嘩して殺し合うのは人間だけだとか誰かが言ってるのを聞いたことがあるけど、だいたいその人達は動物の何を見てそういう断定をするのだろうか。なんだかそれってムカつく。
オオカミに取り囲まれるジャコウ牛。群れは一瞬の隙をついて逃げ出す。追うオオカミたち。1頭の若いジャコウ牛が遅れてオオカミにつかまった。それを横目に見ながら通り過ぎる仲間たち。そしてそこへ…
ようつべで探したら別の番組?での同じ映像があったのでそれを。
後ろの音楽がウザイけど。
よく動物は仲間同志では喧嘩しても殺すところまで行かないとか、喧嘩して殺し合うのは人間だけだとか誰かが言ってるのを聞いたことがあるけど、だいたいその人達は動物の何を見てそういう断定をするのだろうか。なんだかそれってムカつく。
GHEEE @にゃごや
じーワンマン@なごや行って来たぜ。
tokyo pinsalocksでは、喋るのにしゃべらんなーというヒサヨっちなのだが、今日初めてワンマンに行って、「あーこりゃ、しゃべれんわー」ということが改めてわかった。
原因は前の二人のオヤジだ笑。
飛ばす飛ばす。いやー、あいかわらずフォローしようのないあのMC。
近藤氏のイレギュラーなあれをフォローしながら、さらに被せていくフカヌー。投げも投げたり、取りも取ったりである。普通の人にはあの被せは無理っす。しょうじきオイラもオヤジだけれど、あのノリはわからん。というか、オヤジ同士の自虐ネタ。しかも、びみょーにお互いに相手をそこからさらに引きづり降ろそうという。あんなのに入って行けるわけがない!
いやー昨日の弾き語り行けばよかったよ。当然、目当てはMCである。7割MC目当てだな。あとはいいや
そして今だに音源持ってない。そんな状態でワンマンに行ってしまう。
あ
、前回のライブから一曲だけ知ってる曲が増えた。すげえぜ、オレ!
アコースティックだと思ってたこの曲、My Imagination
バンドの歌だったのねえ。ええ歌やわ。おもわず歌ってしまったわ。
てか、コレ見てからライブ行くと、ヒサヨねえちゃんむちゃケバい!(大阪弁ふう)
なちゅらるメイクでお願いします。かっぱえびせん系ラブ。
AFOCとのダブルヘッダーお疲れ様でございます。風呂にゆっくり入って休んでくだされ。
そしてなぜだか近藤氏の、ギター持ってないときの暴れっぷり
楽しー。ステージアウトして、みなさん近藤氏注目するのだが、フロアでお客さん同士がご対面となるわけで、あれがみょーに気まずいのである。そしてオイラはそんなきまずそうなお姉さん方を見てニヤニヤ。
しょうじき、もうアレだけみれればいいや(←ザックリ過ぎ)
しかし、アンコール後に盛り上がるあのしきたりとか、一見さんにはわからない掟があるギー。フロアの真中はあけておかないといけないとか。あなどれないのだ。
そしてあたりまえだが音源もたない自分にセトリなどわかるわけがありません。許してズ。音源買うつもりはあるのでしょうか?いつまでそれで引っ張るつもりか自分でもわからないけれど。あ!エコバックは買う!あーあれはプレイグスのか。あーしかもエコバックじゃねえのか。そしてもう仇のようにすべての曲の後に「どうも、ありがとう!」と深沼氏。何押し?笑 サイコーであった。
tokyo pinsalocksでは、喋るのにしゃべらんなーというヒサヨっちなのだが、今日初めてワンマンに行って、「あーこりゃ、しゃべれんわー」ということが改めてわかった。
原因は前の二人のオヤジだ笑。
飛ばす飛ばす。いやー、あいかわらずフォローしようのないあのMC。
近藤氏のイレギュラーなあれをフォローしながら、さらに被せていくフカヌー。投げも投げたり、取りも取ったりである。普通の人にはあの被せは無理っす。しょうじきオイラもオヤジだけれど、あのノリはわからん。というか、オヤジ同士の自虐ネタ。しかも、びみょーにお互いに相手をそこからさらに引きづり降ろそうという。あんなのに入って行けるわけがない!
