象の夢を見たことはない -131ページ目

宇宙人ポール

『宇宙人ポール』を観ている。



はるばるイギリスからアメリカのコミコンにやってきたコミックオタク2人。ついでに訪れたエリア51でモノホンの宇宙人ポールと遭遇。もののはずみで彼を追う謎の集団から共に逃げるはめとなる。途中で宿泊したモーテルで、ガチガチのキリスト信者ルースを巻き込んで、3人と一匹の珍道中が始まった。

なんて話。エリア51の話は最近なぜかニュースでよく見るのだが、まったくのウソだったっていうことが発覚した例の話で、それを下敷きにしたコミカルな映画となっている。
コミコンにやってくるイギリス人っていう設定からして笑えるのだが、アメリカの田舎によくいそうなあの熱烈なキリスト信者すらキリスト教というサブカルチャーの熱心な愛好家風になっちゃっているところも含めて、笑い話でありながら結構ヒネってある。

最近のアメリカのSF映画って、ひと頃のぶっとびSFX技術を見せて観客を魅了するっていうのから遠く離れて、いかにそれらを練って見せるかっていうのが流行りで、例えば『第9地区』だとかひねったストーリーで人間風刺をチラリとはさむって感じになっているらしく。

ところでこの中でキリスト教信者もギーク扱いなのだが、田舎に住んでいたり、あるいは都会に住んでいても社会から一種隔絶されているオタクたちっていうのは、カタチを変えて日本にもいるわけで、そう考えると、おなじようなストーリーで日本にいるギークたちを笑い話に昇華できるような気がする。その彼らのある種の本気具合がドンキホーテ的な悲喜劇で。

そういえば、村上龍がJMMで韓流ドラマを見て憤っていた。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report24_2843.html

それはやはりドラマであって、「韓国っていうのはそういう国なのか」と思っている感じが、昼メロを見て憤るオッサンの悲哀をかもしてたのだけど、村上龍に限らず、テレビを信じて育った世代のどうしようもない条件反射というか、そういう60代、70代の人たちって結構いるんだろうなあ。

日本人が共通の価値観を持っていた時代。そういう世代の人たちって、たとえば子供が残虐なことをするっていうニュースみてもすべての子供たちが同じではないってことがわからなくなっているらしく。世間から離れてしまっている自分自身がズレてしまっていることを認識することなく、その価値観ですべてを…っていう。

それってある意味、この映画と同じで、問題はどうやらそれをコミカルに描くことすらできないくらい、そういう人たちが増えてしまっているってことらしい。いまの政治家とかほとんどこういう世代の人たちなわけで、しょうじき今度の選挙でどうなることやら笑。

ん?あひらめき電球、敬老の日だった苦笑

ご一緒に楽しみましょう by 水野晴郎風

言霊

たとえば絵画であったり音楽であったり。

よく文学者だったり、小説家だったりが「人間は何かを理解するのは言葉による。言葉を理解することによって事象を理解するのだ」なんてことを言う人がいるのだけれど。

基本的に動物はなにも理解してないと彼らは思っているのかどうかわからないけれども、動物も生きていく上でいろんな理解をしている筈であって、また、抽象的な理解についても、いろんな経験をすることによって、記憶の枠組みができ、その枠組みを使って応用的に状況を判断しているわけで。なにも人だけが抽象的な理解をしているわけであるまい。

われわれは、対象や単独の事象をカテゴリー化するだけでなく、物理的状況の全体や楽音の時間配列を一般化し、カテゴリー化する。異なるときに生じた複数の異なる状況に共通の側面があると思われるとき、やがてそうした状況は平均化されて1つの抽象的な記憶の枠組みとなる。異なる経験が持つ共通のこうした枠組みは「スキーマ」と呼ばれる(from 『音楽と記憶』)

音楽と記憶―認知心理学と情報理論からのアプローチ/ボブ スナイダー

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飛球の落下点に入ってボールをキャッチするのは言葉によっての理解に依らない。絵を理解するのもそう。直観やひらめきは非言語的な物事の理解だ。言葉は不完全で万能ではない。人が事象を理解するためのツールの1つでしかない。 はなはだ、おたんちんな奴だなあと。そう思っていたのだけれど。