いやー昨日の弾き語り行けばよかったよ。当然、目当てはMCである。7割MC目当てだな。あとはいいや

そして今だに音源持ってない。そんな状態でワンマンに行ってしまう。
あ
、前回のライブから一曲だけ知ってる曲が増えた。すげえぜ、オレ!
アコースティックだと思ってたこの曲、My Imagination
バンドの歌だったのねえ。ええ歌やわ。おもわず歌ってしまったわ。
てか、コレ見てからライブ行くと、ヒサヨねえちゃんむちゃケバい!(大阪弁ふう)
なちゅらるメイクでお願いします。かっぱえびせん系ラブ。
AFOCとのダブルヘッダーお疲れ様でございます。風呂にゆっくり入って休んでくだされ。
そしてなぜだか近藤氏の、ギター持ってないときの暴れっぷり
楽しー。ステージアウトして、みなさん近藤氏注目するのだが、フロアでお客さん同士がご対面となるわけで、あれがみょーに気まずいのである。そしてオイラはそんなきまずそうなお姉さん方を見てニヤニヤ。
しょうじき、もうアレだけみれればいいや(←ザックリ過ぎ)
しかし、アンコール後に盛り上がるあのしきたりとか、一見さんにはわからない掟があるギー。フロアの真中はあけておかないといけないとか。あなどれないのだ。
そしてあたりまえだが音源もたない自分にセトリなどわかるわけがありません。許してズ。音源買うつもりはあるのでしょうか?いつまでそれで引っ張るつもりか自分でもわからないけれど。あ!エコバックは買う!あーあれはプレイグスのか。あーしかもエコバックじゃねえのか。そしてもう仇のようにすべての曲の後に「どうも、ありがとう!」と深沼氏。何押し?笑 サイコーであった。
神去なあなあ
自分が子供の頃、「かみさん」と呼ばれる人が村に住んでいた。
そういう人は全国各地にいた筈なのだけど、いまはどうなんだろう?
今はその方も亡くなってしまって村にそういう能力を持つ人はいなくなってしまった。
自分が小学生くらいだったときの話だし、自分もその家には1度しか行ったことがない。そのうえ記憶もあいまいで、その人にそのとき会ったのかどうかすら覚えていない。ただ、ばあちゃんはときどき身体の調子が悪くなるとそこに通っていた。お灸をしてもらっていたようだ。漢方とかそういうのを生業にされていたようだ。だからそっちの方が本業なわけだ。
たぶん他の村でも同じように、例えば産婆さんをされているとか、そういう人が「かみさん」を兼ねていてっていう感じだったのではなかったろうか。あたりまえだけど、女の人である場合が多い。
で、その人ははじめからそういう人だったのかというとそうではなく、修行をして「かみさん」になったそうで、いちど近くの町を車で通ってたとき、親父が「あっちの山のほうでかみさんが修行したらしい」っていうことを指さして言ってくれたことがある。
うちの親父はまったくそういうものを信じていないので、彼の母親が「かみさん」のところに行くのもあまり快くは思ってなかったようだ。神社のお守りもバカにしていた。しかし、それもばあちゃんが生前だったときの話で、ばあちゃんが亡くなったのがよほどこたえたらしく、今では朝晩仏壇でお経を唱えていたりする。生きているときはほとんど毎日口喧嘩してたのにである。日頃、嫌いだとか信じていないと言ってる人、とくに毛嫌いしている人のほうがなにかの拍子にコロっと宗旨替えするのかもしれない。それはともかく。