一方で詩というものがある。

小林秀雄がこういうことを書いている。

万葉詩人は「言絶えてかく面白き」と歌っていますが、言霊を得るためには、まず言葉ではどうしても表現できない或るものが見えていなければいけないのです。赤人は富士山を見て、言語に絶する「言絶えて」珍しく面白き富士山の美しさを見た。到底言葉で言い現すことは出来ぬ。だが、これを言葉にしなければならぬ。そこに詩人の本当の技巧がある。苦しみがある。そういう苦しみを通じないと、詩人は決して存在に肉薄することは出来ぬ。従って言葉は物とならぬ
(from 『文学者の提携について』)

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)/著者不明

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「言葉を物とする」という言葉を聞いて、ハッ!と。これってかなり衝撃的で。
言葉を非言語的に掴み直すというか、言葉の先祖返りというか。そうすることによってはじめて言葉というのは魂を持つ。明らかに小林秀雄は言霊というのはそういうものだと言っている。

ということは、言葉によって非言語的な事象を掴まえる方法っていうのもあるってことで、それはもちろん論理的な説明のような方法では不可能な方法であって。いずれにせよ言葉のその可能性っていうのは、自分が思っている以上にすごいことなのかもなあと思いなおしたわけである。まる。

インフレーション

またもや『脳には妙なクセがある』の中から、大脳と旧脳のおはなし。

$ニャンちゅうなブログ-脳には妙なクセがある

大脳新皮質は旧脳と比べて、身体性が希薄で、解剖学的にみても身体との直接の連携をもってないらしい。旧脳というのは、脳幹や小脳、基底核の部分で身体と深い関係を持っている。

池谷氏の考えによると、もともと大脳は旧脳の予備回路あるいはターボ的なものとして生まれた新参者だったのだが、人ではその大脳の発達が顕著で、大脳新皮質が旧脳以上に拡大して、上下関係が逆転してしまった。従来は、身体感覚→脳→身体運動そして身体運動→身体感覚へのフィードバックというループを作っていたのだけれど、脳だけでループできるようになり、横着して脳内だけでループできるようになった結果、演算とか高度な抽象思考とかができるようになった。それにより、人は他の動物に対し優位な地位を占めることができるようになった。ということらしい。

シミュレートすることによって、時間を短縮する。複数のパターンを計画してそれを実地に試してみる。科学というのは比較することでその差分によって発達してきた学問で、その比較するために実験する時間が短ければ短いほど、そして比較対象と事象の同定のための検体数が多ければ多いほど発達の度合は早くなる。ショウジョウバエが遺伝実験に古くから用いられてきたのは、その回転が速いからで、いまでは遺伝子工学によって大腸菌、果てはそのなかに埋め込むプラスミドなどによるDNA直接操作によって、その回転速度も検体数も実験の範囲も極端に増えた。

それに加えてコンピュータの発達により、その一部をシミュレーション予測して実験自体を肩代わりさせることができたりするようにもなった。考えてみれば、この科学の発達のインフレーション度合いというのは、ドラゴンボール並みかそれ以上かもしれない。

科学の場合は、すくなくとも実験と検証というボディを持っている。そうでないものってどうなんだろう?と考えて浮かんだのがこの大脳のなかでのループである。それが現実との接点を持っている場合はまだよいが、それだけでループを始めると現実と切り離された異常なインフレーションが始まる。

一体その異常なインフレーションはどういう決着をつけられるのだろうか?
ドラゴンボールってどうなったんだっけ?

ちなみにドラゴンボールのようなインフレーションを起こす物語というのは大昔からある。そういう昔の物語を下敷きにして文学というものがあった時代もあったらしいのだけど、そういう文学の歴史は夏目漱石あたりでばったり終わってしまったらしい。いかにも今書かれている小説はオリジナルだっていうふうに思われていても、とうの昔に同じようなことを考えた人はいるかも知れないのに、それが断絶してしまっていることでなんだか悲しい状況になっている。私小説というものの功罪っていうのは思ったより大きいのかもしれない。それはまあ置いておこう。

中島敦の小説に『名人伝』っていうのがあって、そこにパワーインフレの話がある。原典は『列子』なのだそうだ。

ある人が弓の名人になろうと志を立て、名人の元に弟子入りするために何年もかけて特訓し、晴れて弟子入りを認められた。そして師匠と同等になるに至り、さらに「わしの技は彼と比べたら児戯に等しい」と師匠自らに言わしめる仙人のもとに弟子入りする。そしてさらに精進を重ねた結果、彼の心と技は弓からもはなれ、ついには弓そのものが何かということすらわからなくなる。
もはや仙人の域に達した達人である彼のその話を聞いた都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟(しつ)の絃を断ち、工匠は規矩(きく)を手にするのを恥じたということである。

そういう話である。まあ中島敦なのでどこかに皮肉ななにかが入っていてそのまま列子の物語と同じではないとは思うのだが、それにしてもこの弓を忘れるという話、なにを示唆しているのか。自分に引き取って考えるとなかなか難しいのである。

中島敦、性格はまったく違うのだろうけど、結構自分に似ていると思えるところがあってすごく気になる。彼ほどの尊大な羞恥心は持っていないつもりだけれど、結局考えすぎで体が動いとらんのだ!いや、でも羞恥心も同じだな。なんだかんだと周り気にし過ぎ。自分も臆病なのだ。中二だ。

李陵・山月記 (新潮文庫)/中島 敦

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Sadistic Summer 

さらわれたい夏

「きゃー、人さらいー!」
っていうセリフが昔あったような気がする。昭和の頃だ。実際に聴いたことはない。

考えてみれば、いろいろ不思議なうわさが流れていた子供時代。
「こないだ、どこだかの家でガラスが盗まれたんやて。」どうやら、家の窓のガラスを切って盗っていくという空き巣がいた。らしい。らしいというのは親のうわさ話だったからだ。だが、なぜかその話がすごく怖かった。なぜ怖かったのだろう?

空き巣という言葉もおかしい。泥棒はなんで泥と棒から出来ているのか。そっちのほうがもっと変だな。ほおかむりをした泥棒というのも見たことはないが、道でみかけたら「あっ、泥棒!」と絶対思う。それも変な話である。なんだかドリフだ。

ドリフが面白かったのは、実際に似た状況をどこかで知っていると思えたからなのだと思う。現実のデフォルメの仕方がなんだかほんとうにありそうで、そうありそうだと思う自分のバカさかげん含めて笑ってしまう。昭和だ。

インドはドリフの国だ。

PCの方は、このブログの扉の写真を見てもわかる通りである。しかもマジでドリフなのだ。だめだこりゃ。毎日がそういう連続である。ドリフと違うのは、あのチャラチャチャチャカラッチャ♪っていうハケる音楽が鳴らないことである。つまり、それはそのまま目の前で展開され続けるわけで、むしろ悪夢となるわけだ。常夏の国。サディスティック・サマー。しむら、うしろ、うしろ!

自分でなんとか対処しなければならない。あるいは、なかったことにする。
でも、結構なんとかなるのだ。なんとかならないことのほうが多いけど、なんとかなっていく。

そういう空気って大事なことなんだろうなあと最近たまに思う。生きることってそんな感じであればいいなあ。



悲鳴のようにしか聞こえないTVのニュース。
だが実際にそれが自分の身の上に起こっているわけではない。
あなたは深刻すぎるのだ。
そういうのってどうなのよと。

さらわれるのもたまにはいいのかもね。

あんしんあんしん

わたしの耳は 貝の殻 海の響きを懐かしむ

というジャン・コクトーの詩の一節。
『巨人の星』を見て知る。ジャン・コクトーかよ。

そういえば、子供の頃には海岸ブーム的なものがあったような気がする。
当時新婚旅行といえば、熱海のブームは終わっていて宮崎のフェニックス通りとか。人気の旅行先は東尋坊だの伊豆だの江の島だので、ペナントなるあやしげなみやげが全国各地に。あの崖の上で犯人を糾弾するっていう火曜サスペンスも50代以上の人達のノスタルジーでもってるようなもの?みうらじゅんからリリー・フランキーにいたるまでの世代の少年の頃のはなし。

今だに江の島にいくと、貝がべたべたはりつけられた帆船の置き物がみやげもの屋にディスプレイされていて、アレはいったいなんなんだろう?タツノオトシゴの砂時計とか。で、なんか貝殻ブーム的なものがあって、子供の頃みやげでもらった巻貝にしきりに耳をつけていたような気がする。

うーぬ、いったいあの時代はなんだったのだろう?
なんでみんながみんな、今考えるとわけのわからないものをありがたがってたのだろうか?
つくづくあの頃はみんなバカだったんだねえ。

でも結構そんな時代がなつかしい。なぜかあの頃を思うと安心する。

おっぱいぼいーん 蒼井優談