紀伊半島では山岳信仰が盛んで、有名な熊野古道がある熊野だけではなく、京都から熊野に至るまでたくさんの修行場というか、その跡が残っている。それらは、自分が子供の頃はじいさんかばあさんかあるいは近所の年寄りの誰かが、「ああー、あそこはのぉ~」って感じで知ってたのだろうけど、今はそういうことを知っている人はいなくなってしまった。知ってそうなお寺の住職も代替わりして久しく。そういうのは全国各地で同じで、日本はそういう深みのない国になった。
その修行に興味があったのだけどもう誰に聞いてもわからないだろう。山岳修行の流れを汲むものだと思うので、身体を酷使するものだと思うのだけれど。
その人はいろんなものが見えたのだけど普通そういう状態っていうと脳が特殊な能力を発揮するのだとおもってたけど、もしかしたら身体のほうが重要なんじゃないのだろうか。というか、ああいう能力っていうのは身体オリエンテッドな、脳のより原始的で深い層にある部分の能力なんじゃないかなあと。いわゆる大脳辺縁系でそこを活性化させるには身体を使うしかないというか。今ならfMRIのおかげで脳科学が発達してきてるから、そういうことがわかるかもしれないのに肝心のそういう仕組みが無くなってしまった。
無知と貧困はなくなったけど、一緒にそういうものもなくなってしまった、あるいはよく考えずになにもかも一緒くたに排除してしまった。
認知症の人は、この大脳辺縁系の働きが弱くなることによって引き起こされる。だから身体が弱ると余計にっていうのがあって。今認知症がすごい勢いで増えているらしい。
結局はいろんなものをトレードオフし続けているだけなのかもしれない。今求めたいものを求めることで、将来何を失うことになるのかはわからない。もっともなにを失うのかがわからないから歩を進めることができる。それが村上龍が言っている希望の実態なのかもしれない。つまり彼が求めている「希望」というのは、彼が嫌いな「無知」であることそのものなのかもしれない。だいたい自分の嫌いなものの隣に答えはいつも転がっている。
便利で快適になったのはいいけれど、自然から離れ過ぎて上っ面だけで生きているあるいは長生きしすぎてしまっている。アスファルトの上の枯葉のように、朽ちることもできずに、めんどうがられてちりとりに入れられて燃やされて終わり。後には何も残らない。私はそれでかまわないけれど、できればまともには生きたい気はする。
いちおう言っておくと、三浦しをんちゃんの『神去なあなあ日常』の舞台は、私が住んでいた村から少し高い山を越えた一つ先の村で、むかしからよく知っている場所である。その場所は、彼女のじいさんばあさんが住んでいる場所として彼女のエッセイにも出てくる。
内容的にはそこの場所の風習というより、むしろそこから熊野よりにずっといったところまでを広範囲に取材して描かれているらしいので、そのままそこの場所だけのことを描いたわけではない。自分が知ってる場所だからというのもあったけど、すごくおもしろかった。新刊でしかまだ出ていないので、図書館によく行かれるという方にお勧めしておきます。
ただ、神去とあるようにそこですらもう神は去ってしまった土地になってしまっているらしい。なあなあというのは三重の方言で、人に対する呼び掛けでもあり、語尾に親しげに「なあ」とつけるから、それを題名に使ったのだろう。「なあなあ。そうやなあ。あかへんなあ。おしげになあ」とか。歌舞伎の「なあ」と同じだろう。ちなみに、うちのばあちゃんは、蛇のことを「くちなわ」、よそ行きの服に着替えることを「しょうぞく」すると言った。どちらも古語辞典にのっている。そういう土地である。
神去なあなあ日常/徳間書店

¥1,575
Amazon.co.jp
そういう人は全国各地にいた筈なのだけど、いまはどうなんだろう?
今はその方も亡くなってしまって村にそういう能力を持つ人はいなくなってしまった。
自分が小学生くらいだったときの話だし、自分もその家には1度しか行ったことがない。そのうえ記憶もあいまいで、その人にそのとき会ったのかどうかすら覚えていない。ただ、ばあちゃんはときどき身体の調子が悪くなるとそこに通っていた。お灸をしてもらっていたようだ。漢方とかそういうのを生業にされていたようだ。だからそっちの方が本業なわけだ。
たぶん他の村でも同じように、例えば産婆さんをされているとか、そういう人が「かみさん」を兼ねていてっていう感じだったのではなかったろうか。あたりまえだけど、女の人である場合が多い。
で、その人ははじめからそういう人だったのかというとそうではなく、修行をして「かみさん」になったそうで、いちど近くの町を車で通ってたとき、親父が「あっちの山のほうでかみさんが修行したらしい」っていうことを指さして言ってくれたことがある。
うちの親父はまったくそういうものを信じていないので、彼の母親が「かみさん」のところに行くのもあまり快くは思ってなかったようだ。神社のお守りもバカにしていた。しかし、それもばあちゃんが生前だったときの話で、ばあちゃんが亡くなったのがよほどこたえたらしく、今では朝晩仏壇でお経を唱えていたりする。生きているときはほとんど毎日口喧嘩してたのにである。日頃、嫌いだとか信じていないと言ってる人、とくに毛嫌いしている人のほうがなにかの拍子にコロっと宗旨替えするのかもしれない。それはともかく。
紀伊半島では山岳信仰が盛んで、有名な熊野古道がある熊野だけではなく、京都から熊野に至るまでたくさんの修行場というか、その跡が残っている。それらは、自分が子供の頃はじいさんかばあさんかあるいは近所の年寄りの誰かが、「ああー、あそこはのぉ~」って感じで知ってたのだろうけど、今はそういうことを知っている人はいなくなってしまった。知ってそうなお寺の住職も代替わりして久しく。そういうのは全国各地で同じで、日本はそういう深みのない国になった。
その修行に興味があったのだけどもう誰に聞いてもわからないだろう。山岳修行の流れを汲むものだと思うので、身体を酷使するものだと思うのだけれど。
その人はいろんなものが見えたのだけど普通そういう状態っていうと脳が特殊な能力を発揮するのだとおもってたけど、もしかしたら身体のほうが重要なんじゃないのだろうか。というか、ああいう能力っていうのは身体オリエンテッドな、脳のより原始的で深い層にある部分の能力なんじゃないかなあと。いわゆる大脳辺縁系でそこを活性化させるには身体を使うしかないというか。今ならfMRIのおかげで脳科学が発達してきてるから、そういうことがわかるかもしれないのに肝心のそういう仕組みが無くなってしまった。
無知と貧困はなくなったけど、一緒にそういうものもなくなってしまった、あるいはよく考えずになにもかも一緒くたに排除してしまった。
認知症の人は、この大脳辺縁系の働きが弱くなることによって引き起こされる。だから身体が弱ると余計にっていうのがあって。今認知症がすごい勢いで増えているらしい。
結局はいろんなものをトレードオフし続けているだけなのかもしれない。今求めたいものを求めることで、将来何を失うことになるのかはわからない。もっともなにを失うのかがわからないから歩を進めることができる。それが村上龍が言っている希望の実態なのかもしれない。つまり彼が求めている「希望」というのは、彼が嫌いな「無知」であることそのものなのかもしれない。だいたい自分の嫌いなものの隣に答えはいつも転がっている。
便利で快適になったのはいいけれど、自然から離れ過ぎて上っ面だけで生きているあるいは長生きしすぎてしまっている。アスファルトの上の枯葉のように、朽ちることもできずに、めんどうがられてちりとりに入れられて燃やされて終わり。後には何も残らない。私はそれでかまわないけれど、できればまともには生きたい気はする。
いちおう言っておくと、三浦しをんちゃんの『神去なあなあ日常』の舞台は、私が住んでいた村から少し高い山を越えた一つ先の村で、むかしからよく知っている場所である。その場所は、彼女のじいさんばあさんが住んでいる場所として彼女のエッセイにも出てくる。
内容的にはそこの場所の風習というより、むしろそこから熊野よりにずっといったところまでを広範囲に取材して描かれているらしいので、そのままそこの場所だけのことを描いたわけではない。自分が知ってる場所だからというのもあったけど、すごくおもしろかった。新刊でしかまだ出ていないので、図書館によく行かれるという方にお勧めしておきます。
ただ、神去とあるようにそこですらもう神は去ってしまった土地になってしまっているらしい。なあなあというのは三重の方言で、人に対する呼び掛けでもあり、語尾に親しげに「なあ」とつけるから、それを題名に使ったのだろう。「なあなあ。そうやなあ。あかへんなあ。おしげになあ」とか。歌舞伎の「なあ」と同じだろう。ちなみに、うちのばあちゃんは、蛇のことを「くちなわ」、よそ行きの服に着替えることを「しょうぞく」すると言った。どちらも古語辞典にのっている。そういう土地である。
神去なあなあ日常/徳間書店

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はじめの1っぽ、もーらった。
子供の頃っていうのは生きてる実感があった。
あきらかなそれを失くしたのはいつのことなのだろうか。
子供のころは指を折りたたみながら数を数えていた。
前に人を点呼する機会があって、指さしながら数えていて、なんだか妙にその行為に実感があったなあと今思い出した。そういえば、小学校のときにはしきりになにかを数えていたような気がする。体を使って。遊びにしろ授業にしろ、そういう機会があった。
だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ
園子温監督の映画を見ていて、「この人はなぜこういう映画を作らなければならないのだろう?」と考えていて、山田太一氏が言っていたことを思い出した。
今は、現実感がいろんなレベルで飛び交っているけれど、どの現実感に対しても、どうもいまいち自信がもてないし、自分を安っぽいと感じている。だから、本当にすごい人や事が出てくると、自分の安っぽさがこたえてしまう。なんだか、自分は現実的に生きていない、安っぽく生きているという思いがしてくる。
そういう状況を悲鳴のように書けないかと思ったのです。
それに対して、河合隼雄氏は、「軽薄さから下りようと思ったら、この小説(山田太一の『遠くの声を捜して』)の主人公のように病の世界になると。現代は病的な世界に入っていかないと、真実を描けないのと違いますかねと。体の病もあるし、精神的な病の場合もありますが、病はネガティブであると一般的には評価されているけど、ネガティブであるほうが安っぽくないという面もある。ただし、ネガティブへの下り方を間違うと…
そうかオウムってそういうことか。。村上春樹の1Q84もそうなのだ。
ああ、なんだ今でもその状況は変わってないだけだと。園子温監督も同じで、なんとか軽薄さから下りようとしている。だからこんなふうに悲鳴のように物語を書かなくてはいけないのだと。無茶苦茶なネガティブさとか、極端な状況を設定しなくちゃいけない。劇団の舞台のような。
一方で、北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海』を見ていて。これは耳が聞こえない主人公なのだけど、その設定によって余計に映画に身体性がそなわっていて。
それがいちばんわかりやすいのは時間の流れで、カットの作りかたもストーリーもそうなんだけど、そこに良さが凝縮していて、観客にそれが体感できる、身体で時間を感じられるというか、自分にもあったそういう体験を追体験する。「あーあ、やっちまったよ、オレ」っていうあの間延びした時間とか。
だから、安心してみれたのだと思う。そうなんだよ、多分そういうことなのだ。身体性だったのだ。
どうも自分の薄っぺらさが気になってたから、それをマスコミやら他人に背負わせていただけで、結局は自分が身体性を失ってたのである。なんのことはない。だからずっと手ごたえがあるものを探していたのだけど、そんなものが人様のところにあるわけがなく、それは自分の中にしかない。
1足す1は2である。そうでない世界に囲まれて生きていると、なんでもできるような気がしてしまうのだけど、自分自身の身体はそうではない。そんなあたりまえのことをずぅーと、ずぅーと、ずぅーーーと忘れていたような気がする。自分の1歩は1歩でしかないのだ。
さて、しかし、それがわかったところで、これからどうしたものかしら。
※1Q84
1Q84の身体性について書いておくと、あの物語で身体性を与えられているのは青豆だけで、だから青豆によって虚構の世界から助け出されるという構造になっている。
村上春樹が走ることが好きなのも、もしかしたら好きだからではなく、そういう無意識からの要請なのかもしれない。あるいは物語を書くことに対するバランスなのかも知れない。
あきらかなそれを失くしたのはいつのことなのだろうか。
子供のころは指を折りたたみながら数を数えていた。
前に人を点呼する機会があって、指さしながら数えていて、なんだか妙にその行為に実感があったなあと今思い出した。そういえば、小学校のときにはしきりになにかを数えていたような気がする。体を使って。遊びにしろ授業にしろ、そういう機会があった。
だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ
園子温監督の映画を見ていて、「この人はなぜこういう映画を作らなければならないのだろう?」と考えていて、山田太一氏が言っていたことを思い出した。
今は、現実感がいろんなレベルで飛び交っているけれど、どの現実感に対しても、どうもいまいち自信がもてないし、自分を安っぽいと感じている。だから、本当にすごい人や事が出てくると、自分の安っぽさがこたえてしまう。なんだか、自分は現実的に生きていない、安っぽく生きているという思いがしてくる。
そういう状況を悲鳴のように書けないかと思ったのです。
それに対して、河合隼雄氏は、「軽薄さから下りようと思ったら、この小説(山田太一の『遠くの声を捜して』)の主人公のように病の世界になると。現代は病的な世界に入っていかないと、真実を描けないのと違いますかねと。体の病もあるし、精神的な病の場合もありますが、病はネガティブであると一般的には評価されているけど、ネガティブであるほうが安っぽくないという面もある。ただし、ネガティブへの下り方を間違うと…
そうかオウムってそういうことか。。村上春樹の1Q84もそうなのだ。
ああ、なんだ今でもその状況は変わってないだけだと。園子温監督も同じで、なんとか軽薄さから下りようとしている。だからこんなふうに悲鳴のように物語を書かなくてはいけないのだと。無茶苦茶なネガティブさとか、極端な状況を設定しなくちゃいけない。劇団の舞台のような。
一方で、北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海』を見ていて。これは耳が聞こえない主人公なのだけど、その設定によって余計に映画に身体性がそなわっていて。
それがいちばんわかりやすいのは時間の流れで、カットの作りかたもストーリーもそうなんだけど、そこに良さが凝縮していて、観客にそれが体感できる、身体で時間を感じられるというか、自分にもあったそういう体験を追体験する。「あーあ、やっちまったよ、オレ」っていうあの間延びした時間とか。
だから、安心してみれたのだと思う。そうなんだよ、多分そういうことなのだ。身体性だったのだ。
どうも自分の薄っぺらさが気になってたから、それをマスコミやら他人に背負わせていただけで、結局は自分が身体性を失ってたのである。なんのことはない。だからずっと手ごたえがあるものを探していたのだけど、そんなものが人様のところにあるわけがなく、それは自分の中にしかない。
1足す1は2である。そうでない世界に囲まれて生きていると、なんでもできるような気がしてしまうのだけど、自分自身の身体はそうではない。そんなあたりまえのことをずぅーと、ずぅーと、ずぅーーーと忘れていたような気がする。自分の1歩は1歩でしかないのだ。
さて、しかし、それがわかったところで、これからどうしたものかしら。
※1Q84
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村上春樹が走ることが好きなのも、もしかしたら好きだからではなく、そういう無意識からの要請なのかもしれない。あるいは物語を書くことに対するバランスなのかも知れない。